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この世界を理解する方法は科学>>>∞>>>オカルト(呪術、宗教、古代哲学)か? オカルト的観点から考察する現代人と古代人の「意識」の違い②

 この記事では、現代人と古代の世界観の比較からその時代の叡智である科学とオカルトの違いを浮き彫りにします。また、オカルトの研究方法と近代科学の限界を提唱します。 

 現代人は近代科学こそがこの世界を説明し理解する方法として唯一妥当だと考えていますが、本当に宗教や神秘主義などのオカルトは誤った幻想なのでしょうか?

 古代哲学や神秘主義、宗教における自然観では、人間や意識を含む個々の存在と世界全体は、相互に有機的に結びついたひとつのシステム(系)としてとらえられています。

 アニミズムにおける融即(人・動物・植物・自然・精霊などを明確に区別せず、相互に融合・同一化して捉える考え方)、仏教の縁起・空・一切一即、ヒンドゥー哲学における梵我一如、道教における「道」や「気」による万物の統一性、新プラトン主義の「一者」、スーフィズムの存在一性などは、その代表例といえます。

 このような世界観では、あらゆる現象はつねに相互の関係性のなかで成立し、観察者の主観的体験や内的状態も外界と相互依存的に結びついています。そのため、観察者と観察対象を含めたシステム全体を分割、分析してとらえることは原理的に困難となります。

 たとえば、仏教の縁起や輪廻、無我などの有機的・相互依存的な世界に対しては、観察者の内部状態と観察対象の外部状態を分けて考えることはできないので、外部からの客観的な視点をもつことができません。

 また、そこで会得される体験は、分割も分析もできない、観察者自身の内部状態も含めた世界全体の動的で非線形な相互作用であるため、普遍性や再現性のない強い個別性や一回性を帯びることになります。

 このように主客未分の境地から観察される世界では、主観と客観、精神と物質、個物と全体といった区別は根本的なものではなく、現象は一元的な全体性のもとで理解されます。そのため、体験や認識は、観察者と対象、また、対象と環境の相互作用を切り離し、再現性・客観性・普遍性を前提とする近代科学の方法論が直接あつかう対象とは性質を異にしていると考えられるのです。


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1.機械論的自然観と有機体論的自然観

 17世紀ヨーロッパから世界へと広まった科学革命だが、それ以前では自然は唯物的・機械的ではなく、活きた存在、あるいは生命の体制である有機体として理解されていた。呪術、宗教、神秘主義、哲学といった古代の知見は、基本的に生命的・有機体論的な自然観に基づいている。つまり、それを説明することが非科学や形而上の存在を説明することにつながると考えられる。生命的な有機体論的自然観の代表例には、アニミズムを始めとして、西洋ではアリテレス自然学、プラトン主義、ヘルメス主義、東洋ではヴェーダ、仏教、道教、儒教がある。

引用、参考

 そもそも現代のわたしたちが疑いもなく、その方法論や知識を受け入れている唯物的・機械的な近代科学とはなんであろうか。近代科学の礎となった17世紀の哲学者ルネ・デカルトの機械論的自然観は、人間と自然を厳密に分け、主体と客体を区別し、心と体をきり離し、精神と物質のふたつの独立した実体から世界を構成する。そして、思惟する主体である人間は生命なき自然の対立者としてこれを客体化し、機械として認識するものであった。

 当時の代表的な機械のひとつは時計だが、これを分解してみればテンプ、ガンギ車、歯車などの複数の部品が規則正しく連携し、ひとつの体系的な運動を達成していることがわかる。それと同じように、自然も基本的な物質とそれら物質相互の規則的な運動へと還元して説明し、いっさいの自然現象を必然的な原因と結果の関係にしたがう物質の運動としてとらえる。

 この二元論と機械論によって、自然現象を考察するうえで物質的な原因だけを考慮すればよくなった。そして、その因果関係を解析する還元主義が準備されたといえる。還元主義的手法では、時間的にも空間的にもマクロスケールの複雑な多体的・大局的現象を単純な単一的現象や部分要素へと分解する。その単純化した因果関係がもつ規則的再現性を解析して一般法則(静的な、必然的な因果関係)を発見することが自然の正しい理解ということになった。

 自然とは、分解可能で規則正しく動く機械のような存在というのだ。すべての現象はそれ単独で確立して静的に自存する無機的な物質から構成され、外部から運動を与えられることよって必然的な因果関係のみにしたがって受動的に進行する。これに対応する科学的手法も、測定装置や観測者も観測対象とは明確に分離され、科学法則によって再現性のある因果的なふるまいが保証されている。この考え方では、自然界のあらゆる現象は分離と数量化によって説明可能なものとしてあつかわれる。

 現代において機械論を支配的なものにした近代科学は、観測者と観測対象、そして両者を取り巻く環境を互いに独立したものと見なす。それぞれが系的に独立しているために、外部からの客観的な測定が可能だし、安定した実験状態が保たれる。その結果、科学法則という明確にて定式化された一般的な因果関係が成立し、自然現象を予測や制御する枠組みが構築されてきた。

 つまり、古典物理学に代表される近代科学とは、それを包括する外界の要因から対象を切り離すことによって、個別的で複雑多様な自然現象のなかから一般的な側面だけを抽出し、普遍的な知識として構築する営みだといえる。個別性や一回性という多様性を無視して、普遍的でより単純化されたモデルを通じてのみ自然を記述しようとする。このとき、対象はあたかも観測者や時空全体から分離し独立した機械的で静的(固定的)な存在としてあつかわれ、全体的な系や相互作用の動的な側面は捨象されることになる。膨大で動的な諸因子と関係性からなる自然界、現実の世界そのものは人間の認識能力をはるかに超えており、理性によってこれを把握するのは不可能であるため単純化するのだ。

 デカルト的な現代のわたしたちの世界観では、外界の現象はそれを認識する主体である肉体や心から独立しており、外界における個々の現象もまた外部に自立して存在し、外在的に関係し合っていると考えている。だからこそ近代科学は、主体や主観から独立した外界の現象のみをあつかい、客観的に条件づけられる一般的な法則や概念だけを真理とする。

 徹底して対象化し、客体化することで見いだされた機械としての自然は、力学や化学の法則、統計学、確率論などの数学的アルゴリズムに基づいて定式化された物質の運動の現れであり、単純なルールを組み合わせた演繹的な記述によって神羅万象を説明することできると考えられている。生物を含めたあらゆる現象は、活力や意志をもたない受動的な物質で構成され、科学法則にしたがって機械的に進行する。そこに意志や心、霊魂、神などといった個別性や主体性が介在する隙はない。

 一方、機械論が確立する以前の有機体論的自然観は、機械的・外在的な視点を取っていなかった。自然界を構成する要素や個別の事象は外部から動かされるのではなく、それ自体が内的な力によって動き、秩序を形成するととらえる。個体と全体は切り離すことができず、個々の存在の意味や意図はつねに全体との動的な関係性において決まる。また、人間と自然も分け隔てられるものではなく、系的にひとつの有機的な存在としてとらえられる。

 「自分と他者」「内と外」「心と物」「個物と全体」の境界は固定されておらず、むしろ絶えずゆらぎながら流動的に形づくられる。これは、デカルト以降の近代的な「自我=確立された独立の主体」や「物質=独立自存した機械的・固定的な存在」という見方とは異なり、自身の意識・心を含めたあらゆる現象は全体との有機的な関係性のなかで生成変化しつづける存在として知覚される。

 こうした主客未分の体験構造を背景にもつ世界観では、主と客、物と心、個と全といった区別はあらかじめ与えられたものではなく、認識の場において変容しうるものとしてあつかわれる。したがって、そこでは外界との関係や自然とのつながりが、本質的に動的で応答的なものとしてとらえられ、自然全体、そして人間もまたその大きな秩序や循環の一部として生きていると理解される。人類はこの大いなる力や存在をマナ、精霊、神、氣、などと呼んできたのだ。

 アニミズムやトーテミズムに基づく自然観では、人間や動植物、自然現象などが別個の存在としてではなく、それらに同等の人格が宿ると考えたり、存在自体を区別のない同一のものとみなす。知覚する主体(心)と知覚される客体(物)は独立して外在しているというデカルト的な「心と物の分離」とは対照的に、これらの文化ではすべての存在が連続的につながり、個々の境界はあいまいだ。その境界は流動的で、あらゆる存在は連続的につながるひとつの「全体の流れ」として感じられ、互いに影響し合いながら活き活きとした生命的なダイナミズムに満ちた世界を織りなしている。

 このような世界観では、人間と自然は切り離された存在ではなく、時に対立しながら、時に協調しながら共存している。アニミズム的な意識では、「主と客」「心と物」「個と全」といった対立概念は有機的に統合され、すべての現象は全体の秩序のなかで相互に補完し合っている。

 世界の構成要素は機械的で静的な実体と法則から決められるのではなく、動的な関係性のなかで絶えず生成変容しつづける生命的、有機的なものであり、人間もその一部であるという認識が強調される。個々の要素は孤立して存在するのではなく、相互の境界が緊張と緩和をくり返しながら、ひとつの系としてダイナミックに機能するのだ。

 有機体論とは、全体が単なる部分の機械的な集まりではなく、それ自体がひとつの自己組織的な統一体として機能するという考え方だ。たとえば、生物の状態や進化は、ある部分が周りの環境に適応して多様化するとともに、部分の活動そのものが環境を変化させていくという非線形で動的な相互作用(フィードバックループ)があるため、分子から細胞、細胞組織、器官系、個体、個体群、生態系、地球レベルにいたる階層的な組織によって特徴づけられる。

 あらゆるレベルの階層の構成要素が重層的に影響をおよぼしあうため、基本的な法則や原理、細胞や個体レベルで働くプロセスを理解しただけでは予想できない秩序が創発される。つまり、ある部分とその環境要因が相互に作用することで、特定の状況下でのみ現れる動態が形成されるのだ。

 原因と結果が単純に比例しない関係を示す非線形力学系では、個々の要素が単純であっても、それらが相互作用することで全体として予想できない複雑なふるまいや新たな秩序(全体性)が生まれる場合がある。自己組織化やパターン形成、生命現象などは、非線形な相互作用によって部分の単純な性質からは説明できない全体的な構造や機能が出現する典型例だ。

2.現代人と古代人の認識方法の違い

 現代人の認識や思考の形態は、意識に昇る前段階において、認識内容の全体を、内的関係からなる主体的側面を「心」や「自我」とし、外的関係からなる客体的側面を「物質」や「外界」として識別する。そして、自我だけを独立した主体や自己とし、その相対として主観内の物質的事物を具体化し、外在する実体として客観的に認識する。

 機械論が誕生した背後には、こうした認識の枠組みが存在する。つまり、知覚主体である「自我」や「肉体」を外界から独立して確立させ、さらに世界をさまざまな個々別々の事象へと分離・分化する識別作用(分別智)が働いている。この無意識の識別作用によって、現代人は複雑な現実を「主観と客観」、「心と物」、「個と全」、「人間と自然」といった二元的・多元的(相対的・差異的)な構造に整理し、理解しやすい形で把握しようとする。

 そして、主客を含めた世界全体をさまざまなレベルで規定的に区切ることで、諸々の事物や現象を一貫した内容をもつ固定的な実体として認識し、この知識を共有して一般化していく。このとき、原因と結果の間に比例的な関係性(線形的なつながり)を見つけると、それを「真実」だと考える。つまり、現代人の「現実」や「真実」という概念は、物事、因果関係を単純化してとらえようとする考え方に基づいている。近代科学の方法論は、この考え方をもっともよく表しているといえるだろう。

 しかし、自我を中心としたこのような単純化された認識や思考、ひいては近代科学の方法論では、じっさいの自然や世界がもつ豊かさや奥深さは、どうしても見失われてしまう。古代の人々は、分離・独立した要素からなる物質的世界を二次的、派生的、虚構的なものととらていた。自然とは、世界とは、根源的にはすべてが有機的で動態的な関係性をもち、統一的なプロセスによって結びついていると考えていたのだ。分離や対立する概念や事物を統一的に理解する体系、つまり、森羅万象を調和、統制する法則原理は、古来より哲学や思想、宗教において重要視されてきた。

 こうした有機体論的自然観からすれば、現代人が認識する「現実」は、規格的、機械的に切り取り、じっさいの風景を単純化したいわば「地図」のようなもので、現実の複雑さや全体性をとらえているわけではない。それは、自我に基づいた認識の枠組みのなかで構成された、静的で断片的な像や整合的な関係性にすぎないのだ。古来より伝統的に探求されてきた、分離や対立を超えた根源的で有機的な統一体としての真実や本源とは異なる次元にあるといえる。

 古代からの伝統的な宗教・哲学は、個別の自我や肉体に基づいた欲望や五感、ひいては自我意識から離れ、二元論的、多元論的な分離や対立した認識を調停し、統合することを命題としてきた。そして、この対立を克服した先にあるものこそが、自然と生命の本源であり、この宇宙の真理だとしたのだ。

 西暦紀元の前後に発展した古代文明圏では、アニミズム的な活きた自然をシステマティックにとらえ、宇宙全体の構造や万物の生成流転、人間や神々との関係性などを説明する精緻な宇宙論、自然哲学を発展させた。そこでは、目に見える現象の背後にある普遍的な法則や調和、根源的な力を探求し、世界を一貫した有機体論的な体系として理解しようとする試みがなされたのだ。

 たとえば、古代ギリシャにおいて「自然(ピュシス)」は無機的なものではなく、生命原理としての魂(プシュケー)を内包し、人間や神々をも含む調和的な統一体としてとらえられていた。森羅万象は「ピュシス」に包摂され、自然と人間、神々の間に本質的な断絶はなく、すべてが有機的な全体性のなかでつながっていると考えられていた。このような世界観では、自然はみずから生滅変化し、あらゆる存在が本性(アルケー)から派生した全体性の秩序のもとにあるとされた。

 プラトンの宇宙論では、すべての事物は世界霊魂のなかにあり、互いに関係をもちながら有機的全体の一部としてまとまっているとされる。プラトン哲学における魂とは、みずからを動かす能動的原理であり、物質の運動の原動力だが、その本性は物質に秩序ある運動を与える知性であった。そして、感覚による物質的な現象から意識が離れ、魂や精神がみずからの内に回帰したとき、深層にある純粋な知性を通じて本当の実在(イデア)に直接関わることができる。これこそが真に客観的な認識であり、叡智と呼ばれる。

 アリストテレスの自然哲学では、万物は目的を内包し、運動や変化はその達成を目指す過程にある。そのような自然全体もまた、階層的で目的論的な秩序を形成しており、人間もまたその秩序のなかに位置づけられていた。このため、自然は人間にとっての規範の源であり、人間の活動も自然の秩序を乱すことなく、調和的に営まれるべきだと考えられていた。

 こうした全体性を指向する宇宙観や人間観は、東洋思想においても見られる。道教では、宇宙万物の根源であり、その運行をつかさどる普遍的法則としての「道(タオ)」への回帰が重視された。「道」は万物を生成し、宇宙を循環する氣の根源としてあらゆる存在の内に浸透するものであり、人間は人為的な計らいを捨て「無為自然」のあり方にしたがうことによって、この大いなる調和と一体化できると考えられた。そこでは、自然の秩序と人間の生き方が分かちがたく結びついているとされ、万物をつらぬく生命の流れに身を委ねることで、根源的な統一体との合一が目指された。

 仏教では、「縁起」という自然法則が教えの中心にあり、すべての存在や現象は相互依存の関係性によってなりたっており、固定的な実体をもたないと説かれる。この思想は、個と全体、自我と他者といった分離や対立を超克し、万物への慈悲の心を育む基盤となった。個々の事象は孤立して存在するのではなく、広大な関係性の網の目の結節点として現れては消えるものとされ、その根底にある相互連関性への洞察が追求された。

 このような有機体論的自然観は、森羅万象の調和や統一を重視し、分離や対立を超えた全体性への回帰を理想とした。融即律、マナ、プネウマ、万物照応、ウーヌス・ムンドゥス、タウヒード、愛、梵我一如、一即一切、氣、天人相関、ワンネス、非二元論などといった概念も、本質的に世界はひとつの統一体であり、その関係性において分離や対立がないことが強調される。

3.近代科学とオカルトの方法論の違い

 近代科学の代表的な特徴は以下の点といえる。

 a. 等質性(普遍性、客観性、再現性)――個別の環境に左右されず、同一の事象や結果が確認できる。
 a. 一義性(定量性、理論性、数理性)――事象を法則的、定式的、統一的に説明できる。

 しかし、このふたつの特徴を成立させるには、以下の方法論が必要であり、自然界の有機体論的秩序がつかさどる全体性を理解することができない。

 b. 二元性(対象系外部からの観測、外部観測、主客二元論)――観測系と対象系を明確に分ける。また、主観を排除して観察すること。
 b. 部分性(局所的、還元的)――時空全体のあらゆるレベルの事象を、それぞれ独立した局所的な系として区別し、分析すること。

・オカルトはこれを回避するために、以下の特徴と方法論をもつ。

 a. 異質性(特殊性、相互作用性、一回性)――事象は非可逆的かつ個別性をもち、同じ条件下での再現ができない。
 a. 多義性(定性的、複雑性、象徴性) ――一事象が膨大で動的な諸因子と因果関係を含むために一義的、理論的な説明ができず、複雑多様な意味や性質を含む。その知識は、記号や図形、物語、動的な法則によって多義的・定性的・象徴的に説明される。
 b. 一元性(対象系内部からの観測、内部観測、主客一元論)――観測系と対象系が分離できず、観測者自身がそれを構成する一部として関わること。
 b. 全体性(大域的、統一的)――すべての事象は独立しておらず、全体として影響しあう一体の系としてあつかうこと。

4.オカルトの非科学的自然法則

 有機体としての自然の特徴とそれに基づいた古代の知見は以下の点で特徴づけられる。

・相互連関性
 要素間の緊密な繋がり:系のあらゆる要素は独立して存在するのではなく、互いに深く結びつき、影響し合っている。個々の事象は分離不可能であり、全体のなかでその意味や機能をもつと考えらる。「縁起」「一即一切」「陰陽思想」「万物照応」「教会はキリストの身体」など。

・部分と全体の不可分性
 全体は部分の総和以上:非線形系全体は、単に個々の部分を足し合わせた以上の性質をもつ。部分どうしの単純な関係性だけを見ても、全体性のふるまいや意味を完全に理解することはできない。個々の要素の機能や意義は、それが系全体のなかでどのような役割を果たしているかによって決まる。

・主と客の不可分性
 客観性の限界:観測系が対象系から完全に独立した「外部からの客観的視点」をもつことができない。人間(主体・主観)と自然(客体・客観)は分離した存在ではなく、自然や霊魂という大きな有機的な系の一部としてとらえられる。両者は相互に影響し合うため、系外部からの客観的な観察が不可能になる。「梵我一如」「天人合一」「純粋経験」など。

・履歴効果
 時間の不可分性:入力と出力の関係が履歴に依存する。系の状況は、現在の状態だけでなく過去の変化の積み重ね(経験、記憶)に影響される。一度ある構造が生まれると、それが次の変化を制限したり促進したりする「履歴効果(ヒステリシス)」が働く。つまり、一度きりの出来事や偶然が系全体に決定的な影響を与え、一回的な非再現性の事象が有意な役割を果たす。「魂の成長」「カルマ」「契約」「死後の裁き」など。

・動的な関係性
 プロセスと変化の重視:全体のつながりの関係性は機械論的ではなく、つねに変化し、非線形に相互作用しつづける動的なものだ。自然界はあらかじめその状態が確定された固定的な実体と法則という「モノ」としてではなく、絶えず生成し、変化しつづける生命的、流動的プロセス(「コト」)としてとらえられる。「聖霊」「万物流転」「流出説」「気」「元素の循環」など。

・自己組織化性(合目的性)
 内発的な秩序形成: システムは外部からの明確な指示や設計なしに、みずから秩序を形成し、維持する能力をもつ。生物が成長し、環境に適応していくように、自然も統一された内的な力によって組織化される。この内在的な自己組織化性は、自然が意志や目的、意図、秩序をもっていると解釈される。「神」「精霊」「宿命論」「目的論」「ダルマ」「ガイア理論」など。

 つまり、オカルトの自然観の基本とは、相互に深く結びついた要素が、動的な関係性のなかで自己組織化し、全体としての調和を保とうとする統一的なシステムなのだ。

5.オカルトの正しい観察、測定、実験、研究の方法

 有機体論的自然観に基づけば、霊や死後の世界、神といった、いわゆる超自然的存在を探求し検証する方法は、近代科学が依拠する方法論とはおのずと性質を異にする。近代科学が基盤とする普遍性、客観性、再現性といった特徴をもつ方法論では、これらの超自然を直接的に観察したり実験したりすることは不可能だと考えられる。

 有機体としての自然界は、人間を含めたあらゆるレベルの事象が重層的に影響を与え合う。このため、観測対象と観測者は環境要因と共に密接に結びついており、外部から独立して安定した測定や実験をおこなうことが困難となる。観測者自身が有機的な関係性をもつ統一体の系内部にあって研究をおこなう場合、自然全体が流動的な連続体として営まれるその系内部の一要素として、対象を測定せざるを得ないのだ。

 自己組織化する有機体は、非線形なフィードバックループによって、系の動きが系自身に働きかけ、系を変化させるという再帰循環的な自己言及性と自己改変性が働く。各階層(スケール)の状態は、同層の要素どうしの機械論的で単純な相互作用だけでなく、重層的で非線形な相互作用によっても決定される。

 下層の局所的相互作用を通じて上層の大域的挙動がボトムアップ的に現れるが、このようにして生まれた秩序が、今度は個々の要素をトップダウン的に支配するのだ。この自己組織化の過程では、上層の全体的な運動が下位の要素へとフィードバックし、個々の要素の運動を境界条件として拘束するという、ミクロとマクロの双方向的な動的フィードバックが生じる。

 たとえば、脳みそでは、ニューロンどうしの単純な信号のやりとりがつみ重なってニューロンネットワークの秩序構造が変化し、その脳全体の状態が今度は各ニューロンの活動に影響を与えるという双方向のフィードバックが働いている。これにより、ニューロンネットワークは結合状態を動的に変化させながら神経信号の伝達パターンを自己組織化することで、認知、思考、学習、記憶、運動などの高度な情報処理をおこなっている。

 胚の発生やその他の神経系でも、細胞間の局所的なシグナルのやりとりによって体全体の体組織が形づくられ、その体組織の秩序がふたたび細胞の分化や働きを制御するという過程があり、こちらでも自己組織化が非線形なフィードバックによって進んでいる。

 このような自己言及的・自己改変的な系を探求するためには、その系内部に存在する観測者自身も、自己を参照し、みずからの内的な変化をも記述に含めなければならない。観測主体は、環境や経験との相互作用を敏感に反映しながら、認識を協同的に生成する存在ととらえられるからだ。

 フィードバックループは、あらゆるレベルの事象が重なり合い、その関係性自体が時間的に変化していくという全体一体のダイナミクスが生じさせる。このため、基本法則や個々の事物のふるまいを理解しただけでは予測できない、主客未分の秩序(知覚内容)が創発される。さらには、観測を含めた主体的行為そのものが、観測対象のみならず、相互包摂的に観測者の状態さえも変化させてしまうことになる。

 このような生命的なダイナミクスに対する観測は、潜在的な能動性をもつ主体的存在や有機的な関係性などとして相互作用することが前提となる。つまり、対象は動的であり、生命的、主体的、有機的であり、古代の知見はこれを自然に内在する根源的な生命力、あるいは生命そのものとしてとらえてきた。この前提と同時に、観測者は対象に対して一方的に作用を与える能動主体でも、作用を受ける受動的な客体でもなく、自身を含めた系全体の状態が協働的に、中動態的に変化する、系全体としての連続的な状態に関与することが求められる。

 これでは、近代科学が前提として分離してきた「観測者と観測対象」「作用と被作用」「部分と全体」といった対関係に制御できない影響が生じるため、その方法論は自明のものではなくなってしまう。このような状況下では、客観的な観察や、数理的な法則に基づく再現可能な検証は適用できない。全体が非線形な相互作用を通じて複雑かつ有意に変化し、観測者自身もその一部として対象と系的に一体となるため、決定的な分離が困難になるのだ。

 観測者と対象が一体不可分の状態では、その再帰循環的かつ自己言及的なプロセスによって、対象を理解することは自分自身を理解することであり、その逆もまた同様となる。そのため、説明には主観的な内容が含まれざるを得ない。これは、普遍性、客観性、再現性を確保した観察が不可能であることを意味する。さらに、より基本的な科学法則ですべてを説明する単純化や一般化だけでは、複雑な現象に対応できないことも示唆する。

 測定結果が観測者を含む系全体の複雑な状況によって有意に決まるならば、物理科学において絶対視されてきた普遍法則そのものが相対化され得る。つまり、特定の観測者や条件下でのみなりたつ「局所法則」が存在する場合、再現的ないしは統計的な法則の適用は困難となるのだ。

 有機体は重層的な相互作用による非線形性のために系全体が一体不可分であり、また、この自己組織化の過程は熱力学的な平衡状態から遠ざかる方向へと発展するために、過去の履歴から影響を受ける経路依存性、履歴効果(非可逆性)をもち、その時でしか生成し得ないような強い一回性(再現不可能性)に依存する。

 また、再現可能で客観的な記述をなすためには、観測行為を含めたさまざまな撹乱要因の存在する環境が観測対象、また観測者へと与える影響をあらかじめ計算した測定が前提条件となる。環境はノイズとみなし、除外あるいは無視する必要があるのだ。そういったクリーンで、単純で安定した系を対象としてはじめて理論が構築できるし、一般性や法則性がなりたつ。

 しかし、部分のわずかな変動が系全体へと拡大する非線形性の流れ、いわゆるバタフライ・エフェクトが存在し、対象系へと予測困難な影響を与えてしまうならば、これはかならずしも可能とはかぎらない。また、生物のように自律的に固有の平衡状態を生成しながら発展的に変化する「個別性」をもった対象であれば、あるひとつの状況においても異なる反応をなし得る。

 そして、主体性をもった観測者自身がその対象となる系の内部に含まれているならば、観測系と対象系を分離・対立させることができず、対象との相互作用は再帰性・自己言及・自己改変を含まざるを得ない。

 非線形で複雑にからみ合った全体の流れとしての自然は、全体としてひとつのダイナミクスを示すため、本質的に一回的で個別的であり、再現的および統計的な実験は有意性をもたない。とくに観測者自身を含む環境要因も系の一部である場合、再現性のある測定や一貫した解釈は困難となり、観測者の主観が入り込むことは避けられない。

 その結果、得られる知見は状況依存的で、多様な解釈を生み出すものとなる。観測者の位置、状態、認識の枠組み、さらには観測の意図や目的までもが、観測結果やそれに基づく系の記述に影響を与える。つまり、純粋に客観的な記述は困難になり、観測者の主観がある程度混入することを避けられない。

 このように、自然の有機的な全体性を理解するためには、個々の要素へと分解して定量的に分析するだけの手法では不十分となる。むしろ、観照や内観、直観といった主観的要素(内的経験)を積極的に活用し、比例しない非線形な因果関係をもった全体一体の印象や類推関係(ユングのシンクロニシティなど)をとらえる必要がある。この視点では、観測者もまた自然の発展プロセスに関与する存在となり、その行動や視点が自然理解に不可欠であることが強調される。

 いわゆるオカルト的な方法論を実践するには、対象と系的に協働し、観測者自身が自然の一部であることを深く認識する必要がある。深い観照や内観は、知覚内容を自己言及的に再帰処理することで、観測者自身の内的状態への理解を深める。その変化が次の認識のあり方に影響を与えるというフィードバックループ作用を増幅させ、部分と全体、主体と客体の分離を解消し、観測者自身が自然を含むシステムの一部であることを深く認識し、対象と系的に協働する過程を促進する。

 観測者が観測対象の系内部に含まれる場合、その存在自体が観測対象を含む系全体の一部として影響を与えると同時に、系全体から影響を受ける。この双方向的なフィードバックループを通じて、観測者(主観内容)は外界に適応的に変化する。つまり、観測者(認識主体)と外界との境界が開き、全体へと開いて系的に一体化するという、再帰循環的かつ自己変容的なプロセスが生じることになるのである(神秘主義における意識の変性プロセス)。

 ある要素の出力がもう一度その要素(原因側)へと非線形に入力されるフィードバックループが増幅されると、因果の連鎖が複雑に混じり合って自明の関係性がなくなる(無分別智)。現象の分別が時間的にも空間的にもどこまでも不明瞭となるので、その内部に含まれる要素の一部である認識主体の境界は取り払われる。

 観測者が系に深く関与し、フィードバックを繰り返すなかで、どこまでが「観測される対象としての系」であり、どこからが「観測する主体としての観測者」なのか、その境界が曖昧になることが想定される。両者は不可分の一体としてふるまうことになる。

 これが主と客を区別する表層意識の自我が消失した状態であり、神秘主義において、脱魂、脱我、梵我一如、無我、無為自然、神人合一、純粋経験などと呼ばれる状態に相当すると考えられる。

 主観と客観が一致したとき、すべては無境界となる。自我の境界が融解した脱我状態では、主と客、心と物、個と全といった二元論・多元論構造を区別するフィルターを介することなく直接的な体験をすることにつながる。そこでは、対象化や客観化を超えた純粋な現れがとらえられ、一体不可分な関係性や統一性が認識される。

 神話などの説話も脱我状態での経験に基づいた表現であり、個人の知識や経験を超えた知見が語られる。

 この状態では、意識状態は固定的ではなく、全体と協働して一体となり、内部観測者の視点から直接的な経験がなされる。つまり、観測者(認識主体)という有機体の一部が、自己言及の働きによってフィードバックループ作用を増幅することで、自身を含む系全体との関係性が変容する結果として現れる。この変容は、単なる知識の獲得ではなく、観測者自身の存在のあり方、認識のあり方の根源的な変化をともなうものだ。

 この観点では、普遍性とは数理的で一義的な科学法則ではなく、さまざまな状況で働く動的な相互作用の統一原理、全体性の法則を指す。それは具体的には、生物の自己組織化のように状況に応じて異なる要素が相互に影響を与え、動的に反応し合うことで、観測者自身を含めた世界全体の秩序が生成されるプロセスだ(神霊や精霊、世界霊魂、合目的性、万物照応、ダルマ、縁起、一切一即、気などの法則原理)。

 また、客観性も、観測対象が観測者から切り離された存在であるという前提ではなく、観測者は対象の一部であり、あらゆる認識や行為そのものが双方向に影響を与えるという理解に基づく。有機体の内部にいる観測者は、観測対象と切り離された存在ではなく、観測(認識)そのものが自然との相互作用に基づく自己変容的プロセスとして機能する。これにより、観測は単なる「対象の理解」にとどまらず、「観測者の内部状態と外部状態を含むシステム全体」の視点からの理解へと拡張される。

 近代科学とオカルトは一般的に相容れない対立的なものと見なされている。しかし、ふたつの方法論として見ると、むしろ補完関係をなしている。近代科学があつかうのは単純性のシステムであり、主体・主観を排した部分どうしの定量的な関係を本質的なものと考える。一方、オカルト的探求があつかうのは複雑性のシステムであり、主体・主観を含めた全体の定性的な一体不可分性を本質的なものと考える。両者はサブシステムとメインシステムの視点から、より大きな世界観へと統一することができると思われる。

 全体性の源である非線形力学系の本質的な挙動や性質を理解するためには、単純な部分要素と複雑な全体の相互作用を統合的にあつかう視点が不可欠なのだ。


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