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「このままでいいはずなのに。」最終話 私、こんなこと思ってたんだ



海へ行った翌朝、美和子はいつもの時間に目を覚ました。

月曜日だった。

昨日見た灰色の海はどこにもなく、
目の前にあるのは、
洗面所に置きっぱなしになった夫の歯磨き粉と、
洗濯かごから少しはみ出しているタオルだった。

美和子は歯磨き粉を元の場所に戻した。
結局、何も変わっていない。

朝ごはんを作り、夫を送り出し、
自分も仕事へ向かった。

職場では、休んだ人の代わりを頼まれた。

「美和子さん、今日これもお願いしていい?」
「はい、大丈夫です」

口が先に答えた。
言ってから、少しだけ可笑しくなった。
海へ行ったくらいで、
人間はそう簡単には変わらないらしい。

その日の帰り、スーパーで牛乳と豆腐と豚肉を買った。
レジに並びながら、ふと昨日のことを思い出した。

海が見たい。
そう思って、本当に海まで行った。
ただそれだけなのに、不思議とまだ嬉しかった。

それから美和子は、ときどき自分に聞くようになった。

今、どうしたい?
大した答えは返ってこなかった。

眠い。
コーヒーが飲みたい。
今日は夕飯を作りたくない。
一人になりたい。
あの服を着たい。

以前なら、そんなものは
「やりたいこと」のうちに入らなかった。

自分はもっと立派なものを探していた。
これから先の人生につながる何か。
生きがいと呼べるようなものを。

けれど最近は、こういう小さなものも案外、
自分の声なのかもしれないと思い始めていた。

そんな頃、知人から少し変わったことを教えてもらった。
質問をされたら、考え込まずに答える、というもの。

三秒以内に。
意味のあることを言おうとしなくていい。
口から最初に出てきた言葉を、そのまま言えばいいらしい。

「口から出まかせでいいのよ」

「・・・それ、私には無理かも」

美和子は笑った。
考えないで答えろと言われても、何を答えるのが正解なのか考えてしまう。

「だから、それを考えないの」
そう言われて、また笑った。

試しにやってみることにした。

「今、どうしたい?」
「寝たい」

すぐに出た。
二人で笑った。

「今、何を我慢してる?」
「仕事」

美和子は一瞬、黙った。
仕事?
嫌いではない。
長く続けてきたし、職場では必要とされている。
給料も悪くない。
どういう意味だろう。

そう考え始めたところで、次の質問が来た。
「今、何が一番怖い?」

「お金がなくなること」
これは早かった。

「今、やめたいことは?」
「いい人」

言ったあとで、美和子は自分の口を手で押さえた。
「え?」
思わず笑った。

「私、今、いい人って言った?」

誰も答えなかった。
ただ、次の質問が来た。

「本当は何がしたい?」

少しだけ間があった。
「遊びたい」

今度は笑わなかった。

仕事。
お金。
いい人。
遊びたい。

並べてみても、何のことだかよくわからない。
仕事を辞めたいということなのだろうか。
いや、それも違う気がする。

そもそも「いい人をやめたい」とは、
どういう意味なのだろう。

美和子は意味を探そうとした。
けれど、今日はそれをしなくてもいいと言われた。
出てきた言葉を、ただそこに置いておけばいい。

それなら、と美和子は思った。

仕事。
お金。
いい人。
遊びたい。

心の中でもう一度並べてみた。
妙な組み合わせだった。

でも、知らない人の言葉ではなかった。
全部、自分の口から出てきた。

「私、こんなこと思ってたんだ」
美和子は小さく言った。

その日の夜、夫と夕飯を食べた。
テレビでは旅番組をやっていた。
どこかの温泉街を、タレントが歩いている。

夫が言った。
「こういうとこ、行きたいな」

美和子は箸を止めた。

以前なら、
「いつ行くの?」とか、
「お金かかるよ」とか、
「休み取れるの?」とか、
そんなことを言ったかもしれない。

でも、その日は、「私も行きたい」と言った。
夫がテレビを見たまま、「じゃあ行く?」と言った。

「いつ?」
「知らない」
「なによ、それ」

二人で笑った。
それで話は終わった。
結局、温泉旅行の予定は決まらなかった。

美和子の老後の予定も、もちろん決まっていない。

仕事をいつまで続けるのかも、
家のことも、お金のことも、
何ひとつ解決していない。

それでも、その夜、
布団に入った美和子は、少しだけ思った。

これからどうするかを決める前に、
私は自分が何を思っているのか、
もう少し聞いてみてもいいのかもしれない。

電気を消した。
隣では夫が、もう寝息を立てていた。

明日の朝になれば、また仕事へ行く。
たぶん誰かに何かを頼まれたら、
反射的に「大丈夫です」と言ってしまうだろう。

それでもいい。

今夜はひとつだけ、自分の知らなかった言葉を知った。
「遊びたい」

私、遊びたかったんだ…。
暗闇の中で、美和子は少し笑った。


* * *


最初から読みたい方はこちら↓



あとがき

ここまで、美和子の物語を読んでくださって、
ありがとうございました。

このお話はここでおしまいです。

さて、美和子は架空の人物です。
ただ、物語の中に出てきた
「考える前に言葉を出してみる」という対話は、
私が実際に行っているセッションをもとにしています。

未来を当てるものでも、
その人の性格を診断するものでもありません。

出てきた言葉を、
「これはこういう意味です」と決めることもしません。

ただ、
「あれ。私、こんなこと言うんだ」
そんな自分に出会う時間です。

私はこの時間を、
「口から出まかせセッション」
と呼んでいます。

少し変な名前ですよね。
でも、気に入っています。

もし美和子の物語を読んで、
「私だったら、何て答えるんだろう」
と、ほんの少し気になった方がいたら。

こちらの記事をお読みください。
興味のある方だけ来ていただければうれしいです。



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