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【幕末】第20話 東北戦争

〇はじめに

みなさん、こんにちは。
今回は東北戦争について見ていこうと思います。

戊辰戦争(鳥羽•伏見の戦い)

1868年から新政府軍vs旧幕府軍の構図で始まった戊辰戦争ですが、これまで京都、江戸と場所を変えて争ってきました。

今回はその戦場が東北に移ったのです。
東北では朝敵扱いされた会津藩を中心に新政府軍に対抗していきます。

それでは東北戦争について詳細を見ていきましょう。


〇東北の諸藩

新政府軍は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破り、江戸に侵攻を進める中、旧幕府軍を挟み撃ちにするために東北の諸藩に新政府の味方につくように手紙を出していました。

しかし、東北の諸藩には疑念がありました。
なぜなら朝敵扱いされていた長州藩の汚名は晴れたのに、会津藩が朝敵扱いされているからです。彼らは会津藩に同情していました。

〇過激な世良修蔵

この頃の新政府軍は九条道孝(くじょう みちたか)をリーダー、世良修蔵(せら しゅうぞう)を副リーダーとして東北に兵を進めていました。
特に世良修蔵は各藩に無理矢理兵を出させて協力を強要するなど過激な人物でした。

九条道孝
世良修造

米沢、仙台藩は会津藩を許してやるように世良修蔵の説得を試みましたが失敗に終わりました。
このようなことをきっかけに世良修蔵は東北の諸藩から反感を買っていくのです。

〇従ったふりの会津藩

一方新政府の標的にされていた会津藩では、松平容保が謹慎生活を送っており、新政府に恭順の態度を示していました。
                   
       ーーーーーというのは表の顔。
なんと彼らは従ったふりをして軍事訓練を行ったり、軍事改革を行うなど戦いに備えていたのです。第二次長州征討時の長州藩と同じですね。
この作戦を武備恭順といいます。 覚えてくださいね(笑)

会津藩はこの期間で西洋式軍隊の制度を取り入れました。
主力隊は青竜隊、朱雀隊。 予備隊は白虎隊、玄武隊でした。

〇戊辰戦争は個人的な恨み戦争か?!

ここまで会津藩ばかりが朝敵であると表記してきましたが、実際には近隣の庄内藩も朝敵扱いを受けていました。

なぜ庄内藩が朝敵なのか? 少し時間を戻して解説します。

時は新選組結成時(覚えていますか?笑)、京都に上った浪士のうち京都に残って会津藩のもとで働いたのが新選組です。

しかし、このときに江戸に帰った浪士が大勢いました。

その江戸に帰った浪士を新徴組といい、新徴組は庄内藩のもとで働いていました。そんな新徴組が薩摩藩邸を焼き討ちにしたため、新政府軍は庄内藩を標的にしていたのです。

◎薩摩藩邸焼き討ちについては以下の記事に書いています。
↓↓↓↓↓↓

この状況を整理すると長州藩は会津藩を、薩摩藩は長州藩を恨んでいるという構図になります。
東北の諸藩には新政府軍vs旧幕府軍の争いが私怨による争いだと認識されていたのです。
これでは東北の諸藩は新政府への疑念を深めてしまいます。

〇奥羽(越)列藩同盟

この状況下で会津藩と庄内藩は手を組みます。
また、新政府への疑念を深めた東北の諸藩は白石に集まって今後の動きについて話し合いました。
会議の結果、東北の諸藩は争いに加わるのではなく、争いを防ぐことを目的に動き出します。

東北の諸藩は新政府軍の九条道孝に戦争回避を願う嘆願書を提出しました。
九条道孝はこの嘆願書に納得しており「この嘆願はもっともだ」と発言しました。事態は戦争を回避する方向に行くかと思われました

      ーーーーーーーがしかし、世良修蔵によって阻害されました。

軍のリーダーは九条道孝でしたが彼はお飾りに過ぎず、実質的な権限は世良修蔵が握っていました。嘆願書は彼の手によって却下されてしまったのです。

この状況で東北の諸藩は嘆願を拒否した世良修蔵を恨み、ついには仙台藩士が世良修蔵を暗殺してしまったのです。

この一件で新政府と東北諸藩の関係が悪化していきました。
新政府の攻撃に備えて東北の諸藩は同盟を組みました。
その同盟が奥羽列藩同盟です。後に北越の諸藩も同盟に加わり、奥羽越列藩同盟と呼ばれるようになります。

こうして始まったのが東北戦争です。

〇開戦「東北戦争」

【白河口の戦い】
新政府軍は白河口、平潟口、越後口から攻撃を開始しました。
攻撃の中心になったのは白河口でした。

小峰城

会津藩は白河にあった小峰城を拠点として戦いました。
最初は善戦していた会津藩でしたが、徐々に新政府軍に押されていき、最後には小峰城を撤退することになります。

【二本松城と母成峠】

二本松城「天守台跡」

新政府軍は白河の小峰城を攻略しながら隙をついて二本松城の攻略を目指して兵を出していました。不意をつかれた同盟軍は二本松城に兵を置いておらず、老人や子供を主力に抵抗しましたが新政府軍に敗れてしまいました。

母成峠古戦場

その後、新政府軍は母成峠を目指して侵攻。
同盟軍は峠を突破されまいと戦いましたが新政府軍に敗れてしまいました。

十六橋

その後、十六橋という橋を壊して新政府軍の進行を遅らせようとしましたが思ったよりも早く進軍してきた新政府軍に橋を渡られてしまいます。
会津はもう目前でした。

【白虎隊の悲劇】
会津目前の新政府軍に防御隊を派兵しようとしてもこの頃の会津藩はもうすでにたくさんの兵を各地に派兵しており、防御に出せる兵がいませんでした。そこで16~17歳で構成された白虎隊が兵士として駆り出されたのです。

白虎隊自刃地

彼らは必死に新政府軍に対抗しましたが大人の兵士に成す術もなく敗れてしまいます。
その後、白虎隊は撤退して洞窟を抜けて飯盛山までたどり着きましたが彼らが山から目にしたものは燃え盛る会津若松の城下町でした。

飯盛山から城下町を見る白虎隊士

このまま生き恥をさらすなら、、、
そう考えた少年たちは次々と自刃。
白虎隊20名のうち19名が自刃しました。

〇悲惨な会津藩

鶴ヶ岡城

白虎隊員が見たのは燃え盛る城下町、つまり鶴ケ岡城は陥落していなかったのです。そのため会津藩は抵抗を続けていきます。しかし、抵抗を続けた会津藩の状況は悲惨なものでした。

鶴ケ岡城に立て籠もって抵抗した人々のうち、女、子供、老人は「戦になっても戦えない上に兵糧を消費してしまうと」考えて自害。
兵糧戦に持ち込まれた新政府軍は援軍を呼んで鶴ケ岡城を昼も夜も関係なく砲撃。

砲撃を受ける鶴ヶ岡城

あまりの過酷さから東北の諸藩は次々と降伏。
会津藩は孤立無援の状況となってしまいます。

ついに味方がいなくなった会津藩は城を明け渡しとうとう白旗を挙げるのです。


〇おわりに

会津藩旗印

さていかがだったでしょうか。
約8200人とされる戊辰戦争の死者ですが、その3分の1は会津藩から出たとされています。
会津藩にとってどれだけ過酷な戦争だったかを物語っています。

今回の東北戦争で新政府軍は本州の制圧を達成しました。
しかしまだ旧幕府軍として新政府軍に対抗する勢力が蝦夷地に集まっていました。

蝦夷地

次回は箱館戦争について見ていこうと思います!
次回が幕末史ラストです! あと少しだけ頑張っていきましょう!







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