量子力学の創始者たちがオカルト、スピリチュアルに共鳴した理由――科学者たちが見いだした大宇宙の神秘。
近代科学とオカルトは混ぜるな危険なのに、なぜ、よりにもよってボーア、ハイゼンベルク、シュレディンガーという量子力学の大家は、現代から見れば非科学な神秘思想に理解を示したのでしょうか? 今回のオカルト話は、量子力学と神秘思想の共通性と相違性をとりあげたいと思います😱😱
1.現代科学者がオカルトに共鳴する理由。量子力学と神秘思想の共通性。
これについてはすでに書かれたほかの方の記事があるので引用で済ませます😅
「量子力学」という分野を拓き、発展させた三人の科学者、ニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルク、エルヴィン・シュレディンガーたちは、とても奇妙なことに気がつきました。素粒子の物理学を追究していくと、驚いたことに、はるか昔の東洋の賢者たちが説いた教えに、どんどん接近していってしまうのです。
ボーアは後半生を、中国の『易経』の研究に没頭しました。彼がナイトの称号を授与され、紋章の図柄を選ぶ段になったとき、迷わず『易経』の陰陽のシンボルである「太極図」を用いたのは有名な話です。彼の墓所には、いまでもそれが飾られています。
ハイゼンベルクは、インドの著名な詩人タゴールに「インド哲学」を学びました。そしてその内容が「量子力学」の真髄に通じていることに気がつきました。
シュレディンガーも、著書の中で「量子力学」の基礎になった彼の波動方程式が、ヒンドゥー教の経典である『ヴェーダ』の諸原理を記述している、と語っています。
シュレーディンガーの哲学は、個体性を相対化する方向に向かっていた。彼の講演集『自然とギリシア人』や、『精神と物質』などの著作では、ヨーロッパの自然科学の歴史を参照しながら、近代的な主体と客体の分離が、いかに自然の本来の姿を損ねているかを批判している。そして、その批判の先にあるのは、インド哲学、特にウパニシャッド思想への親和であった。彼はヴェーダンタの「一者」の思想──この世界のあらゆる存在は、究極的には同一のものから生まれ、またそこに還っていく──に深く共鳴していた。
その思想の原点は、リグ・ヴェーダに見られる「一(エーカム)」の概念にある。「存在であれ非存在であれ、初めにあったのは一なるもののみ」という詩句に表されるように、ヴェーダは世界の多様性の背後にある単一性を見据えていた。これはギリシアのプラトン的世界観とは異なり、実体的な二元論に回収されることなく、すべてが内在的に一つであるという直観を示している。シュレーディンガーはこうした思想に、西洋哲学には欠けがちな統一的世界像を見出したのだった。
彼の波動関数の描く「世界」は、決して無数の粒子の集合ではなく、より深い次元で結ばれた一つの流動体のようでもある。この「一者」の思想は、同時に彼の倫理観とも重なっていた。世界が一つであり、自己と他者が究極的に隔てられた存在ではないとするならば、他者への関心は自己保存の延長として生まれる。すなわち、「世界の苦しみは、わたしの苦しみである」とする認識は、感情的共感というより、存在論的な前提に基づいている。
また、ヴェーダの宇宙観に通底する「呼吸としての宇宙(プラーナ)」のイメージは、シュレーディンガーの波動的宇宙にも響いている。世界は物質と非物質、思考と存在が断絶することなく流動しつづける。西洋科学における「分割」や「測定」の思想とは異なり、インド哲学は全体性のうちに部分を包みこむ。そしてそれは、シュレーディンガーが波動方程式の背後に直観していた、言語化できぬ「一つのリズム」のようでもある。
ここからのシュレーディンガーは以前にもまして独創的になっていった。非決定論的な動向を「私」という一個の生命体にあてはめてみたのだ。そして、「私」が大きくは決定論的な自然法則に従っていることと、にもかかわらず「私」がその自然法則の支配者にも操作者にもなっていないこととのあいだに、何がおこっているかを考えた。
このとき浮上してきたのがインド哲学における「梵我一如」の思想だった。大なるブラフマン(梵)と小なるアートマン(我)が一如に相応しあっているという思想だ。ピンときた。ミクロコスモスとマクロコスモスはどこかで相応関係をもっているということである。これは「私」と「量子レベル」を一緒に語ろうとすることだったろう。いや、もっと重要な思想も引き出した。それは多くのインド哲学理論では、「私」は複数か、もしくは複合的であるということだ。
今日ならば、この「複数の私」や「複合的な私」を、多様性と複雑性をもつ情報的自己像というふうにとらえることができるであろう。ぼくならばまさに複合的で編集的な自己像として「たくさんの私」を持ち出したい。シュレーディンガーは、そのことを量子力学とインド哲学という両極をめぐる思索から導き出した。まことにもって驚くべき推察だった。
つまり、量子力学と神秘思想はともに、自然界の本質において、観測者と対象を含む時空全体の状況が分割や分析によって切り離せない、単一不可分の全体性をもつことを想定している。両者の世界観では、観測者とその対象(認識する主体と認識される客体)、粒子と波動(個物と全体、物質と非物質)、位置と運動量(静止と運動?)といった二元的な対立や矛盾は、あくまで見かけ上のものであり、太極図に描かれる陰陽のように、互いに補い合う関係として理解される。
ボーアは「相補性」をもって非二元を量子世界の根本原理とし、ハイゼンベルクは「不確定性原理」によって、観測者と対象の関係が切り離せないことを示した。さらにシュレディンガーは、「波動関数」を通してあらゆる存在がひとつの連続体として結ばれているという直観にいたった。このように新たに拓かれた量子力学の世界像とは、御三方にとっては古代の賢人たちがすでに解明していた、全体性に基づいた自然法則の再発見なのであった。
2.量子力学と神秘思想の相違性
しかし、現代科学と神秘思想の隔たりはいまだ大きいと思われる。
量子力学という学問は、自然現象を精密に分析するなかで、エネルギーや物質が単なる物質的実体ではなく波動的な性質をあわせもち、その状態は観測者を含む時空全体の状況によって決まることも明らかにした。
この量子力学を基盤とする現代物理学は、相補性や不確定性原理の概念を導入し、決定論的で再現可能な事象のみを絶対視する従来の頑なな科学的態度をやわらげ、より包括的な世界観の統合へ向けて一歩を踏み出したように見える。これは、たしかに全体性を重んじる古代の自然観や神秘思想に近づいたとも言えるかもしれない。
しかしそれもまた、「再現可能な事象」をあつかう古典物理学に代えて、「統計的な事象」をあつかうにとどまり、分離的・部分的・数量的な理解の枠組みから抜け出せてはいない。やはりシュレディンガーの波動方法式にしても、ある初期条件の下の方程式の解として世界を定式化し、自然の理解を機械的で再現可能なものに限定している。定式化された法則にしたがって生起する事象は再現可能な現象に限られるため、統計的にもあつかえない本質的に一回的で不可逆な出来事は全体性の外に置かれてしまう。
また、実際の運用においても、量子系からは分離した、古典的な時間の流れのなかで観測をおこなう外部観測者(古典的な観測装置や人間の外感覚)を頼っているため、観測系と対象系が外在し対立する主客二元論の構造が前提となっている。ここには、観測者と対象が分離し、互いに外在する主客二元論や機械論の構図が残されている。
このとき観測者は、自己完結した閉じた系として仮定され、あたかも外部の影響を受けずに独立して存在するかのようにあつかわれる。観測者は外部の系と物理量を交換しながらも、自身は静的で一貫した状態を保ちつづける存在として想定されている。そのため、観測者のあらゆる思考や行動、主観といった内部状態が理論に反映されることはない。観測者の意識が系にどのように関わるかという点は、理論の枠組みから切り捨てられている。
つまり、理論的には観測者と対象の不可分性が示されても、実務的には依然として二元論的枠組みに縛られているのだ。ボーアの相補性原理の重要な意味は、観測者と観測対象を切り離して考えることができないという点にある。観測装置の設定や環境条件が量子系に直接影響を与え、その結果を制約する。観測者がどの手段を選択するかによって、系そのもののふるまいが変化し、観測と対象のあいだに明確な境界を引くことはできなくなるのである。
たとえば、光は光電効果の測定では粒子性を示すが、干渉縞の測定では波動性を示す。このような排他的な性質は同時に観測することはできないが、太極図の陰陽のようにいずれも量子の実在の相補的な側面なのである。(コペンハーゲン解釈では、量子の客観的な実在は測定によってのみ決定され、測定前には確定した実在をもたないと考えられる)
ただし、ボーアのいう観測者は、意識や主観的意図をもつ存在としてではなく、観測装置を設定し、測定という過程を通じて現象を確定させる行為主体として位置づけられている。観測者がどのように判断してどの測定手段を選ぶか、あるいはその選択にどのような意図や意識が関与するかといった過程は、量子力学の方程式や確率規則の内部では変数としてあつかわれていない。理論は、観測装置の設定そのものを外部から与えられるパラメータとして受け取るにとどまり、その設定を決定する観測者の判断や意図、さらにはあらゆる行為が系にどのような影響をおよぼすかについては記述しない。
しかし、不確定性原理や局所的実在性の否定、デコヒーレンスが示すように、量子は局所的な要因のみに依存せず、時空的に離れたほかの要素とも関係している。したがって、特定の測定結果は観測者を含めた系全体、すなわち時空全体の状況によって決まるといえる。それにもかかわらず、量子力学を基幹とする現代物理学は、この世界を方程式や統計力学によって機械的に処理するにとどまっている。
このような前提そのものが、観測者と観測対象、心と物を切り離すデカルトやニュートン力学以降の二元論および機械論の思考に基づいている。もし観測行為が時空全体の一部であり、観測者自身もまた観測される世界(全体性)のなかに含まれているとするならば、この前提は根本的に問い直されなければならないだろう。観測は本来、主体・主観と客体・客観の間にある相互作用の過程であり、その区別はアプリオリで固定的なものではなく、観測のたびに再構成される関係そのものなのだ。
その意味では、現代のわたしたちはいまだにデカルトやニュートン力学に代表される従来科学の自然観から完全には脱却できていないのである。特定の現象が観測者を含む時空全体の状況によって決まり、測定された結果にあらゆる主体性を含む時空全体の複雑な条件(非理論性、非再現性、非統計性)が有意に関わるとするならば、そこには従来の科学手法は本質的に適用されない。量子力学もまた、自然界の一側面を限定的に理解しているにすぎないことになる。
神秘思想が指し示す全体性とは、観測者の意識や主観も含め、時空全体の状況を統一されたひとつの系として把握する視座である。古来、神秘とは、叡智とは、観測者の体験と切り離せず、内的経験と自然の外的過程が系的に接続し統合されることに重きを置く、観測者と宇宙が一体(主客未分)となった全体性の知に基づくものであった。――神秘思想では、観測系と対象系を含む全体が単一不可分となった観測状態を、脱魂・脱我・梵我一如・無我・大我・無為自然・神人合一・純粋経験・ワンネス体験、変性意識などと呼ぶ――。人はこの主体と客体を含んだ単一不可分の全体性を、神や精霊、縁起、自然、宇宙と呼んできたのだ。
近代革命以降の科学は、一見すると個別的で複雑多様に見える事物や現象のなかから、共通する一般的な性質や法則を見いだし、自然の仕組みを明らかにしようとしてきた。これは、自然を主体や主観から切り離し、客観的に測定可能な実在としてとらえる視点に基づいている。しかしこの立場では、主体と客体、心と物質、個物と万物を分離せずに、観測者を含む時空全体の状況そのものを統一されたひとつの系としてとらえる真の全体性を把握することはできない。
古来より重んじられてきた自然の全体性には、近代科学の方法では十分に理解しきれない要素が含まれている。それは、観測者の主体性(意識や心)を含めた自然全体が一体の系を形成し、相互に関与し合う創発的現象なのである。そこには、単一の基本法則だけでは説明できない複雑で動的な、非因果的な相互関係が存在する。とくに、生物のように有機的で固有の動態をもつ創発的現象の系は、一回的(個別的・非再現的)で、統計的な有意性をもたないため、近代科学では軽視されがちである。
神秘思想の手法では、再現性のある実験を追求するのではなく、観測者の内部状態を含めた個々の出来事が複雑に絡み合う一回性の強い全体的一体の体験(状況)が求められる。現代の科学でも、波動関数の収縮や生物システムの創発現象などにその兆候が見られるが、これらは普遍的な法則だけでは説明しきれない領域に踏み込んでいる。
つまり、再現可能な実験や統計的分析のみに依拠する方法では、個々の事象の固有性や状況に起因する全体性の視座、さらには観測者までが関与する複雑で非線形的な相互作用を十分にとらえることはできない。したがって、現代物理学の枠組みを超え、観測者と対象、主観と客観、時空と存在のすべてを統合した、一如的な単一不可分の系としての自然を見つめ直す視座が求められる。
この伝統的な自然観は、自然を静的で機械的な体系としてではなく、相互作用と生成変化に満ちた有機的で動的なプロセスとしてとらえる立場である。そこでは、観測者と観測対象、心と物質、個と全体のあいだに境界を設けず、時空を超えてすべてが自己関与しながら存在する統一的な世界像が開かれていくことになる。
3.お化け好きの注目ポイント
シュレディンガーが提示した生命観は示唆に富んでいる。彼は自己(私)の概念を探究するなかで、インド哲学が説く「私」が単一固定ではなく複数的かつ複合的であり、存在の根底で他者や宇宙と連続しているという思想と、量子力学の「重ね合わせ」の概念に類似性を見出した。
この洞察から、人間の「私」という存在そのものが、観測されるまで多様な可能性が同時に重なり合ったひとつの全体として存在する量子の重ね合わせのような構造をもつと彼は考えた。これは現代の情報科学や認知科学が示す「多層的で動的な自己」の先駆けと言える。
この「複数の私」や「複合的な私」という発想は、神話、神秘主義、宗教といったオカルトな世界像を、多様性と複雑性をもつ情報的自己像、あるいはネットワーク的に編集されつづける自己として再解釈することを可能にする。自己完結した閉じた系として一貫した中心をもたない「私」は、神々や天使、悪魔、精霊、祖霊、氣、カルマ、縁起、阿頼耶識、集合的無意識などといった有機体論的なつながりの一部として多様な相(多層多様な自己の側面)の結び目として創発的に立ち現れるのである。
これについての詳細はあらためて記事としてとりあげたい。
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近代西洋科学の前身をつくったイスラム科学者にしても、太陽中心説の世界観をもつヘルメス主義を信奉していた地動説の提唱者たちにしても、イスラム科学者と同じく神の理法を解き明かそうとしていたニュートンにしても、近代科学の立役者たちって以外とオカルト好きなんですねえ……😰
