蓮の夢と、暗闇と。【手神さまへの手紙⑧】
蓮の花の植えつけ体験についてご報告した、前回の記事。
そのコメント欄でのやりとりで、ずいぶん前にみた夢のことを思いだしました。
自分が蓮になる夢です。
蓮といっても、美しい花ではなくて、泥に埋まった蓮根になった夢。
とてもシンプルなのですが、印象的な夢でした。
泥のなかで目を覚ました「蓮根のわたし」が、その暗い世界で上へ上へと芽を伸ばしていくのです。
最初、暗いなあ、息苦しいなあと感じているのですが、ふと氣がつきます。
この泥は、わたしの養分なんだよなあ……って。
わたしはこの泥のおかげで、こうして芽を伸ばしていかれるのだなあって。
そうしたら、その瞬間、泥がまぶしく輝いて。
わたしはその明るさのなかを、上へ、上へと伸びながら、ああ、泥って光だったのか……と思うのです。
わたしを育ててくれる、まぶしくて、やすらかな光だったのか、と──。
安堵と喜びとに身をつつまれたその感触を……いまでも目を閉じればありありと思いだせる氣がしますが、不思議なのは、この夢をみた当時は、蓮は決してわたしの身近なものではなかった、ということです。
いまでこそ、蓮はわたしの世界になくてはならない大切なものですが、この夢をみたのは二年以上前のこと。
二年、と覚えているのは、この夢をみてから少しして、友人が、近所のお寺の蓮の植えつけ体験に誘ってくれたからです。
前回の記事に書いた種蓮根の植えつけを、初めて経験したのが二年前。
そのときわたしは、自分の両手でしっかりと泥を感じ、蓮根を、ゆっくり押し沈めるように植えつけました。
夢でみた「光る泥」を、そっと脳裏に再現しながら。
わたしはたぶん、暗闇というものが、あまり苦手ではありません。
少なくとも、暗闇に悪い感情を一切抱いていないのですが、それは、こういう体験が影響しているのかもしれないと、あらためて氣がつきました。
暗闇……ときくと、不思議と氣持ちの明るくなる自分がいます。
暗闇で目を閉じたら、みえないはずのものが、なぜだか目に映るような氣がしたり。
あるいは、みえないかわりに、耳を澄ませばきれいな音がきこえるような氣がしたり。
「暗」にも「闇」にも、なぜか「音」という字が使われています。
それぞれの漢字の成り立ちを調べてみると、「意味を表す文字と、音を表す文字とを組み合わせた形声文字である」というのが、最も一般的な説です。
「暗」でいえば「日へん」、「闇」でいえば「門構え」の部分が「意味」を表し、「音」の部分が「音」を表す形声文字。
でも、「暗」と「闇」、その両方に「音」の文字が入っている理由がそれだけだといわれても……やっぱりちょっと、しっくりきません。
他にはこんな説もありました。
それぞれに含まれる「音」の字は、「神が音連れる」ことを表している、と。
これはおもしろいな、と感じましたが、せっかくなので、わたし自身がここ一年程感じてきた「くりすたるる説」も、みなさんと共有できたら嬉しいと思います。
ちょっと量子力学の話にふれますね。
量子力学の、「世界は波であり、同時に粒子である」という定説は、ご存知の方が多いのではと思います。
世界は、誰かに「観測」されるまでは、無限の可能性を有した「波」の状態で存在し、誰かに「観測」されたそのとたん、「粒子」として確定する。
かのアインシュタインをも嘆かせた、「人が観測していないときには、月はそこに存在しない」という理論ですが、わたしは「暗闇」という言葉を目にするたびに、この定説を思いだします。
「暗」の漢字を、「明」と比較してみると、わたしの意図が、少しが伝わりやすいかもしれません。
「明」と「暗」は、どちらも「日へん」。つまり光に関係しています。
「明」の「つくり」は「月」ですから、「月(あるいは月にかわるなにか)に光があたり、それが映しだされた状態」だと捉えることができます。
まさに月が日の光を映し、それが観測された状態ですね。
「みえる世界」は、こうして物質に反射した光がわたしたちの目に映ることで成立します。
対して「暗」ですが、「音」は「月」のように光を反射することがありませんし、それ自身は波として存在しています。
ですから、漢字のなかの「音」の部分は、耳で響く音そのものというよりも、「波の状態で存在し、光を映さないもの」の象徴だと捉えてもいいのでは、と思うのです。
光は、それを映すものがなければ目にみえません。
太陽光が届いていても、それを反射するものがない宇宙空間が暗いことに思いを馳せれば、わかりやすいですね。
そう考えると、「暗」という字は、「光がない」のではなく、「そこに光はあるけれど、それを反射するものがなく、目にみえない」状態を表すのではないかしら。
これを量子力学風に、ちょっとまとめてみますね。
・「明」は、「物質が光を反射し、観測された粒子の世界」。
・「暗」は、「光は反射されておらず、いまだ観測されていない波の世界」。
どうでしょうか。
もちろんこれは、ひとつの「くりすたるる説」に過ぎませんが、暗闇を「光が届かない場所」と捉えるよりも、「みえない光に満たされた空間」なのだと感じるほうが──生きていくのが、たぶん、ちょっと楽しくなります。
「外側」の暗闇も。
「内側」の暗闇も。
どちらも、「まだみえない光」に満たされています。
そしてほんの少し見方をかえるだけで──そこは、光の湧きだす泉となります。
その光を感じるためには、ただ「氣づく」だけでいい。
蓮の夢で、わたしが泥の本質に氣づいたように。
そうして、暗闇の明るさに氣がつく人が増えていくと、世界はそれだけで少しずつ明るく軽くなっていく、とわたしは信じています。
なぜならそれは、光が「観測」されることだから。
その光が粒子として、この世界に「確定」されることだからです。
さて、それでは「手神さまへの手紙」のマガジンからのご紹介です。
大変僭越ないい方になってしまうかもしれませんが……「暗闇のなかのみえない光」を感じずにはいられなかった力強いご投稿のなかから、三つの記事を。
ひとつめは、こちらの記事です。
みかづきさんの、「グローブを脱いだ日~コロナ禍に出会った二人」。
みかづきさんには、大切な「彼」がいらっしゃいます。
その彼と手を握りあう……日常のひとコマが、心に残るご投稿です。
私は彼の手を握る時、親指を包み込むようにしっかりと握る。
障害のある彼の体は脇から下の感覚が全くない。
指は親指だけに感覚がある。だから親指にしっかりと思いを込める。
今日も元気でいてくれてよかったと。
彼は私の手を握る時、手首をクイックイッと動かす。
手首を動かして手を持ち上げた時、指に力を入れなくても自然と指が曲がるというのはわかるだろうか?
こんなおふたりのそもそもの出会いは、「リハビリの先生と患者さん」として、でした。
そこからみかづきさんの退職を経て、いまのご関係を築くまでの記録は、他のどんな文章でも読んだことのない、新鮮な愛情にあふれたものだと感じます。
記事に書かれているのは、彼の親指をしっかり握るみかづきさんと、手首をクイックイッとさせて、それに応える彼。
けれど、本当につながっているのは、ふたりの手だけではなくて、魂同士なのだと感じずにはいられない──「みえない光」に満ちた記事です。
続いては、こちら。
sanngoさんの、「『最期の握手』#手」。
記事より引用します。
居酒屋風スナックのカウンターに腰掛けると
「久しぶりだね」
隣の男性が声を掛けてきた。
「え?」
振り返ると以前はうちの常連さんだった◯◯さんが、笑っていた。
「行けなくなっちゃって、ごめんね」
「全然いいよ、気にしないで」
ごくごく普通の挨拶を交わして、私は愛想笑いで話を切り上げるつもりだった。ところが⋯
「実はさ⋯」
「なぁ〜に?改まっちゃって」
彼は思い詰めたような表情の後で、何かを振り切ったように自分の左脚を私に見せた。
「えっ⋯⋯」
思わず息を飲んでしまった。そこには膝から下が切断されてベージュのサポーターを巻いただけの彼の脚があった。
特に身構えることなく文章を読んでいたわたしは、そこで突然、心臓をきゅっと締めつけられたようになりました。
文章で読ませてもらってもそうなのですから、○○さんを実際に目に前にしたsanngoさんの、そのときの驚きはいかばかりだったかと思います。そして、sanngoさんにご自分の片足をみせられたときの○○さんのお氣持ちを想像すると、やはり胸がつまされてしまいました。
でも、本当に胸につまされたのは、引用できなかった後半部分かもしれません。
sanngoさんが、「こいつの意地っ張りは本物だと思った」とおっしゃった、その後のおふたりのお話。
ぜひ、sanngoさんの記事のほうでお読みになってくださいね。
最後にこちらの記事です。
まゆ♪さんの、「【企画参加】るるさん発#手にまつわる話/もしも手を失ったら。
ご趣味でオーケストラに所属され、バイオリンを演奏される、まゆさん。
そんなまゆさんが記事で取りあげてくださったのは、大切な手を失い、それでも表現することを諦めなかった、三人のアーティストさんたちの動画です。
火傷のために指が不自由になり、二本の指だけで演奏を続けたギタリスト。
農機具に巻き込まれ、両腕を切断した詩画家。
脳出血で右半身麻痺となり、左手だけで鍵盤を叩くピアニスト。
動画の紹介のあと、まゆさんは三人の方について、こんなふうに語られています。
いずれの方も、おそらくは深い絶望の淵から微かな光を見つけて
そこに向かって残された器官で自分の強みを活かして生きていくことを決断し最後まで自分の可能性を模索しながら輝いた方達だと思います。
「暗闇」で絶望せず、そこに光を見出した方々。
そうして、いまはご自身の輝きを解き放ち、世界を明るく照らしている素敵な方たち──。
やっぱり世界は明るいと感じてしまう。
みえても、みえなくても。
そこに、必ず光があると。

企画に賛同してくださったみなさまに、心からお礼を申し上げます。
みなさんがお寄せくださった記事を、引き続き、毎回できるだけひとつのテーマに沿いながら、順次ご紹介していく予定です。
すべての記事のご紹介には少しお時間をいただくことになりますが、ゆっくりと楽しみに、お待ちくだされば幸甚です。
また、企画に参加したつもりなのにマガジンに収録されていない、という方がいらっしゃいましたら、ご面倒でもくりすたるるまでお知らせください。どの記事のコメント欄からでも結構です。
みなさんの「#手」の記事を収録したマガジンです。↓↓↓
「てがみさま」について、最初に書いた記事はこちらです。↓↓↓
「#手」の募集記事はこちらです。↓↓↓
みなさまの「#手」の記事を紹介した、わたし自身の投稿「手神さまへの手紙」シリーズ。そちらをまとめて収録してあります。↓↓↓
