「作品」ってなんぞや? 写真における「作品撮り」という言葉をめぐる不寛容から考えるポジティブ・ケイパビリティに満ちた「大衆」の肖像
twitter(現: X)以上に治安が悪いと名高いスレッズでは、相変わらずカメラや撮影に関連したホットな話題が、高頻度で流れてきています(それでもサービス開始当初よりは治安が多少マシになったような気もします)。
そんなスレッズですが、「これ10年くらい前にtwitterで見たやつだ!」というものから、用語の定義についてあまり熟考してこなかったと自省を促されるトピックを目にすることも多く、様々な気づきや記事用のテーマを発見することも少なくありません。今回はその中のひとつ、「作品撮り」について考えてみたいと思います。
あいまいさや宙吊りに耐えること
まず大前提として、言葉や用語は、時代や文脈・使用する人の属性(プロパティ)によってそれが指す内容は異なります。辞書的な定義のように客観的なエビデンスやコンセンサスがなければ、「⚪︎⚪︎はXXだ/ではない」というような安易な断定に陥ってしまいます。
とりわけ今日の情報化社会あるいはSNS上では、好きか嫌いか、0か1かといった幼児的な価値判断に類する主張が氾濫しており、物事や用語についてはタイパを悪くしながら調べたり、熟考する能力や、ささいなことや曖昧なことを読み飛ばす「ネガティブ・リテラシー」(佐藤卓己, 2024, 『あいまいさに耐える ネガティブ・リテラシーのすすめ』, 岩波書店を参照)が必要な時代になっています。
「作品撮り」とは別の話題ですが、ポートレートに特化したカメラ雑誌『フォトテクニックデジタル』(2021年7月休刊)が人気を集めていた頃、カメラを始めて間もない人にいわれたことに「背景がボケないとポートレートじゃないんですか?」「女性モデルじゃないとポートレートじゃないんですか?」というものがありました。
どちらも『フォトテクニックデジタル』を無批判に・教科書的に読み続けることで抱いてしまう思い込みで、「ポートレートは肖像・人物写真なので被写体のジェンダーは関係ない」「ボケに関しても、背景をぼかすことで被写体となる人物を強調したり、鑑賞者の注意が引けるので、ポートレートと相性良いの技法として好まれるにすぎない」と説明したことがあります。
そのように、当たり前に使っている用語のコンセンサス(統一見解)が取れていないというケースは日常生活でも多くありますが、そういった解釈のズレを許容するあるいは読み・聞き流すことの重要性をSNSを眺めながら痛感させられます。
言葉のあいまいさに寛容であること
「作品撮り」という言葉については、辞書的な定義のある「ポートレート」とは異なり、明確なコンセンサスがあるわけではなく「業界ではテストシュートという」「仕事につなげるための制作」「プロがやること」「展示用の作品撮り」「作品撮りがしたい」などなど、個々人の発言がざっくばらんな状態で飛び交っていますが、気になる点といえば、「業界」という基準を持ち出して(ややマウントを取るように)「業界では/プロの現場では作品撮りとは⚪︎⚪︎だ」というような安易な断定を、特にスレッズ上でよく見かける点です。
「業界」における基準については、研究批評のフィールドで活動しながらデザインやタイポグラフィを学んでいたはずが、紆余曲折あって写真作家やフォトグラファーとして活動することになってしまったという奇怪な経歴を持つ自分が知るよしもなく、師匠的なカメラマンの下で業界の慣習や用語に関するディシプリンを叩き込まれてきたわけでもないので、テストシュート/作品撮りについて、業界標準的な見解について述べることはできません。
とはいえ業界における慣習的な用法についてはエビデンスやコンセンサスがあるわけではなく、「業界」「プロ」といった属性を免罪符にした安易な断定の押し付けも、用語の持つ可変性を考慮しない稚拙な価値判断と感じてしまいます。
「ポートレート」は辞書的な定義が取れている一方、「作品撮り」は使用者の属性によって意味するものが大きく変わる可変的かつ曖昧な用語かつ、一般的な撮影よりもグレードの高いもの(ただ撮りたい/撮られたいではなく、意図や目的を持ったもの)として流通しています。これは「作品撮り」に限らず多くの用語、例えば「被写体」と「モデル」の違いなどにもあてはまります。
安易な断定への反逆
あいまいな用語や、自分が依拠している意味合いや価値観と異なる使い方(ただし、依拠しているもの正統性は客観的に証明し辛い)に対して、反射的に安易な断定を行おうとする「こらえしょうのなさ(ネガティブ・ケイパビリティの欠如)」やグレーゾーンや余白の(あるいは「間【あわい】」)に対する寛容性や想像力の欠如が「安易な断定を引き起こし、それが断定に対する断定を呼び込みながらSNS上で広がっていく、といっても過言ではないでしよう。
※ネガティブ・ケイパビリティはロマン主義詩人ジョン・キーツによって生み出され、精神科医ウィルフレッド・ビオンに再発見された用語で、共感(Empathy)」、相手を思いやる心、寛容性などに関連する能力を指します。SNS上での不用意な発言による炎上などは、相手のことを考えず、内に留めて口外する必要のない単なる好き嫌いを自分本位で主張したり、自分の考えや価値観が正しいという思い込んで安易な断定を行ったり、絶対的な答えのでないあいまいな問題に答えを提供しようと一方的な介入を行うこと、いわば「ネガティブ・ケイパビリティの欠如 / ポジティブ・ケイパビリティの過剰発露)」で生じやすいという印象があります。
ネガティブ・ケイパビリティについては、佐藤さんの『あいまいさに耐える』のほか、作家で精神科医である帚木蓬生さんの『ネガティブ・ケイパビリティ 答えのない事態に耐える力』(2017, 朝日新聞出版)を参照。
「作品」ってなんぞ?
一般的な写真と、作品としての写真はどういった線引きができるのか? という、よく出てきそうな、そして面倒な疑問があります。昔読んだ写真論の本(おそらく、西村清和, 1997, 『視線の物語: 写真の哲学』)では、写真が引き合いに出され、目の前に広がる世界を撮影者の意図したフレーミングで切り取ることで「作品」が生じるという一節がありました。



それに従えば、写真として切り取られた瞬間や世界は、ある点においては「作品」と呼ぶことができます。また、「作品」は製作者の意図が介在したもの、創造性や表現技法、専門スキルや人的な努力によって制作されたものといった定義もあり、製作目的や価値基準、意味性、発表形式、評価の有無など、グレーディングを細かな基準を設けなければ作品と非作品の間に明確な線引きを引くことは難しいとも考えられます。
線引きのための基準を考える
一例として、線引きのための基準を6点ほど考えてみました。いずれも、独立した基準である場合と、複数に跨ったり相互関係を伴うケースがあります。
基準1: 一定基準以上の技巧性(単純なスキルや力量)
基準2: 作品としての完成度(1にも関連)
基準3: 公開された場における他者評価の有無
基準4: 市場価値(値段の付いた芸術作品として流通しうる強度)
基準5: 何らかの目的を持って制作されたもの
基準6: 作品であるか否かという自己認識
音楽や絵画のように、エチュードや習作を積み重ねで獲得できる一定基準以上の技巧性や専門性が作品を成立させるためには必須とされる分野では、作品と非作品の境界は比較的わかりやすいのですが、写真作品の場合は基準1がなくとも成立するケースがあり、主に基準2~6の関係性が重要なものとなります。
基準1がなくとも成立するのが写真の自由さであり、万人に開かれた表現媒体としての魅力でありますが、その自由さが翻って不自由さや難解さになってしまい、技術面以外での客観的な評価を難しくしています。また、商業的な文脈でいう「テストシュート」であれば、ポートフォリオに掲載する想定や、参加者の技術力などを他者に見せて評価や認知をもらい、仕事の獲得へと繋げていくことが主目的となるので、基準1・2・3・5と強く関連しています。
ポートレートに限定されますが、自分の基準ではまず作品(works)と習作(study)をという審級があり、先の6項目で言えば、基準1・2・5・6が選考基準になります。「作品として」主に想定しているものは、主に展示や作品集制作に合わせた撮影、完成イメージやコンセプトに基づいてスタジオや衣装を詰めたり(時には衣装を制作してもらったり)、ヘアメイクやスタイリストにも参加してもらうようなケース(基準2・5に特に関連)は文字通り「作品」撮りであり、そこで撮影された中から展示や作品集掲載用の「作品」が選抜されます。
一方で習作的な撮影(場所やイメージなどを大雑把に決める、ゆるめな撮影)であっても、基準2・6との観点から、「作品」の審級に値するものが撮れる(というよりも、作品的な強度を後から見出す)ことも多くあります。ロケであれば空や光源の変化(撮影中に曇天からエンジェルラダーが差し込むなど)や、その時その場所にいる偶然を享受できる運、被写体のみせる表情の微細や撮影への没入感、レンズ選びやカメラの設定などが偶発的に絡み合って、習作が作品的な強度を帯びるというケースもあります。

被写体: 田中さおり, 衣装:金城臨太郎, メイク&ウィッグセット: aki
曇天での撮影下、エンジェルラダーが出現した例。偶然と運が、作品の強度を高めてくれたケースであり、カメラが捉えた光景と、自然の気まぐれによって生じた作品である。「私」と共同メンバーの協働作品だが、「私」は自然の気まぐれな演出に感謝しながら、シャッターを押したにすぎず、現場においてもっとも後にいる存在が「私」である。作品制作に参加してくれたメンバーと、天のきまぐれに大いなる感謝を。
作品になるように明確に意図されたケースがある一方、作品として精錬されうる潜在力を持つものが流れの中で撮れてしまう偶然性がなどが、写真の面白さであり単純な技術論・技法論では収まらない解釈や評価の難しさであると思います。
スナップや風景写真では、基準5・6の要素がポートレートよりも強く出るほか、冒頭で軽く触れた、目の前に広がる世界を撮影者の意図したフレーミングで切り取ることで写真は「作品」となるという考えが根底にあるほか、それが「作品」としての強度を高めるには基準3・4・5も求められ、主観的に切りとられた世界の断片を束ねるためのコンセプトや撮影意図、ステートメントなどの物語や作家のシグネチャーを付与することで、主観的な作品(世界の断片)が客観的な理解や評価の対象となる作品になる可能性を帯びていきます。
言葉の「間(あわい)」を許容すること
各種の用語についても、研究・批評的な文脈、商業写真の現場的な文脈(「作品撮り」ではなく「テストシュート」)、アマチュア・趣味層の用いる文脈(現在進行形で意味が付与されていく、もっとも活力のある領域)でニュアンスは異なっており、辞書的な統一見解の樹立も難しいだろうと感じます
「間(あわい)」に対する不寛容な姿勢や、ネガティブケイパビリティの欠如が安易な断定を引き起こすという点については先に触れました。また、数年前に執筆した「モデルと被写体」でも似たようなことを書きましたが、白か黒をハッキリさせようとしても、文脈や用途・目的によってグレーゾーン/「間」が生じるほか、他者の文脈に対する想像力の欠如や、オルテガによる近代批判の古典『大衆の反逆』(1929)で定義した「大衆」(階級的なものではなく、精神性に感するもの)は「自己万能感」や偏屈な専門性などが特徴の一部としてあげられているほか、さらには次のような特徴も指摘されています。
・聞く耳をもたない、外側からの声に従わない。
・単純化志向: わかりやすさ、シンプル、無垢なものを好む。
・科学より技術: 有用な技術にのみ関心を持ち、その基礎となる無用な科学的探求を軽視する性向。
・過去への忘恩: 現在の自分たちの環境を当然のものとみなし、先人の努力や過去の歴史によって築かれたものだと考えない(伝統や引き継がれてきた文化の軽視)。
・「甘やかされた子供」/「慢心しきったお坊ちゃん」: 願望や欲求が社会的に実現できないことに耐えられない。
オルテガはそのほかにも様々な比喩で「大衆」を表現するほか、専門家も「大衆」の典型であると指摘し、自分の専門分野に閉じこもって偏屈な視野・思考を持つだけでなく、専門外の分野についても発言する資格があると盲信し、政治などの別分野にも介入していく例なども指摘されます。
万能感や慢心(自己省察や他者への関心なさ/ ネガティブケイパビリティの欠如)が「大衆」の特徴であり、オルテガは「大衆」の対極として「貴族」(の精神)を設定し、先に上げた「大衆」の特徴と反対の特徴を持つと論じます。
万能感や「こらえしょうのなさ」からSNSで発信される波風の立ちそうな投稿の数々や、「専門外の分野についても発言する資格があると盲信」するSNS市民(クラスタ化されたソーシャルネチズンとも呼べる)や自警団(ヴィジィランテ)のパターナリスティックな介入の果てによる炎上などは、日常的なものとなり、「大衆」の特徴としてあげられる、他者との同調、進歩・努力の放棄、過去や歴史の軽視、万能感/自己完結、制限のない欲求なども、SNSを通じてより増幅されています。
「大衆」的精神や「超民主主義(ハイパーデモクラシー)」など、20世紀前半にオルテガが分析しなおかつ警鐘をならしてきた精神性のあり方は、SNSで繰り広げられる断定的な言説の氾濫や、用語の持つ「間」に対すると不寛容さや、こらえ性のないのないポジティブ・ケイパビリティの発露(何気ない乙津港に対するリプライや引用によるうざ絡みや、自警団的な介入)、21世紀でも変わらず偏在しているなと実感させられます。
