オカルト的観点から考察する現代人と古代人の「意識」の違い①


 現代のわたしたちは、自分と他者、心と身体、意識と無意識を明確に分ける「自我」を認識や思考の中心としています。しかし、古代人や土人の認識形態は現代のような明確な境界線、つまり自我意識をもたず、万物が相互につながり、絶えず変容し、ダイナミックに循環するものとして世界をとらえています。そこには、現代と古来の思考や知見、ひいては意識・心そのものの構造の相違が見えてきます。

 わたしたちがあたりまえと考える自我意識は、実は人類の後天的な経験を通して獲得されたのかもしれません。本稿では、自我の獲得過程と古代人のオカルト的知見を「分離と統合の法則」から探ります。また、古代と現代、それぞれの意識のあり方を通して、人間が世界をどのように理解し、意味を与えてきたのかを考察します。

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1.自我の発達から見る「分離と統合の法則」

 現代人の認識の形式は、意識に顕れる前段階で、その認識内容全体を内的側面(主観・自我・心)と外的側面(客観・物質・外界)へと分けることから始まる。そして、認識する主体と認識される対象の間に固定的な境界線を引き、それを基準にして世界を区分し、個別の意味を与える。自我を含めた世界は明確な区分をもって識別され、それぞれの事象が外在的に独立した存在として見られる。

 他者や外界、無意識と明確に区別して認識する時の自己を「自我」と呼び、自我は日常での「自分」という感覚として経験される。このような自我とその他のものを識別するプロセスは無自覚のうちに行われるため、人間にとって自然で当たり前の認識形式と感じられるかもしれない。しかし、自我意識の存在は生得的なものではなく、とくに幼児期の成長過程において獲得されていくものだ。幼児期は自己と外界の境界がまだ曖昧な状態から始まり、徐々に自我が確立されていく。

 まず自我発達のプロセスは、運動や感覚による分離・分化・分節から始まる。たとえば、視覚や触覚を通して物理的な対象を認識し、それらを個別のものとして識別する。人間は動作のなかで対象との関係性を確立し、その経験が積み重なることで「自分」と「他者」、「物」と「空間」といった区分が形成される。幼児の自我発達は、運動や感覚による分離のプロセスによって進行する。身体を動かし、ものを触ることを通して、自分の体とそれ以外の世界があることを漠然と知り始める。

 発達初期における人間の自己認識は、身体的感覚と心の反応が未分化のまま結びついた状態にある。自分という存在は明確に輪郭づけられておらず、「身体に感じる快・不快」を通じて、外界や他者との関係がぼんやりと形成されていく。たとえば、心地よい抱擁や不快な飢えといった体験が、世界に対する基本的な反応の起点となり、やがて感情や意味をともなった「表現」へと発展していくのだ。このプロセスは、心と身体が一体となった体験を通じて進行するため、まだ自我が明確に確立していない段階では、心と身体、そして外界との関係性が未分化なものとして存在する。 

 やがて感覚と運動による分離が進むと、言語による分化がそれを補完し、拡張する。言葉を獲得することで、人はみずからの経験や対象をカテゴリー化し、より精緻に認識し始める。たとえば、最初は「食べ物」という広い概念しかもたなかった幼児が、「リンゴ」や「パン」といった具体的な語を学ぶことで、内外における個別の対象を明確に区別できるようになる。このように、言語は単なる情報伝達の手段ではなく、世界をどのように分化し理解するかを決定する要因だ。

 人はある特定の文化圏で生まれ、その言語を習得する過程で、その文化の「本質体系」を無意識のうちに取り込みながら、現実の分類方法を学んでいく。この文化体系は記憶として蓄積され、無意識の領域に個々の現実認識の枠組みを形成する。その結果、知識の分化と蓄積が進むにつれて、自己認識はさらに高度な枠組みをもち、現実世界に対する理解が深まることになる。

 道具の使用によっても分化は不可避的に起こる。道具の使用は感覚と運動の分化をうながし、操作の細分化とともに対象の区別を明確にする。科学知識の発展はその体系化を通じて分節を拡張し、新たな認識枠組みを生みだす。こうした過程は、言語による分節と相互作用しながら、人間の思考を高度化し、現実の構造をより精緻に意識化する。つまり、道具や科学は単なる利便性の向上にとどまらず、認識の枠組みそのものを変容させる要因となる。

 しかし、自我発達は単に分化を強化するプロセスにとどまらない。高度な認識に達するためには、分化された要素どうしを統合し、包括的な世界観を形成することが必要だ。成長とともに、異なる視点や経験が積み重なり、個々の区分が結びつくことで、世界のとらえ方は規則的に秩序づけれる。分化からの統合のプロセスにより、単なる対立や区別を超えた、形式的で相互関連的な認識が可能になる。

 自我発達は、未分化な状態から始まり、分化と統合の反復を経て、最終的に明確に区分された秩序ある構造や機能へと収束する。この過程において、分化とは無秩序なまとまりのある認識が細かく分かれていくことを指し、統合とは分化した要素が協調し、新たな秩序と機能を生みたことを指す。

 初期の運動や感覚経験では、体の各部位や周囲の環境が一体化して認識されることが多いが、成長とともに、体の各部分(唇、舌、指など)が細かく分化され、個々の動きが可能となっていく。そして、それらの動きが統合されることで、自己の身体が一つのまとまった機能的なシステムとして固定化されるのだ。

 たとえば、最初は口を開閉することてしかできないが、やがて唇や舌を個別に制御できるようになり(分化)、それらを統合することで明瞭な発音が可能となる。同様に、指の動きも最初は自由に制御できないが、次第にグーパーができるようになり(分化)、さらに指を個別に動かせるようになる。その後、それらの動きが統合されることで、親指と人差し指で物をつまんだり、お箸を使ったりする精緻な運動が可能となる。このように、未分化な状態から分化と統合を繰り返すことで、各動作や認識が精密化され、その区分が安定的に固定される。

 運動制御や認知の発達が進むにつれ、各要素の役割や関係性は明確化し、個々の機能は一意的に規定される。これにより、安定した機能が確立され、自我意識の基盤が形成される。さらに、こうした固定化された区分と規定化された関係性が、個人の行動や思考に秩序をもたらし、安定した自我意識の確立へとつながる。

 この過程は、外界の認識に対しても同様である。最初は、内外の世界から得られる感覚情報が一体的で、具体的な区別がついていないため、全体としての複雑曖昧な印象や無秩序なパターンが先行する。しかし、経験や観察、言語分節を通じて、内外のさまざまな要素(色、形、音など)が細かく分化され、次第にその関係性や法則性が統合されることで、外界に対する明確な認識が形成される。そして、自己と外界との区別が明確になり、対象を意識的に捉える能力が向上する。結果として、自己の意図や感情を整理し、それを表現する能力が高まり、他者や外界、社会との関係性や秩序を認識できるようになるのだ。

 こうして、経験や知識の習得によって思考する自我が確立され、主観内の物質的な事物を具体化し、外在する実体として客観的に認識できるようになる。言いかえれば、具体化された個別の事象や他者との関わりを通じ、自我はその相対としてより明確になっていく。経験がなければ、抽象的な概念や因果関係を意識的に整理することは困難であり、経験による分化が高度な思考を可能にする。

 要するに、経験や知識はわたしたちの世界観を無意識のうちに形作るのだ。経験による分化は、物理的な感覚だけではとらえきれない概念の枠組みを提供し、思考の構造そのものに影響をおよぼす。感覚や運動を通じて得られた経験は、言語を用いてさらに精緻化され、わたしたちの認識の枠組みを形成する。したがって、感覚や言語(肉体や思考)を通じて分化された世界は、単なる外界の反映ではなく、わたしたちが認識する現実そのものを構成する要素といえる。

2.オカルトから見る「分離と統合の法則」

 自我発達の初期プロセスでは、「自分と他者」「内と外」「心と身体」の境界は固定されておらず、むしろ絶えずゆらぎながら、経験のなかで流動的に形づくられる。これは、近代的な「自我=確立された独立の主体」という見方とは異なり、自我は関係性のなかで生成しつづける存在であるという仏教的な発想に通じる。

 こうした心身未分化の体験構造を背景にもつ世界観では、主と客、物と心、個と全といった区別はあらかじめ与えられたものではなく、経験の場において変容しうるものとしてあつかわれる。したがって、そこでは他者との関係や自然とのつながりが、本質的に動的で応答的なものとしてとらえられ、人間もまたその大きな循環の一部として生きていると理解される。

 こうした世界観を反映した代表例が呪術や宗教、神秘主義、古代哲学などのオカルトであるといえる。たとえば、アニミズムやトーテミズム、シャームニズムでは、人間、動物、自然物(主と客、心と物、個と全)は明確に分離されて固定的に存在しているわけではない。世界のあらゆる境界は未分化で曖昧流動的であり、世界とは、絶えず変容や往来しつづけるという生命的なダイナミズムの場とみなされる。

 その説話や儀礼は、境界の曖昧さを反映し、人間や動植物、自然現象が自由自在に変身したり、意思疎通し、協力や対立をしたりする様子として語られることが多い。また、過去の出来事や祖先の霊魂は、特定の動物や自然物に宿り、現在を生きる人々と深く関わっているとされる。そこでは万物に霊が宿るという考えのもと、あらゆる存在が相互に影響しあい、人間と同等、対等なものとされる。 

 たとえば、アイヌの伝承では、動物や自然物がみずからの視点から世界を語り、人間と交流する物語群だ。熊や狐、昆虫、川や山などが主人公となり、人間と結婚したり、助け合ったりするエピソードが伝承されている。

 アメリカ北西部のセイリッシュ人諸部族によると、初めの世界は暗く無秩序で、動物・人・精霊の区別がなかったとされる。そこに「変身させる者」が現れ、存在の姿を変化させることで世界の秩序や特徴を形成したといわれる。

 アマゾン地域のヤノマミ族などでは、シャーマンが動植物や先祖霊と交信し、人間界と精霊界を往還することで癒しや知恵をもたらす。

 古代ギリシャのプネウマ(霊魂)や中国の気などは「気息」や「風」を意味する自然の原理で、流動する不可視の活力が万物の生滅変化をつかさどり、人と人、人と自然それぞれのつながりにもそれらがはたらいているとされた。

 「未分化な状態からの分離と統合のダイナミズム」は、人類が共有する物語の源泉である神話、とくに世界の創造を語る創造神話においても、繰り返し描かれる核となる構造としてみいだせる。つまり、創造神話は、自我発達と同じく、未分化の混沌(カオス)から差異的な要素が分離し、それらがふたたび統合されるダイナミズムを経て、秩序だった世界(コスモス)が形づくられる過程を象徴的に語っているのだ。

 多くの創造神話において、世界の始まりは未分別の根源的な統一状態として描かれる。これは、なにものも分かれていない原初の闇、渾沌、あるいは巨大な根源的存在(宇宙卵、原初の海、巨人の死体など)といった形で表現される。この状態から、創造の第一歩として「分離が生じる。天と地の分離、陰と陽、光と闇、善と悪、男と女など、二元論的あるいは多元論的な対極概念や差異が生まれ、世界は初めて分節化される。 

 これは、経験によって世界のあらゆるものに対して境界線が引かれるプロセスに対応する。天地分離型、死体化生型、卵生型、系図型といったさまざまな創造神話の類型はあれど、共通して「原初的な統一からの分裂」というテーマをあつかわれている。

 しかし、分離だけでは世界は秩序立たない。分かたれた要素間には緊張や対立が生じ、世界は不安定な状態に置かれる。ここでつぎに働くのが「統合」のダイナミズムだ。分離された要素が相互に関連し、協調し、あるいは葛藤を経て新たな関係性を築くことで、多様性をもちながらも機能する秩序(コスモス)が生まれる。

 神話における神々と巨人、光と闇、文化英雄と自然の力といった対立や協調の物語は、この分離された要素間の相互作用、そして新たな秩序への「統合のプロセス」を描いている。この分化と統合の反復と発展を通じて、多層的で複雑な宇宙、自然、生命、そして社会構造が創造されるのだ。

 一元的な本質から分離が生じ、さらに分離と統合のダイナミズムを通じて新たな秩序や機能が生みだされる。この未分化な混沌や無秩序からの分離と統合のダイナミズムとは、確立された自我意識の表層に直接顕在化されることのない、深層意識下の緊張(分離)と緩和(統合)による心的エネルギー(リビドー)の流動とも言いかえられるのかもしれない。
 
 神話の物語は、人間の無意識下に存在する根源的な心理構造、たとえば対立する衝動や元型的なイメージがどのように分化し、葛藤し、そして統合されるかを示唆する。神話における世界の創造が、対立する要素の分化と再統合を経て秩序を形成するように、人間の心もまた、無意識の深層から分化や統合することで成長していく。それは神話の物語のなかで象徴的に描かれ、人間の根源的な心理構造や世界観の形成と深く結びついていると考えられる。

 人類史上最古の文明に数えられシュメール文明やエジプト文明の神話の場合、原初には未分化の無限定性の象徴としての「水」があり、そこから天の男神と地の女神が生まれるが、当初は両神は結びついた状態にあり、同棲状態にあった。しかし、天地の媒介者である大気の神が天と地を分け、世界が存在するための空間が作り出された。天地分離型の神話は天地が結合した不完全な分化状態から、新たな秩序を生みだすプロセスを象徴していると考えられる。

 アステカ神話の原初神オメテクートリの名前は「2つの物事の主」を意味し、彼は両性具有であり、男と女、光と闇、運動と静止、創造と破壊、秩序と混沌などの未分化状態を表している。彼の子どもにはテスカトリポカとその兄弟にして宿敵でもあるケツァルコアトルなどがおり、両者の対立と協力を軸として世界の創造と破壊が繰り返されていく。また、死体化成型神話を含み、兄弟神の協力によって、解体された地母神トラルテクトリの身体の各部から大地や山、川、動植物が生じた。

 北欧神話における巨人と神々との融和と闘争の物語も、未分化からの分化と統合のダイナミズムにおいて象徴的である。巨人の動きは、地震のような大地の揺れや激しい嵐という荒々しい自然現象となって現れ、混沌と破壊を生み出す。その存在は人間の理解しがたい特性をもった恐ろしき存在であった。一方、神々は自然の調和を巧みに統率し、その上に秩序ある文明を築いた存在であった。とくに西洋の伝統では、混沌を体現する存在は、恐ろしき竜や怪物といった魔獣として描かれることが多い。神話解釈学では、聖人や英雄が竜や怪物を倒す伝説は、宇宙論的な混沌を秩序へと変えることを意味するという。

 古代インドの聖典であるヴェーダによれば、宇宙誕生以前はなにも定まらない闇の状態であり、そこに創造源としての「一なるもの」と「叡智」による思索、識別が働いたと語られるが、その創造を神にさえ「分かり得ない謎」としてあつかっている点が特徴だ。これは、神話だけではなく、その後に発展した哲学的な存在論・認識論の萌芽として見ることもできる。

 道教や儒教での宇宙誕生以前の状態は、あらゆる分離や対立、区別のない、無限の可能性をもつ「無極」である。この無極から万物の根源としての無極「太極」が生じ、太極のなかから「陽」という分化の性質と「陰」という統合の性質が生じ、両者の働きから天地万物が生じたとされる。

 ポリネシアのギルバート諸島の神話では、蜘蛛の神ナレアウが「一緒になった暗闇と裂目(ポ・マ・テ・ナキ)」という原初の未分化状をひとりで歩いていた。ナレアウはこの混沌のなかで、砂と水から夫婦神であるナ・アシブとネイ・テウケズを創造した。夫婦神の結合からさまざまな神々が誕生する。そして、ナ・アシブは自身を犠牲にし、その右目が太陽、左目が月、脳が星々、肉と骨が島々と木々になったと伝えられている。

 マダガスカル神話の創造神ザナハリィは、天にも地にも、善にも悪にも、男でも女にも偏らない多重性をもち、天のザナハリィと地のザナハリィの対立から世界と人間が生まれる。ここにもまた、分化した要素の相互作用を通じて新たな秩序が形成される構造がみてとれる。

 錬金術にもまた、「溶解(分化)→賦活→結合(統合)」という法則が適用されている。錬金術師パラケルススの思想では、物質の三原質は、硫黄(能動・燃焼・腐食・男性)、水銀(受動・揮発・可溶・女性)、塩(結合・安定・中和)である。そして、三物質の起源が潜在的にあらゆる性質をもったイリアステル(宇宙論的な原初の暗闇と混沌、究極の物質)になる。

 また、言語分節の点で、「ロゴス」はわかりやすい例だ。ロゴスとは、無分節な混沌を区別し、分極し、規定する作用であり、秩序を創出する力をもつ。原初の闇と混沌のなかに光と秩序をもたらす神の理法がロゴスとして、言葉や理性の概念と結びついている。古代において、言葉は既存の事物を単にカテゴライズするものではなく、名づけを通じて世界を有意味化する根源的な創造力とみなされていた。混沌とした世界では、言語によって初めて思考が生まれ、区切りを与え、分類し、名づけることで世界が認識される。

 このような分節化の作用がなければ、秩序ある世界を認識することはできず、ものの存在もなりたたない。同様に、理性は闇を照らす光として表現される。理性によって世界を眺めると、混沌のなかから法則的関係のもとに秩序が立ち現れる。言い換えれば、ロゴスによる「規定」や「制約」は否定的なものではなく、混沌に形を与え、多様な秩序や意味を生み出す。これらのプロセスは、自己認識と世界認識の間で行われる分節化の根本的な作用力であり、個々の存在を識別し、意味を付与することによって、現実世界が形成されるだ。

 さらに、自我の獲得の例として、神に背いて善悪(天地と同じく「すべて」を意味する)を区別する知識の実を食べたアダムとイブの物語がある。彼らは内と外、自と他の違いを認識する自我意識をもち、自己保身や利己的思考に基づく価値判断を行うようになった。この楽園からの追放の物語は、自我の獲得とそれにともなう原罪や悪徳、肉体的な苦痛の起源を示していると考えれる。

 聖書では、見る者と見られる者という主客の区別をもたらす分節作用が自我や原罪の源であった。一方、大乗仏教においては、この識別作用を「分別智」と呼び、これが個々の自我や事象がそれ単独で成立し、明確な境界線をもって固定的に存在するという妄想を生み、それが我欲や煩悩の要因となると説く。そして、究極的にすべてが統合された「無分別智」による知見こそが悟りの状態なのだと説かれる。

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