【知られざるアーティストの記憶】第27話 彼はまるで飛び立つ鷺のようだった
第4章 入院3クール目と4クール目の間
第27話 彼はまるで飛び立つ鷺のようだった
2021年7月20日、彼が4クール目の入院に出かける日の朝、マリはいつもより早めに気功に出かけた。気功を終えて公園から引き返すと、彼がちょうど家から出てきた。マリのことを待つような素振りで、公園のほうから戻ってくるマリを認めるといつになく大きな笑顔を向けた。二人はぶつかり合う視線の中でコンタクトを交わした。
するとその時、マリの進行方向右手から横断歩道を渡ってくる女性が
「あ、おはようございます。」
とマリに声をかけた。横断歩道は彼とマリの間を横切っていて、時が止まったかのような二人だけの世界を、彼女の一声がパチンと分断した。
視界に彼しか入っていなかったマリは、彼女の存在に全く気付いていなかったので驚いた。凛とした佇まいでこちらを見据えているその人は、公園で毎朝太極拳を教えているY先生であった。Y先生は昨日、マリが行っている気功についてマリに尋ねて来られたので、簡単にやり方をレクチャーし、この気功の何たるやをお伝えしたのだった。Y先生はたった一度の簡単なレクチャーでこの気功を理解し習得され、さっそくご自身でも実践し始めた。そして、この気功の先生であるダージャについてもネットで調べ、大元の中国の気功師である郭林女史の著書も取り寄せたことをマリに報告した。マリは先生の勉強熱心なことに感心した。
Y先生は彼の存在には気づかずに話した。マリは彼を待たせていることが気が気でなかったが、先生との会話を無下にはできずに最後まで聞いた。
彼女と別れて彼のほうに駆け寄ったとき、彼に笑顔はなかった。ずいぶんと待たされたことに対する怒りの色も見受けられなかった。彼は静かに槐の木の前に佇んで遠くを見つめていた。そして、マリのほうに目もむけずに、
「あの木の上に鷺がいる。」
と言った。確かに、高い木のてっぺん辺りに鷺がとまっているのをマリはどうにか見つけることができた。木の上にとまっている鷺の姿をマリはこの時に初めて見たように思った。鷺の風貌は彼にとてもよく似ていた。
マリはなんとなく彼の言葉を待ち、お互いに間延びした時間が流れた。彼は上半身に服を着ていなかった。下はいつものグレーのスウェットパンツを履いていた。いくら自宅の前だからと言って、そんなのありなんだっけ?とマリは小首をかしげたけれど、エアコンのない生き方をしているせいなのか彼にとって自宅周辺での上半身半裸はありのようだった。とはいえ、まだ早朝なのだから何かを纏ってもいいのに、なぜわざわざマリの前に裸で現れるのか、解らなかった。そんな、世間とはちょっと隔たった生き方をする彼のことを面白がりながらも許容することにしたものの、マリは目のやり場に困って視線を泳がせた。
「あの人はYさんというかたで、公園で太極拳を教えている先生。昨日、私のやっている気功のことを聞かれたから、お伝えしたんですよ。」
「あの人が先生なのか。確かに、あの人は他の人とは歩き方が全然違う。」
言われてみると、Y先生は、連れ立っている高齢の生徒さんたちの中で際立って体の芯の通った美しい姿勢であることが、遠ざかる後姿からもはっきりと分かった。
「気功は私も父親にかけてやったよ。そうすると父親はいつも眠っちゃうんだよ。」
そう言うと彼は、マリに向かって両手を波打たせて開閉し、気を送るような仕草をした。それはとても様になっていて、本当に何かが届いてくるようなクラクラ感を覚えた。マリが感心していることに気をよくしたのか、彼は続けて中国武術のようなポーズをして見せた。上半身裸であることも手伝って、彼は本当に中国の武術家のように見えた。
「え、すごい……。何かやっていたんですか?」
「何もやってなんかいないよ。」
何事も彼は見よう見まね、独学でそれなりに使えるレベルまで身に付けてしまうようであった。
「お互いに気持ちが変わっていくかもしれないから。」
彼はまっすぐに柔らかく笑いかけながら言った。彼の言葉はそれだけだった。入院の前にあえて答えを出さない彼のこの回答は、最高にスマートであるように感じられた。尤も、マリの「好きです」という表明は、彼にいかなる回答を求めるものでもなかった。言わずにはいられずに口からこぼれ落ちた、無責任な言葉である。どのように扱われても仕方のない言葉に対する、これは十分すぎる扱いであった。
「それではまた。ありがとうございました。」
彼は唐突にそう言うと、マリとの時間を切り上げ、家のほうに戻って行った。まだ言い足りない言葉を抱えたままマリは、ポカンとその姿を見送り、振り返る彼に無言で会釈するのみであった。あっけないお別れだった。彼はまるで飛び立つ鷺のようだった。
これから約1ヶ月間の沈黙のブランクを経て、お互いの気持ちはどのように熟成するのだろうか。柔らかい朝日の中に浮かび上がった、彼の体の神々しい美しさを、マリは目に焼き付けた。
