【知られざるアーティストの記憶】第28話 バス停で見送るマリに、彼は深々と一礼をした
第4章 入院3クール目と4クール目の間
第28話 バス停で見送るマリに、彼は深々と一礼をした
マリは台所で、遅く起きてくる家族の朝食を準備していた。グリルで魚を焼いている途中でマリは、エプロンを脱ぎ捨てて自転車に飛び乗った。彼の出発する予定の時刻だった。バス停へ向かう歩道に、ボストンバッグを左肩に担いで大股で歩く人の姿を見つけたが、その力強い歩き方は普段の彼の控えめな所作とはあまりにもかけ離れていたため、マリにはとてもそれが彼には見えなかった。しかしその人は、先ほどの彼と同じグレーのスウェットパンツを履いている。マリは目を凝らした。やはり、その人は彼であった。
自転車で彼を追い越してからスタッと自転車を降りて振り向くと、彼は
「うわぁ。」
と驚いた。
「ぜんぜんイクミさんに見えなかった。なんかすごくたくましい歩き方なんだもの。」
「F町に通ってたときはいろいろ資材などを運んだりしたから、こういうことには慣れてもいるんです。」
「でも、入院をしに行くのに、自分でその荷物を持ってバスで行くなんて……。」
「だって、仕方ないじゃない……。それより、家のほうは大丈夫なんですか?」
大丈夫じゃないけれど、マリは笑ってごまかした。
自転車のカゴに荷物を乗せてあげる間もなく、バス停に着いた。それにしても軽装で出かける人である。朝の半裸のいでたちに、さらっと白い麻のブラウスを羽織っただけ。そのブラウスは品が良かったので褒めると、
「これは母親に私が買ってあげたもの。別に私が着てもいいんですよ。」
と言った。胸の一つボタンはよく見ると小さな鈴だった。足元はいつも家の周りで履いている茶色の健康サンダル。スウェットパンツの後ろポケットにはみ出し気味に突っ込まれたオレンジ色の財布はなかなかおしゃれだが、彼が財布を持つこと自体があまりにも似合わなかった。
「私は最初から社会的体裁を保っていないから。」
と彼は以前に言っていた。彼の服装は、確かに街中では少し奇妙かもしれなかったが、その一つ一つのチョイスは決してダサくは感じられなかった。下着を着けずに透け感のある麻のブラウスを素肌に羽織り、よく見れば乳首も透けているのだが、それも含めて社会的にはNGであっても、彼のセンスとしては成り立っているように思えた。
「病院ではコインを入れる洗濯機があって、みんなそれを使っているけど、私は洗濯しなくて済むように、ほら、母親の遺した紙パンツを履いている。」
そう言って彼はスウェットパンツをめくってマリにその下の紙パンツを見せた。
「恥ずかしいけど、しょうがない。一週間履いたら捨てればいい。」
彼は国民年金だけで生活をしていて、生活費をとことん切り詰めていることをマリは知っていた。入院費と治療費だけは両親の遺した預金を充てているが、それ以外には入院中に一切お金を使わないと決めていることが窺えた。病院の1階にあるコンビニエンスストアにも一切用事がないのである。コンビニで無駄なものを買う、という人生の潤い部分に一切お金を使わない生き方が、入院中に限らず、長い間彼に染みついているようだった。
パンツは捨てればいいとして、それ以外の衣服は洗濯しなくても済むくらいの枚数を持ってきているのだろうか。看護師さんには、服を替えないことを変に思われないのだろうか。567体制下で面会は家族でも全面禁止であったが、洗濯物をナースステーションを介して届けることは可能らしかった。決して口には出さなかったが、マリは彼の服を洗濯してあげたくてたまらなかった。
長らく独りで生きてきた彼は、独りで出かけることにこそ安住していて、見送りを受けるということに対しては大いにぎこちないのだった。バスが来ると彼は、バス停で待っていた2人の幼子を連れた若いママに「どうぞ」と先を譲ってから乗り込み、こちらに背を向けたまますぐに座席に座った。それから今一度立ち上がり、こちらを向いて深く一礼してから、また席に腰かけた。彼を乗せてバスは行ってしまった。
思えば彼の4度目の入院にして、初めて彼をバス停まで見送った。最初の入院の後に橋の上で再会し、彼に病名を伝えられた。2度目の入院は、前の日に柏餅とT山のお守りを届けた。3度目の入院の日、渡辺謙さんの復活エピソードを伝え、お礼を言いに来た彼に公園でハグを拒まれた。こうやって辿ると、彼との心の距離が入院ごとにどんどん狭まっていることを感じる。今、彼はマリのすぐ隣にいた。
マリはこの1ヶ月をどのように過ごせばいいのかわからなかった。何か極力、新しいことに挑戦しようと思った。そうでなければ平常心を保つことができそうもなかった。
