貴族は、死んだ。
私には、貴族に対する憧れがある。
『ダウントン・アビー』という英国のドラマを見たあたりからだっただろうか。普段垣間見ることのできない、貴族たちの、その優雅で、繊細な、そして時に、取るに足りない日常を描いた世界に心惹かれたことがきっかけである。
しかしながら、日本において同様の作品を探そうとしても中々見つからない。
後述するが、比喩としての「貴族」を描いた作品なら数多あるのだが、真の意味での貴族を描いた作品が中々ないのだ。
それは、貴族という存在が、日本社会では肌感覚で、本当にわからなくなってしまったことが理由と考える。
『あのこは貴族』という作品がある。
私は、この作品のファンで、小説版はハードカバー、文庫版のどちらも持っているし、映画化された時も予約をして劇場に足を運んだ(先着でもらえたトートバッグも気に入っている)。
その作中に「東京には、貴族がいる。」という一文が登場する。
そして、劇中には、主人公の一人で、松濤に実家のある開業医の娘の華子や廻船問屋にルーツのある政治家一家出身の幸一郎などのキャラクターが「貴族」として登場し、地方出身のもう一人の主人公、美紀との家庭環境や生活様式の差などから、階層の違いが強調される。
だが私はここに強い違和感を感じる。
前出の華子は、所詮不動産価値の高い土地に生まれた開業医の娘にすぎない。
先述の『ダウントン・アビー』に、印象に残っているシーンがあった。
主人公貴族らの遠戚に医師の家の出身者がいることが判明し、「まさかうちの親族に医師がいるとは」という旨のセリフをあまりポジティブではないトーンで発するシーンだ。
当時視聴していた私は衝撃を受けた。
現代日本社会では、まず出てこない発想のためだ(おそらく、作品のメインターゲットの英国の中間層(中流階級ではない)にも同様の驚きを引き起こすことを意図した演出だろう。あえてそのようなシーンが置かれていることを考えると、意外性をもって受け取られる医師の社会的立ち位置の前提があると考えられる。)。
そして、医師であることは、生家が貴族である場合などを除けば、決して上流階級を意味しないことを心に刻みこまれたのである。
華子の実家は代々の医師であり、豊かなことが強調されているがそれだけである。
彼らは、決して貴族ではないのだ。
メインキャラクターの幸一郎の生家の青木家についても同じことが言える。彼らは廻船問屋をルーツに持つ家系という。すなわち、商人である。
単に世代を超えて富を継承し、それにより政治権力にも近しくなったにすぎない。貴族などでは決してない。
そんな彼らを貴族として呼ぶことに強い違和感があった。
日本では、なぜ彼らを貴族と呼ぶのか、そして彼らは一体どういう存在なのか。
''Old money''という集団がいる。
''Old money''は、貴族制度を持たない共和制国家のアメリカで、時に貴族のように呼ばれる人たちである。
確固たる制度的裏付けを持たない彼らは、代を重ねて続く富と、決まった学校を卒業し、期待されるような職業につき、閉ざされた社会に共有されたプロトコルに則り生活し、慎み深い振る舞いをするという「上流」であることの記号の束により社会的に「貴族」と承認される。
資産を失った場合や求められていない振る舞いをした場合は、「貴族」からは排斥される。
非常に脆い基盤の上に成り立っている。
一方で、本来の意味の貴族は、そのような承認は必要ない。
貴族であるか否かは、単に(新規に入ってくる者、一代貴族も含めた)制度上認められた血筋のみで決まる。それだけである。
路上で痰を吐こうが、みみっちく性格が悪かろうが貴族である。
逆説的だが、貴族は、貴族的な振る舞いから自由である。
貴族的に振る舞わなくても良いことこそが、貴族が貴族たる所以なのである。
むしろ、往時の貴族たちは、貴族的に振る舞おうとしている「庶民」のブルジョワを嘲笑っていたようだ。
私の辿り着いた答えは、現代日本では、''Old money''を「貴族」と呼称しているというものである。
廻船問屋の青木家は、まさしく日本の''Old money''そのものである。
(尚、本場の''Old money''を題材にした作品としては、エリック・シーガルの小説''Love story''が挙げられる。作中では明言されてはいないが、主人公オリバーの生家バレット家は、''Old money''に当たると考えられる。作品を読んだ当時は高校生で、単なるお金持ちと庶民の悲恋としか認識していなかった。)
私の知己に、霞会館に出入りできる父を持ち(霞会館の前身は、華族会館で、現在も「名誉会員である皇族方をはじめ、旧皇族、公家、大名、明治以降に華族となった家の子孫など(HP参照)」しか出入りできない。)、母方はとある藩の後裔の者がいる。
彼女は、その背景に見合わない質素な生活で、金銭面で「しっかり」しており、チェーン店の牛丼を好む。ちなみに御尊父は、一般の企業勤めである。
一方で、彼女は紛うことなき日本における高貴な血筋である。
しかしながら、現代で「貴族」と称して、彼女のような人物を指すことは少ないであろう。
もちろん、現代に日本において貴族制は存在せず、そもそも比喩にしかならないことはわかっている。しかしながら、それゆえに、日本には貴族は存在しないのだなと感じ入ってしまうのである。
戦後見事に民主化された日本は、天皇家を除き、良き隣人のみを持つ環境となり、誰も自身の上に戴くことはない社会となった。
そんな社会が、''Old money''をして新たな「貴族」と為してしまっている。
そして、それを我々は、本当に当然のこととして受け止めている。旧華族は、今や「何か先祖が偉かった人」以外の何者でもなくなってしまった。
時折、体験格差論争を目にするが、あれは、本来機会は平等に与えられるべきで、自身にも可能性があったはずなのに自身は体験できておらず、体験できている彼らはずるいという発想が根底にあるように思う。都市部の「太い」実家に生まれ、様々な体験を重ねている彼らを、時に「貴族」のように呼ぶ声があるが、本来の意味の貴族であったならば、そのような発想には至らないだろう。なぜなら、貴族と我々は根本から違うのだから。
日本に、貴族は、もはやいないのだ。
本当に、いないのである。
それは、平等社会の達成という観点からは素晴らしいものであり、私自身喜ばしく思っているが、日本の、その長い歴史を考えると(華族制は短いという指摘は本質ではない)、短期間のうちにこうも跡形もなく消え失せてしまった事実に、少し物寂しさを感じてしまうのである。
