なぜ古今東西の神話や宗教、哲学の真理が本質的に同じ存在だといえるのか💪💪

 本稿は、古今東西の文化が表現してきた真理に根底する共通性を考察した内容となっています。
 

 真理というものを「究極的にゆるがない根源」としてとらえるとき、そこには認識主体と認識対象の分離を超えた状態が想定される。認識する主体・主観と認識される客体・客観が分かたれているかぎり、その関係は相対的であり、立場によって変わりうるため、それは絶対的な真理とはいえない。主体が対象を観測し、概念化した時点で「解釈」や「限定」が加わり、条件づけられた部分的な真理にしかならないだろう。

 一方で、古来からの神秘思想では、真理に到達しうる究極的な意識状態は、脱魂、脱我、悟り、無為、神人合一、純粋経験、ワンネス体験、変性意識などと呼ばれてきた。これは識別や判断が生じる以前の存在の純粋な在り方だ。古来、人類は意識があらゆる識別や認識を超えた「無対象」の状態を、単なる「無」ではなく、むしろ万物が生まれる根源、すべてが分かれる以前の無限の集合と考えてきた。そこでは「私」と「外界」の境界も、「存在」と「認識」の二重性もなく、すべてが一体の全体性として、未分化・未識別のまま立ち現れると考えられる。

 最終的に到達されるこの「無対象」の状態とは、文字どおりの無ではない。主体と客体が完全に一致したとき、意識は自我や個我の枠組みを超え、物自体、すなわち世界そのものの視座となる。それはあらゆる分別を捨て、在りてあるままに世界をとらえる観察、直観である。そこでは、事物や現象の定義や区別もなく、自己と対象を分ける境界すら存在しない。ただ「無対象の主客未分」の様態が顕れている。

 この「無対象」の意識状態は相対的な立場に依存せず、あらゆる存在を包み込む根源そのものであり、変わらない基盤として「真理」と呼ぶことができる。したがって、自我意識の識別作用のなかにとどまるかぎり、真理に到達することはできない。自我を中心にした思考や判断、そこから生じる欲望や執着、迷いを超えてはじめて、本当の現実、本来の真実が開かれることになるのだ。 

 神秘思想では、宇宙の森羅万象はそれぞれ孤立した存在として分離しているのではなく、より深く根源的なひとつの実在が多様な姿を借りて顕れたものと考えられてきた。この根源的な無対象の存在は、大いなる神秘、神、タウヒード、エイン・ソフ、愛、アルケー、最高善、一者、無、無限、イリアステル、ダルマ、悟り、真我、無我、空、真如、道、無極、実体、ハイヤーセルフ、ワンネスなど、文化や伝統ごとに異なる名で呼ばれ、自然界のあらゆる現象を支える根源そのものとして尊ばれてきた。

 この無対象の存在とは、万物の起源であり、あらゆる可能性を含んだ未分化の全体性の状態である。それは無際限で、無限定で、無定形で、無定義な存在であり、すべてが分かれる以前の全能的な統一性をもつ。神話において天と地や陰と陽、光と闇、善と悪、男と女などが分離する以前の原初の場がしばしば「水」「混沌」「暗闇」「無限」「空虚」として表されるのも、この無対象の状態を象徴する表現であると考えられる。そこから万物が分化し、有限で秩序をもった意味や世界が創造されたと語られてきた。

 その無際限の未分性ゆえに、それはほかのなにものにも依存しない自立自存した絶対者、究極の一者であり、永遠であり、不変・無限・普遍であり、完全で全能であると表現される。そして存在そのものが究極の叡智と知識を体現するものとして理解される。この状態はすべての起源であり、また終焉でもあり、時間と空間の制約を超えた普遍的真理として語り継がれてきた。

 同時に、それは究極的な未分化で相互依存の状態であるゆえに、あらゆる存在が互いに関係しあい、支え合いながら一体としてなりたっている。そこには独立した個が単独で存在するのではなく、すべてが全体のなかに包まれ、全体がすべてのなかに息づいている。個と全体、部分と全体性が分かたれることなく同時に成立しているため、それは「無限の連関」あるいは「縁起」、「空」とも言い換えることができる。

・絶対的視点(主体性・統一性を重視)
 未分の一元性の世界はすべてを包摂する根源的状態であり、分離や区別は存在せず、永遠不変で完全な唯一実在として理解される。プラトン哲学の「善のイデア」、一神教の「神」、ヴェーダ哲学の「真我」などに通じている。

・相対的視点(客体性・関係性を重視)
 永遠不変の実体を否定し、存在を相互依存的な関係のなかでとらえる。世界は絶えず変化する動的なプロセスとして理解され、道家の「無為自然」や仏教の「無常」、汎神論などに表れている。

 このふたつの見方は、一見矛盾するように見える。しかし、これは「無対象、未分化の全体性」を「ひとつの統一体」としてとらえるか、「相互関係の集まり」としてとらえるかの違いである。

 冒頭に述べたように、主体が対象を観測し、概念化した時点で「解釈」や「限定」が加わり、それは条件づけられた部分的な真理にしかならない。その意味では、真理とは「創造主」「全知全能」であるとか、「絶対者(自立自存した永遠不変の個体)」ではなく「空(相互依存した全体の動態)」であるとか、「無」ではなく「無限」であるとか、「アートマン(真我)」ではなく「ニルアートマン(無我)」であるといった表現は、それぞれ特定の枠組みによる切り口にすぎず、究極の意味での真理そのものではない。これらは、主客未分の体験を、主客が分離した世界へと写し取った象徴的表現にすぎないのだ。

 イスラム教、大乗仏教、道教などにおいても、真理(神、真如、道)は本来的に姿形をもたず、言葉や概念では完全に表現できないことがすでに指摘されてきた。なぜなら、真理はあらゆる二元論的な対立や矛盾を超え、「分別」や「限定」をともなわないからである。それは根源的な全体性であり、語り尽くされるものではなく、むしろ「沈黙のうちに体験されるもの」、すなわち「無対象の主客未分の境地」としてこそ理解されるべきものなのかもしれない。

 それゆえ、それぞれの神話の語り手や宗教の開祖が示した真理のとらえ方は「誤り」であるという意味ではなく、それぞれの気候風土、文化的背景、思想的文脈、人々の理解の水準に応じた表現であってよいのだと思われる。重要なのは、その表現のちがいを超えて、彼らが指し示そうとした核心が共通して「言葉以前の全体性」へと向けられていたという点である。

 真理そのものが概念ではとらえきれない以上、それを語る方法が多様であることはむしろ当然であり、ひとつの枠組みだけが絶対的に正しいということはありえない。むしろ、異なる表現のあいだに響き合いを見ることで、真理が本来もつ広がりや深さがより明瞭になるのだろう。

 その意味では、宗教的伝統の多様性は対立の理由ではなく、同じ不可言の領域へといたる複数の道筋として理解されるべきであり、それぞれの視座が補い合うことで、主客未分の体験へと開かれた理解がより豊かになるのだと言える。

関連する近代哲学

カント哲学
「物自体」 認識主体の制約を超えた根源的実在。

ヘーゲル哲学
「絶対精神」 主観と客観、個と全体の統合。最終的には自己認識を通じて全体の統一として現れる。

ライプニッツ哲学
「モナド論」 個は独立しつつも全体と調和して存在。全体性と部分性が分離せず同時に成立する。

ベルクソン哲学
「持続」 世界は絶えず変化するプロセスであり、静的な実体ではなく流れとして理解される。

フッサール哲学
「現象学」 判断・概念を脇に置き、現象そのものを直接経験する。

ホワイトヘッド哲学
「有機体論」 宇宙は固定実体ではなく、関係と過程として理解される。

西田哲学
「絶対無」 世界や自己が現れる基盤としての「場所」。すべてを包含しつつ、生成の源泉。


 本稿がいう真理とは、無識別・無対象の意識状態、認識主体と認識対象の分離を超えた根源的実在や、個と全体の統合、生成と関係性のネットワークとして定義しています。この真理の存在は、宇宙の根源として物理学的にも定義できるのでいつかそのことも記事したいです😄

関連記事
なぜ真理は「善」や「美」、「愛」「慈悲」といえるのか、なぜ人間の道徳側面と強く結びついてるのかを考察しました↓

分離と統合の観点から考える神話考察↓