『Pull My Daisy』(1959)ロバートフランクとケルアックの短編映画 in NewYork
『Pull My Daisy』(1959)は、20世紀を代表する偉大な写真家ロバート・フランクと画家アルフレッド・レスリーが、ケルアックやギンズバーグらビートニクの仲間たちと共に製作した30分の短編映画。
この映画を観ていたら、ぼくが20年前に住んでいた北京を思い出した。
欧米から来た留学生のホームパーティーに招待されて行ったことが何度かある。
欧米人にとって、パーティーカルチャーは欠かせない社交の場なのだ。
場所は、学校の寮や近くのボロアパートの一室。
様々な人が来ては、帰って。
真夜中まで、爆音で音楽をかけて飲んで、喋って、踊って。
大抵、堪忍袋の尾が切れた近隣住民の怒鳴り声と警察の奇襲攻撃で
パーティーは、幕を閉じる。
映画の話に戻ろう。
ナレーションは、ケルアック本人。
(ナレーションというより、活弁…笑)
ソファーに座るギンズバーグが、なんか可愛い。
ロバートフランクが撮った映像は初めて観たけど
構図は、やっぱりロバートフランク。
物語はあるのだが、ビートな仲間たちを映した
貴重なドキュメンタリーでもある。
けれど、脚本家ケルアックも負けていない。
部屋で、ジャズの即興演奏が始まったり。
オチまでついて。
スクリーンにケルアックの姿を探したけれど
どうやら、出演はしていないようだ。
その代わり、こんなのを見つけた。
ケルアックが3週間で書き上げ今でも伝説的な小説として読み継がれている『路上』が出版されたのが1957年だから、この映画は、その印税でロバートとともに作ったのかもしれない。
ニューヨークで当時のビートニクの面影を感じたい方は
こちらの本もおすすめ。
ケルアックやギンズバーグ他、ビートニクな芸術家たちが
過ごしたニューヨークというエネルギッシュな街の面影を辿るには
とても良いガイドブック。
彼らが通っていたコロンビア大学から始まり、グリニッチヴィレッジ、イーストヴィレッジ、マンハッタンなど8カ所に分けて、彼らが飲んでいたバーや詩の朗読会を開いた本屋などの地図や彼らの残した言葉とともに詳細に記されている。
ニューヨークに久しぶりに行きたくなった。
ロバートフランク Robert Frank(1924–2019)
代表作はなんと言ってもこれ「The Americans」。不朽の名作である。
この写真集の序文をケルアックが書いている。(↓末尾に序文の訳)



MOMA https://www.moma.org/artists/1973-robert-frank
このショットを観てほしい。
ジム・ジャームッシュ『ダウン・バイ・ロー』(Down by Law)
のオープニング。
溝口健二『雨月物語』での湖上シーンに匹敵するくらい素晴らしい長回し。
ロバートフランクの影響をモロに受けている。
別に悪いことじゃない。芸術とは、そういうものだと思う。
トムウェイツのかすれた歌声も撮影監督ロビー・ミューラー(Robby Müller)のカメラに映るニューオリンズの街としっかりシンクロしていて、一気に物語の世界に引き込まれてしまう。
ちなみに、このジャケット写真は、ロバートフランクでなく、
スウェーデンの写真家
アンデルス ・ペーターセン Anders Petersen
ロバートフランクは、色々な芸術家に影響を与えたすごい写真家。
ケルアックだって、そうだ。
でも、2人が一緒に映画を撮っていることは知らなかった。
『アメリカ人たち』
序文 ジャック・ケルアック
あのクレイジーなアメリカの感覚──街路に太陽が照りつけ、ジュークボックスや近くの葬儀から音楽が流れ出すときのあの感覚──それをロバート・フランクは見事に捉えた。彼はオンボロの中古車で(グッゲンハイム奨学金によって)、約48州を旅しながら、機敏さ、神秘、天才、悲しみ、そして影のような奇妙な秘密性をもって、これまでフィルムに収められたことのない光景を写真に写し出したのだ。そのため彼は間違いなく、この分野の偉大な芸術家として称賛されるだろう。
これらの写真を見たあと、人はもうわからなくなる──ジュークボックスが棺よりも悲しいのか、それとも棺のほうがジュークボックスより悲しいのか。なぜなら、彼はジュークボックスと棺を撮り続けているからだ。その間に横たわる謎もある──ミシシッピ川の明るい液体の腹の下で、なぜか夕暮れか夜明けにしゃがみ込む黒人牧師。白い雪のような十字架と、川の外では誰も知らぬ秘密の呪文。あるいはカフェの椅子に差し込む太陽光が、その椅子を聖なる後光で包む写真──そんなものがフィルムに収められるとは思わなかったし、ましてや言葉でその美しい視覚の全体を描写できるとは思わなかった。
ユーモア、悲しみ、そしてすべて──アメリカらしさ、そのものが、これらの写真にはある。私は鉄道のブレーキマンとしてそんな裏庭を通り過ぎてきた──古い蒸気釜から身を乗り出す背の高いやせた男、パームの雑草の中の空き瓶、マディソン・スクエア・ガーデンの外でタバコを巻く哀れなカウボーイ。ロバートは二人のヒッチハイカーを拾い、夜の車を運転させる。矢のように伸びる夜道のロングショット。二人の顔は途方に暮れ、荒涼たる広がりに向かっている。信じがたいアメリカがそこにある。ニューメキシコの刑務所の月の下、ギターがワンワン鳴る星の下。「幻視するインディアンの天使たちだった」とアレン・ギンズバーグは言った。人々は「ああ、彼らはなんて意地悪そうに見える」と言う。だが彼らが望んでいるのはただ、道を突き進み、眠りに戻ることだけなのだ。ロバートがそれを教えてくれる。
ロサンゼルスの、みすぼらしい老婆たちが、日曜の午後に古い車の窓から身を乗り出し、後部座席の子どもたちにアメリカを説教している。クリーブランドでは、刺青の男が公園の芝生で眠りこけ、日曜の午後に風船やヨットに囲まれながら死んだようにいびきをかいている。ホーボーケンの冬、プラットフォームに政治家たちが並んでいる。皆ふつうの顔に見えるが、端にいるひとりが唇をすぼめて祈っている(おそらくあくびだろう)。誰も気にしない。杖をついた老人が、とうに壊された古い階段の下に立ちすくむ。ヴェニス・カリフォルニアでは、アメリカ国旗の天蓋の下、壊れた車のシートに横たわる男。
なんという詩だ、なんという詩が、いつかこの写真集について若い作家によって書かれるだろう。ろうそくの灯りに身をかがめ、灰色の神秘的な細部を描き出す作家によって。人類のピンク色のジュースを捉えた灰色のフィルム──それが「人間愛」だろうと「人類愛」だろうとシェイクスピアの言ったことは関係ない。ただこれらの写真を見ればわかる。見世物以上のものだ。
狂った道が前へ──孤独な道が曲がりくねり、空間の開口部へと続き、西方の幻視へと導く。ワサッチ山脈の雪、青い太平洋の星降る夜、霧に浮かぶ巨大な地形、荒野にこだまする大地の呻き。
シカゴの大会では、葉巻を持った労組ボスが、ネロのように肥え、シーザーのように熱心にささやいている。モンタナ州バットの賭場、背景には選挙ポスター、ひっくり返された小道具、まるで社説のページそのもの。サンフランシスコの丘の中国人墓地の花々が、三月の夜の霧に打たれ吹き飛ばされる。そこには誰もいない、ゴムの猫しか。
ロバート・フランク──スイス人、控えめで、優しい。片手で小さなカメラを持ち上げ、パチリと切る。そうしてアメリカから悲しい詩を吸い取り、フィルムに定着させた。世界の悲劇的詩人の列に並ぶのだ。
ロバート・フランクへ、私はこの言葉を贈る。
──君には、目がある。
そして私は言う。あの小さな孤独なエレベーターガール。ため息をつきながら見上げている。ぼやけた悪魔でいっぱいのエレベーターの中で。──彼女の名前と住所を教えてくれないか?
