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【知られざるアーティストの記憶】第26話 告白

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前回

第4章 入院3クール目と4クール目の間
 第26話 告白

彼の入院前日である7月19日の朝、彼はマリにきゅうりを4本採ってくれた。マリはポストに投函するつもりだった手紙を彼に手渡した。

その日は、マリたちの市内に熱中症の危険を呼び掛ける防災アラートが流れるほどの猛暑を記録した。マリはエアコンのない家に暮らす彼たちのことが心配でならなくなった。どこにも逃れようのない暑さは、エアコンをつけずに過ごすことが信じがたいほどであった。

夕方、マリは冷蔵庫でキンキンに冷やした河内晩柑を持って、無事確認と暑中見舞いに彼を訪ねた。彼の家の中も例外ではない蒸し暑さだったが、
「別に、大丈夫だよ。」
と彼は涼やかだった。
「ありがとうね。でも、柑橘は注意が必要なんだよ。グレープフルーツは抗がん剤の効きを悪くするから食べちゃいけないことになってる。病院ではオレンジはいつも出てたよ。」
「そうなんだ。それじゃあ、河内晩柑はダメかもね。グレープフルーツの仲間だから。じゃあマサちゃんにあげてください。」
河内晩柑の袋に印字された「T生協」の文字を彼は目ざとく見つけて問うので、この生協はかつてのマリの職場で、夫とはこの生協勤務時代の上司と部下として出会ったことをマリは彼に告げた。

その夫と先ほどランチをしてきたカフェのマスターから聞いたばかりの、家庭用インクジェットプリンターの情報が彼への土産話であった。写真が趣味であるマスターは、プリンターで出せる色味の違いなどについてマリに熱く語ったのだ。思った通り、マスターの情報は彼の興味を惹いた。
「いくらくらいするって?」
「〇〇万くらいだって。」
彼は自分の作品をネットで発表するビジョンを具体的に描いているのだ。

一瞬、気まずい空気が流れ、珍しく言いづらそうにしながら彼が口を切った。
「手紙、読ませてもらったよ。ちょっと理解ができなかったところもあるけど……。なに、あなたにとってのアウフヘーベンって何なんですか?」

マリはただちに答えられなかった。彼はマリの返事を待たずに次の言葉を続けた。
「性欲を性愛にまでアウフヘーベンしないと、芸術的表現にはならないでしょ。私はそういうことを言っただけですよ。主にそれは男のことです。女には子宮があるからね。」

その短い言葉の中に示された、男女の違いと芸術に対する彼の認識の深さにマリは感心した。そして、自分が彼の言葉を深読みしすぎていたことを恥じた。そこから彼はまた、自らの芸術表現に対する思いを語った。
「70~80年代までは、エロティックなものばかりみんな描いていたけど、私はそういうものは描きたいと思わなかった。自分が表現したいものの意味は何なのか、この世界の中でどこに居るのかわからなくなった。それを理解するのに私は10年かかった。ほんとに無駄みたいだけど。28のときにそれが解けて、私はそれを実践すべくF町に向かった。だけど邪魔ばかりされて……。ほんとうに口惜しい。人との関わりばかりで。でも、人はそれぞれだから、認めていくしかないです。自分が何を表現したいのか、今ははっきり解っています。」

そう言うと彼はまた、あの笑顔でマリをキュンとさせた。
「じゃあ、表現するときは今、ですね!」
マリは嬉しかった。これまで口惜しい思いばかりしてきた今の彼にだからこそ、表現しうる世界が絶対にある。彼の人生の集大成を近くで見ていられることに喜びを感じた。

「だけど、こんな体になってしまって……。」
マリは何も言わずに相手の目の中をじっと見つめていたが、
(大丈夫!退院さえすればこっちのもの。あなたの体は私が癒しますから。)
と心の中で言った。マリはなぜか、そのことに対する根拠のない自信を持っていた。

「でも最近、体がしっかりしてきたよ。」
と彼は服をまくり上げて腕と脚をマリに見せた。マリはとても嬉しかった。そういえば最近は彼と会っても前のような身体症状を受けなくなっていたことと、彼自身が自覚できるほどに彼の体力が上向いている事実に、偶然とは思えない相関関係を感じた。

「あなたには、生きろと言われたからね。」
その言葉にマリは目を丸くした。私が、生きろと言った?ということは、私が言わなければ、彼は生きる意思を失っていたということなのか。マリは愕然とした。

「好きです。」
「えっ?」
唐突に口からこぼれた言葉を彼に聞き返されて、マリは少し口をとがらせながら、もう一度はっきりと
「好きです。」
と言うと、彼はまたもや
「えっ?!」
と聞き返した。
(もう、聞こえているくせに。これ、聞き返しちゃいけない言葉だし。)
マリは彼を睨みつけた。

「私もあなたのことは嫌いじゃないよ。人と人としての関係だけど。あなたが次男のことを打ち明けたから、私も喘息のおじのことを打ち明けたのだし。」
「……それでもいいです。」
マリは懸命に笑顔を作って見せたが、その笑顔は引きつっていた。

「あなたが精神的に大変になるんじゃないかと思って。息子さんのことも大変なのに。」
彼は横を向いたまま、静かに言った。そして、家に引っ込み際に、むにゃむにゃと不鮮明な言葉を言いかけて、
「やっぱいいです。」
と引っ込めた。
「何ですか、言って!」
「もっと本質的な話をしたかったけど、もう少し時間があるときじゃないと……。また話しましょう。明日の9時半までは居るから。」
明日の朝、彼は本質的なマリへの返事をくれるのかもしれない、とマリは期待した。

帰り際にマリは、お願いしますと云うふうに右手を彼に差し出して握手を求めた。彼はいぶかしそうな目でそれを一瞥すると、
「コロナだから。」
と言って断った。
「えっ……、そんなこと言うの?」
マリはそうぶつくさ唱えながら手を引っ込めた。

取ってつけたような「コロナだから」という理由は、ちっとも本当の理由のようには聞こえなかった。彼がそこまで頑なにスキンシップを拒む理由は何なのだろう、とマリは不思議に思った。

つづく


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