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人を救いたいという気持ち ―メサイアコンプレックスについて考える



「困っている人を助けたい。」

この気持ちそのものは、とても尊いものです。

困っている人に手を差し伸べること。
誰かの力になろうとすること。

社会は、こうした善意によって支えられています。

しかし、その善意が少しだけ行き過ぎることがあります。

今日は「メサイアコンプレックス」という考え方を紹介したいと思います。

メサイアコンプレックスとは


メサイア(Messiah)は「救世主」という意味です。

メサイアコンプレックスとは、

「自分がこの人を救わなければならない。」

という気持ちが強くなりすぎてしまう状態を指します。

これは医学的な診断名ではありません。

心理学やカウンセリングの場面などで用いられる概念です。

もちろん、本人は「自分は救世主だ」と思っているわけではありません。


むしろ、

「放っておけない。」

「私が何とかしなければ。」

そんな優しさから始まることがほとんどです。

優しさは、ときに相手を苦しめる

私たちは、「困っている人は助けるべきだ。」

と教えられて育ちます。

もちろん、それは大切な価値観です。

ただ、人を助けることと、人を救おうとすることは少し違います。

たとえば、相手が頼んでもいないのに問題へ介入したり、自分の時間や健康を犠牲にしてまで支え続けたりすることがあります。

そして、

「これだけ頑張ったのに。」

「どうして変わってくれないの。」

そんな失望や怒りを感じてしまうこともあります。

善意から始まったはずなのに、いつの間にか苦しさへ変わってしまうのです。

本当に相手のためなのだろうか


ここで少し立ち止まって考えてみたいことがあります。

私たちは、

「相手のため。」

と言いながら、本当に相手のためだけに行動しているのでしょうか。

もちろん、多くの場合はそうでしょう。

しかし、人は誰でも、

「ありがとう。」

「あなたがいて助かった。」

と言われるとうれしいものです。

つまり、人を助けることには、相手のためだけではなく、自分自身の心を満たす側面もあります。

これは決して悪いことではありません。

ただ、それに気づいているかどうかは大きな違いになります。


社会学が教えてくれること


社会学では、人はさまざまな役割を担って生きていると考えます。

教師、医師、看護師、福祉職、親。

これらは「支える人」の役割です。

しかし、専門職ほど共通して大切にしていることがあります。

それは、

「相手の自立を支援すること」

です。

援助とは、相手を自分に依存させることではありません。

最終的には、自分がいなくても歩いていけるようになることを目指します。

ここに、援助と救済の違いがあります。

相手には「変わらない自由」もある

私たちはつい、

「この人はこうした方が幸せになれる。」

と思ってしまいます。

でも、その人の人生を決めるのは、その人自身です。

変わる自由があるように、変わらない自由もあります。

相手を尊重するとは、その選択を受け止めることでもあります。

もちろん、必要なときには手を差し伸べる。

しかし、その人の人生まで背負わない。

この距離感は、とても難しいものです。

「救う」よりも「支える」


私は、「救う」という言葉よりも、「支える」という言葉のほうが好きです。

救うという言葉には、上下関係が生まれやすいように感じます。

一方、支えるという言葉には、隣を歩くような響きがあります。

相手の力を信じながら、必要なときだけ手を貸す。

そのほうが、長い目で見れば、相手にとっても、自分にとっても健全な関係になるのではないでしょうか。

誰かを助けたいと思う気持ちは、とても大切です。

だからこそ、その優しさが、自分自身や相手の自由を奪っていないか、ときどき振り返ってみる。

メサイアコンプレックスという考え方は、「人を助けることはいけない」と教えてくれる概念ではありません。

むしろ、「より良い援助とは何か」を考えさせてくれる概念なのだと思います。