白い霧の約束 第三話
前回までの話
ナミ、と声がして振り向くと、
手を大きく振りながら、笑みをこちらに向けているナオコがいた。
「ナミ!おはよう!」
その横で、少し遅れて小さく手を挙げる。
「……おはよ」
ミチだった。
ふたりに笑顔を向けられて、ナミも自然と口元がゆるむ。
「おはよう」
ナオコは、ナミが小学校を親の再婚で転校する前に通っていた学校の友人だ。
高校に入学して、まさか同じクラスで再会できるとは思っていなかった。
制服姿で「久しぶり」と笑い合ったあの日のことを、ナミは今でもよく覚えている。
本当に、嬉しかった。
ミチは、ナオコと同じ中学だった。
不思議な雰囲気の子だと思った。
いつも少し眠たそうな目をしていて、言葉は少ないのに、時々こちらの心の奥を見透かすような視線を向けてくる。
――どうしてナオコと、こんなに仲がいいんだろう。
入学してすぐの頃、ナミはミチが少し苦手だった。
けれど、ミチへの印象が大きく変わる出来事があった。
それは、一年の秋の終わり頃だった。
⸻
ナミは、その日も放課後になると図書室へ向かった。
家には、居場所がなかった。
だからここは、ナミにとって静かな避難場所であり、ひとりになれる勉強部屋でもあった。
窓際のいつもの席に座り、問題集を開く。
しばらくして、背後からひそひそとした声が聞こえ始めた。
ちらりと視線を上げると、こちらを見ながら小声で話している。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
その日のナオコが他のクラスの友人から聞いた話によると、
――ナミが、図書室でお金をもらっているという噂。
そして、その見返りに――。
「……私、そんなことしてない!」
思わず声が大きくなっていた。
周囲の視線が一斉に集まる。
否定すればするほど、噂は奇妙な形に膨らみ、
いつの間にか、まるで事実のように広がっていった。
⸻
ある日の放課後。
図書室でひとり勉強していると、視界に影が落ちた。
顔を上げると、三人の男子生徒が、ナミの前に立っていた。
「ナミちゃんさ、あの噂って本当?」
一人が、にやにやしながら言う。
「俺たちもお願いしたいんだけど」
「ぶっちゃけ、一人いくら?」
「三人だと、セット割とかあるの?」
言葉の意味が理解できた瞬間、頭の中が真っ白になった。
ナミは俯いたまま、顔を上げることができなかった。
けれど、シャープペンシルを握る右手には、無意識に力がこもっていた。
ぎゅっと握りしめた指先が、少し震える。
そのときだった。
――バンッ!
突然、上履きが一足、ものすごい勢いで飛んできて、男子生徒の肩に直撃した。
「いってーー!」
悲鳴と同時に、怒りで顔を歪めたミチが立っていた。
その後ろには、ミチの背中に半分隠れるようにして立つナオコの姿。
「ナミが図書室に入ったすぐあとに、
お前らがナミの後つけてたの見たんだよ」
「来てみたら、やっぱりか」
ミチは一歩前に出て、三人を睨みつけた。
「お前ら、バカ?」
「ナミが売春なんかするタイプに見える?」
「普段のナミ見てたら、そんなこと思うはずないでしょ」
「噂に振り回されてんじゃねぇ!」
怒りを押さえきれないように、早口で言葉を叩きつける。
その横で、ナオコが小さく、でもはっきりと告げた。
「……今の会話、スマホで録音したから」
「これ以上ナミに何かしたら、先生に言うからね」
三人の男子生徒は、顔を引きつらせたまま、何も言わずに図書室を飛び出していった。
静けさが戻った、その直後。
「――それとさ」
ミチが、視線を鋭く別の方向へ向ける。
「前に隠れてるお前。分かってんだよ」
「出てこいよ」
しばらくして、図書室のカウンターの陰から、両手を上げながら一人の男子生徒が現れた。
「お前も、さっきのやつらと一緒?」
ミチが問い詰める。
その瞬間、ナミが小さく口を開いた。
「……たぶん、この人は違うと思う」
三人が驚いたようにナミを見る。
「毎日、私と同じようにここで勉強してたから……」
ミチは少しだけ考えるように黙り込んでから、鼻で息を吐いた。
「ふーん。だったら隠れてんじゃねえよ」
「……ごめんなさい」
男子生徒は小さく頭を下げた。
「とりあえず、ここ出よっか」
ナオコがそう言って、場をやわらかく締める。
「岸本くん、でしょ?」
「勉強の邪魔して、ごめんね」
三人は静かに図書室を後にした。
⸻
廊下を、しばらく無言で歩く。
重たい空気に耐えきれなくなって、ナミはぽつりと呟いた。
「……ごめんね」
「え?」
ミチが、少しだけ怒ったような声で返す。
「なんでナミが謝るの?」
「ナミは被害者だよ。謝る必要ない」
ナミは俯いたまま、答えた。
「でも……ふたりが来てくれなかったら、私、何も言い返せなかったと思う」
ミチは、ナミの右手をじっと見つめた。
強く握りしめすぎた拳は、まだ小さく震えている。
ゆっくり手を開くと、爪の跡が赤く残っていた。
「……そうかな」
ミチは小さく息を吐いて、ナミの方を見る。
「ナミ、私はね」
「ナミは弱くないと思うよ」
「きっと私たちが来てなくても、言い返してたんじゃないかな」
「それにさ」
少し照れたように視線を逸らして、続ける。
「これからは、一人で抱え込まないで」
「私たちがいるんだから」
「ね、ナオコ」
ナオコは、やさしく微笑んで、静かに頷いた。
⸻
それから月日が経ち、三年生の冬。
三人は、また同じ図書室にいた。
あの頃と同じ窓際の席。
けれど、机の上に広がっているのは、もう高校の問題集ではない。
参考書と過去問題集。
カレンダーには、赤いペンで丸がついている。
――大学入学共通テストまで、あと少し。
静かな図書室で、シャープペンシルの音だけが、規則正しく響いていた。
第三話
了
※本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・出来事はすべて架空のものです。
実在の人物や団体、出来事とは一切関係ありません。
