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世界が称える志賀潔博士を忘れた日本 ―― 毒素名にみるガラパゴス現象

はじめに

前回は、温度単位の扱われ方・変遷が国によって多様であることを紹介し、ある種のねじれ現象が見られることを説明しました。

すなわち、ドイツでは、自国出身の偉大な物理学者ファーレンハイトが考案した「華氏」が用いられたことはなく、かつての敵国・フランスの物理学者レミュールが考案した「列氏」という単位が20世紀半ばまで用いられていました。

他方で、イギリスや米国では長きにわたって、かつての敵国・ドイツ出身のファーレンハイトが考案した「華氏」が、温度単位として長年使用され続けてきました。(ファーレンハイトが活躍した時代には、ドイツ人とかネーション概念は未確立だったはず、という冷静な突っ込みは勘弁してくださいね)

温度単位をめぐる「華氏」の扱いのねじれ(すなわち、考案者が自国では評価されず、他国で賞賛され用いられていた)とおなじようなエピソードが、医療・感染症分野でも存在します。実は、広く世界中で日本人研究者由来の名称が通称になっているにも関わらず、本国・日本では、別の名称が使用されている、という由々しき?実態が存在するのです。

具体的には、偉大な細菌学者、志賀潔博士の業績と、その献名としての細菌や毒素の名称のことです。今回は、このあたりの事情について取り上げます。


赤痢菌の発見者志賀潔博士の功績と命名

1897年(明治30年)のことです。日本国内で赤痢(せきり)が大流行し、多くの死者が出ていました。北里柴三郎の門下生であった志賀潔は、患者の便から原因となる細菌を世界で初めて突き止めました。

この偉大な功績を称え、彼の国際的な姓の表記である「Shiga(志賀)」に、細菌の属名を表す接尾辞「-ella」を組み合わせ、国際的にShigella(シゲラ属)と命名されました。

シゲラ菌の中でも特に毒性が強く、最初に発見されたタイプは「Shigella dysenteriae(志賀赤痢菌)」と呼ばれており、この菌が産生する毒素は「Shiga toxin(志賀毒素)」と名付けられています。赤痢(赤痢菌による粘血便症状)はShigellosisと表現されます。

師匠の北里柴三郎と比べると国内知名度は劣りますが、志賀潔という名前ぐらいは聞いたことがある人は少なくないと思います。ちなみに、時々勘違いされますが、志賀潔と志賀直哉は全く無関係で、親類関係はありません。

ともあれ、世界中では、発見者である志賀潔博士に敬意を表し、赤痢関係で広く名が掲げられているのに対し、国内では「志賀菌」といった表現は何故かあまり見かけません。

Shigellosis(赤痢)は、日本ではまれな疾患となっていますが、現在でも世界中で数多く発生しており、深刻な国際的公衆衛生上の課題となっています。発展途上国だけでなく先進国でも発生しており、近年では治療薬が効かない「薬剤耐性菌」の拡大も深刻化しています。


腸管出血性大腸菌とは

シゲラ菌の中でも特に毒性が強いのが、Shigella dysenteriae(志賀赤痢菌)であり、この菌が産生する毒素が「志賀毒素(シガトキシン)」であることは上述しました。実は、この毒素、元祖である志賀赤痢菌以外の細菌においても、この30年の間、世界中で数々の健康危機を引き起こしてきました。

「腸管出血性大腸菌」という名称は耳慣れないかも知れませんが、「O-157」という用語は多くの方が見聞きしたことがあるのではないしょうか。なんと、この菌も志賀毒素を保有しているのです。このあたりの事情について、これから説明します。

大腸菌には、毒性のないものから強毒なものまで様々なタイプのものが存在しますが、最も毒性が強いのが腸管出血性大腸菌です。1982年、米国オレゴン州とミシガン州の複数のマクドナルドで、加熱不足のハンバーガーを食べた多くの人々が、激しい腹痛や血便を発症しました。

患者の便からは、「大腸菌O157:H7」が検出され、この菌が重い食中毒を引き起こす原因であることが証明されました。O157やH7は、菌の外膜糖鎖や鞭毛の識別番号ですが、激しい腸管出血や腎不全により死に至らしめる大腸菌の一群は「腸管出血性大腸菌」と命名されました。英語ではEnterohemorrhagic Escherichia coliで、EHECと略されます。

1996年(ちょうど30年前ですね)大阪府堺市の学校給食によるO157集団感染(感染者9000名以上、死者3名)は、O157単独では世界最大規模の食中毒とされています。

腸管出血性大腸菌(EHEC)は、O157以外のタイプの大腸菌でも発生します。2011年(というと東日本大震災が発生した年です)のゴールデンウィークの日本を震撼させた焼肉店ユッケ事件、こちらは富山県を中心に発生しましたが、こちらはO157に加え「O111:H8」というタイプのEHECが原因と同定されました。

日本でユッケ事件が騒動となっていたちょうど同じ時期に、欧州ではドイツを中心に広域的なEHEC食中毒が発生し、感染者5000名以上、死者50人もの被害が出て深刻なパニックが発生していたのです。

3つの食中毒(健康危機)事案を比較しておきます。


腸管出血性大腸菌の毒素名のガラパゴス現象

ここではこれ以上、腸管出血性大腸菌(EHEC)の臨床症状や対策については踏み込みませんが、重症化の原因となる毒素がここからの論点です。

EHECの患者が重症化するのは、菌が産生する毒素が原因であることが解明されています。当初、この毒素は国際的にVerotoxin(VT)と呼称され、日本でも「ベロ毒素」という名称が定着しています。

ベロ毒素が命名(発見)されたのは1977年のことです。アフリカミドリザルの腎臓由来の「ベロ細胞(Vero細胞)」を用いて大腸菌の培養実験を行っていたカナダや英国の研究グループが、「Vero細胞をまたたく間に全滅させてしまう、強力な毒素」を発見しました。当時はまだこの毒素の正体がよく分かっていなかったため、「ベロ細胞(Vero細胞)に対して毒性を持つ(toxic)物質」という意味で、Verotoxin(VT)と命名された経緯があります。

その後、EHEC食中毒の重症化の原因がVerotoxin(ベロ毒素)であることが解明しました。しかし、話はここで終わりではありません。研究がさらに進むと、大腸菌から見つかったVerotoxin(ベロ毒素)は、な、な、なんと、志賀赤痢菌が産生する志賀毒素とほぼ同じ構造であることが判明したのです。

このため、Verotoxin(ベロ毒素)の代わりに「Shiga-like toxin(SLT:志賀毒素様毒素)」という名称が提唱されるに至りました。さらに、細菌学の専門家の間では、「like」を省略し、志賀赤痢菌の毒素も、腸管出血性大腸菌の毒素も「Shiga toxin (Stx)」で統一することがコンセンサスとなりました。

そしてさらに、腸管出血性大腸菌という細菌の名称も、従来のEHECからSTEC(Shiga toxin-producing E.coli)、日本語訳をすれば志賀毒素産生性大腸菌へと変更されていきました。現在では、微生物学、ゲノム解析、食品衛生、疫学の学術論文、さらに世界保健機関(WHO)やCDCなどの機関においては、主にSTECやShiga toxin (Stx)の用語が使用され、EHECやVerotoxinはほとんど死語になっています。

このようにグローバル・スタンダードでは、腸管出血性大腸菌の名称、そして毒素の名称として、志賀潔氏を称えその名が冠されています。ひるがえって我らが日本では、研究者コミュニ―ティも行政、マスコミも、いまだにEHECやベロ毒素と表現し続けるという、ガラパゴス現象が見られます。


おわりに

大腸菌(E.Coli)、サルモネラ菌、ペスト菌、リケッチアなどは、いずれも発見した科学者に由来した名称ですが、学問の世界では、顕著な業績を挙げた科学者への献名はごく一般的なことです。国際的には志賀潔博士への敬意から、赤痢菌や大腸菌関連で、世界中で広く志賀氏の名前が広く用いられています。

なのに、母国・日本でその用語が用いられないのは何故なのか、摩訶不思議です。もしかすれば、「バイキンの名前や毒の名称に、志賀先生の名前を使うのは失礼極まりない」という発想が日本社会の集合的意識として存在するのでしょうかね。

日本の子ども達の悪ふざけ遊戯行動として、個人の名前を付けて「○×菌」という呼称で、「菌がうつる」といった架空のルールでバイキンごっこをする悪習が存在します。東日本大震災の後、福島から他県に避難した子どもたちが、「○×菌」呼ばわりで侮辱・排除された受けた事案も実在します。そもそも放射線は病原菌ではないので、科学的にはナンセンス極まりない愚行ですが、ともあれ、このような基層的カルチャーも影響しているのかも知れません。

話は変りますが、2015年に大分市の「高崎山自然動物園」で生まれた赤ちゃんザルが、公募で「シャーロット」と名付けられました。同時期に生まれた英国王女にあやかった名前ですが、「王室に失礼だ」という批判が殺到したそうな。英国大使館が問題なしと表明して一件落着しましたが、国や文化によって命名に関する考え方の違いがよくわかるエピソードです。

前述のとおり、病原体の名前などに、かつては発見者の功績を称えて人名を付けることが一般的でした。けれど現代の新興感染症においては、人名や地名、動物名を付けることは、差別・偏見をもたらすおそれがあるとして、世界保健機関(WHO)は慎重姿勢に転じています。時代とともに、価値観が変わっていくということなのでしょうが、あなたが新たな病原体や毒素を発見したら、自分の名前を付けたいですか?

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