見出し画像

【明智戦記】六月十一日「島左近」

筒井順慶を揶揄する「洞ヶ峠」を良い風に捉えてみました。
なぜ順慶は「洞ヶ峠」を決め込んだのか。名将島左近を従えながら、こういう顛末になった訳を、彼の男気ゆえの決断に転換してみました。
勝者の歴史はとかく敗者を貶める者です。合理性を問うならばよほど、この方がしっくりとくる。そう理解して読み進めて頂けると嬉しいですね。

まえがき

 光秀が本拠に選んだ勝竜寺城は、摂津・山城の境界にある小さな平城である。かつては長岡の都と言い、十年ほど禁裏を置かれたこともある。水利のいい土地で山崎津と長年呼ばれ、陸路と水路の両方に優れた地だった。

 筒井の軍勢が陣を張ったあたりは、その水利の集まる木津川の対岸だった。馬で駆ければ四半刻ほどで行ける距離だが、間に桂川と宇治川、二本の川を越えた先である。光秀を攻撃するにも支援するにも少々遠い。その距離は、そのまま光秀が順慶に指し示した、存亡を分かつ深い溝であるかのようだ。

 光秀の一団は宇治川を渡ったところで、簡易の物見櫓が建っているのを北岸から認めた。風にはためく旗指物は筒井の梅鉢である。光秀らは逡巡するまでもなく騎乗のまま川へ入った。
 こちらの騎影を確認したらしく、木津川を渡り始めると向こうからも騎馬が渡河を始めた。敵対しないことを示すためだろう、わずかに五騎ばかりが渡ってくる。両者は木津川に浮かぶ小さな砂州で落ち合った。

「おお、十兵衛様。お久しゅうございます」

 そう言ってから伝五がいるのに気付いて左手をあげたのは、筒井家の重臣島清興だった。彼の通称を左近と言う。つい先日二人は郡山で会って言葉を交わしたばかりだ。光秀はひとつ頷き乗騎の上から声をかけた。

「左近、これはどうしたことだ。順慶には信孝様を盛り立てよと伝えさせたはずだぞ」

 光秀の言葉に左近は「もとより」と答えた。左近も乗騎のまま愛用の筋兜を脱ぎ、それを小脇に抱えて光秀と対峙した。敵意のないことを表すように、表情には微笑が浮かんでいる。

「戦には与しませぬ。殿も十兵衛様の本意をお感じになられた由。しかし聞けば羽柴方は三万強、実に方々の倍数にござる。せめて対岸に軍を置き牽制したい考え。羽柴様は慎重なお方、誓詞を差し出したとは申せ、これまでの我が殿と十兵衛様の経緯を思えば完全には信用されますまい。ここに五千ほども兵を置けば、一戦局においては十兵衛様の助けくらいにはなるだろう、とそう殿は思し召しでござる」

 光秀はふうむと唸る。

「なるほど。日和見を装うのか。責めは負うまいが恥を被ることになるぞ」

 光秀は戦後に着せられることになる順慶の恥辱を思うと胸にこたえた。
 世間はとかく人を貶めたがるものだ。恩義ある光秀につかず、大義ある信孝にもつかず、この洞ヶ峠で日和見を決め込んだ意気地なしとでも言われることだろう。それは来たる新しい時代において、順慶の評判と立場を悪いものにするに違いない。

「信孝様が直接十兵衛様と対決されるのであれば、殿はもっと悩まれたでしょうな。羽柴勢の評定はこれからのようですが、数が一番多いのは羽柴勢。この戦の総大将は羽柴様となるでしょうから、我が殿も意地を張りたいのでございます。死地に向かう方々の辛苦に勝るものはなかろうと、我が殿のせめてもの報心でござる。お許しいただきたい」

 左近の言に光秀は目を瞑って二度ほど頷いた。長雨の小休止のような薄い晴れ間に、川べりはむせ返るような湿気に包まれていたが、この時だけは清涼な風が吹き抜けて、人々にさっぱりとした空気を運んできた。

「あい判った。しかしくれぐれも淀川を越えてはならんぞ」
「…………」

 立ち去ろうとする光秀に左近はまだ何かを言いたそうにしている。今生の別れと思えばこそ光秀は少し待った。すると左近は涙を流し、これは拙者の戯言ですがと断って口を開いた。

「勝って開く未来はありませなんだか。もはや過ぎたることですが、細川様も我が殿も、十兵衛様がそう望まれたならば応じた筈でござる。それが遣わされた書状には与力罷りならぬとお達しになられた。十兵衛様が常の準備をされ戦いに臨まれれば、この日ノ本に対抗できる者はおらぬと思うておりまする。羽柴とて明智軍には百戦したところで一勝をも掴むことは能わぬでしょう。わざわざ不利を負って、この戦に勝つつもりがないのは判り申した。ですがその訳はなんでござるか。拙者の狭い器量では到底推し量ることすらできませぬ」

 静かに涙を流しながら左近は低い声で振り絞るように言った。
 直臣たちが聞きたくとも尋ねられなかったことだ。光秀が何と答えるか、内蔵助は無論、伝五も固唾を飲んだ。木津川の流れと馬の嘶く声だけがあたりに湛えられている。

 光秀はよい機会かもしれないと思いなおし、伝五らを一瞥したあと左近にじっと目を向けた。

「左近、お主の言う通り戦に勝つ方策はいくらでもある」
「おお、やはり……」

 左近はにやりと嗤う。その様子に光秀も愁眉を開く。

「だが、上様を殺した儂に上様の後をおって政を執るには時間が足りぬのよ。羽柴を斃せば柴田が来る。その次は滝川だ。その後も旧主の仇討を名目に、次々と挑んでくる者がやまぬであろう。そうして家中を平らげた後は? 毛利、北条、上杉、戦わねばならぬ敵はまだまだおる。途方もない話だ。そうしているうちにこの日ノ本は疲弊し外敵に足元を掬われることになる」

 一息に話すと光秀は一旦口を噤んだ。手綱を取っていた右手を離して何度か握ったり開いたりを繰り返した後、開いた手のひらに視線を落とす。時折強く吹く江風かはかぜが渡ってきて、煽られた馬らがたたらを踏んで嘶く。光秀は再び左近に視線を戻した。

「儂は古い約定に従い上様を討った。ほかの誰にもできぬであろうから儂が討った。織田家が日ノ本を毀してしまうその前にな。上様の後に国を治めるのは、上様を殺した儂を斃す者の権だ。その者の力量を量るために戦うのが儂の役目。それに……」

 そこで光秀もにやりと嗤った。

「それに主殺しは疲れるぞ。こんなにも疲れたのは、道三様に仕えていた以来での」

 終わりまで話すと光秀は黙る左近には構わず、来た道を戻るために馬に喝を入れた。黙っていたことを全部話した。二度と口にすることはないだろう。
 連日の雨で水嵩の増している木津川を戻りながら、光秀は山というには威厳の欠ける小高い丘に目をやった。今朝、配下の太郎左と掃部を行かせて陣を張った天王山である。今は遠くに旗指物が立つのが見える。
 ふと振り返ると左近はまだ砂州にいてこちらを見送っていた。

「伝五」

 呼ぶと伝五はすぐに小さく返事をして馬を寄せた。

「天王山に登らせた太郎左と掃部を山から降ろせ。陣は張ったままで構わん」

 主君の指示に伝五はすぐに返事をすると駆け戻っていった。
 駆け去る伝五の背を見つめながら、光秀の脳裏には全軍の配置と算段が見えている。いま光秀の目には、間近に迫った戦の流れが見えていた。

いいなと思ったら応援しよう!

那加瀬 晶 最後まで読んでいただき、ありがとうございます 「良かったな」と感じてもらえたら、ぜひサポートお願いします! これで創作の燃料「コーヒー」がたくさん飲めます!笑