見出し画像

"Blues Run the Game" (Jackson C. Frank) 歌詞和訳 〜 「悲劇」そのものを生きたフォークシンガーの生涯

Jackson C. Frank は, 1943年3月2日 ニューヨーク州バッファロー市生まれのフォーク・ミュージシャン。リリースしたアルバムは, 1965年7月にロンドンで録音され, Paul Simon(フォークロック風のオーバーダビングによる "The Sound of Silence" が大ヒットして Simon & Garfunkel がブレイクする直前の, 同じくアメリカ人ミュージシャン, あの Paul Simon)がプロデュースしたデビュー・アルバム一枚のみ。結果的には, デビューアルバムが 彼の生涯最後のアルバムになったというわけだ。

11歳の時に 通っていた小学校の火災で当時のガールフレンドを含む15人の同級生が亡くなり, 自身も大火傷により 8か月半にわたる入院生活を余儀なくされる。おそらくはこのことがトラウマとなったことで, 成人してからも重い心の病を抱えることになり, 他にも様々な個人的問題や貧困など大きな苦難に直面し(晩年にはホームレスにもなる), 1999年3月3日に56歳でこの世を去る。Jackson C. Frank は, 「塗炭の苦しみ」を味わう人生, 「筆舌に尽くしがたい」困難を経験する人生を歩んだ人だと言って間違いないだろう。

Blues Run the Game は, そんな Jackson C. Frank が 22歳の時に自らの名を冠してリリースした生涯唯一のアルバム "Jackson C. Frank" に収録された曲である。


"Blues Run the Game" by Jackson C. Frank 〜 歌詞和訳

Blues Run the Game 歌詞和訳

冒頭に記したことだけで十分に Jackson C. Frank の人生の重く暗い憂鬱が印象づけられるが, 更に詳しく彼の歩んだ人生を知ると, それはもはや絶望的なものにまで深まる。しかしそれに関しては次章に譲り, ここではまずは彼の曲 Blues Run the Game を聴きたい。

収録アルバムは Paul Simon がプロデュース, 1965年7月に録音, 同年12月にリリース。一方, アルバム収録ヴァージョンよりも40秒ほど短いシングル・ヴァージョンもリリースされているのだが(以下の転載にある 7" とは 7 インチ・ヴァージョンを指し, 7月のことではない),

"Blues Run the Game" / "Can't Get Away From My Love" (1965, 7")

https://en.wikipedia.org/wiki/Jackson_C._Frank#Singles

このシングル盤は こちらでも "Released 1965" としか記されておらず, 正確なリリース時期は不詳。録音やプロデューサーに関しては アルバム同様に "July 1965", "Paul Simon" となっており, シングル盤の1965年リリースが確かであれば, アルバムと同時期の1965年12月リリースなのかもしれない。

因みに, シングル盤の B面の "Can't Get Away From My Love" には, Jackson C. Frank と一時 恋愛関係にあった Sandy Denny が(クレジットはされていないものの)タンバリンで録音に参加していたらしい。

1965, Jackson C. Frank's single "Blues Run the Game" (Columbia); Denny plays tambourine (uncredited) on the B-side, "Can't Get Away From My Love".

https://en.wikipedia.org/wiki/Sandy_Denny_discography#Guest_appearances

Blues Run the Game のシングル・ヴァージョン音源は, 以下のアルバム・ヴァージョンの下方にリンクを掲載する。

Blues Run the Game, the opening track from the self-titled debut and only studio album by Jackson C. Frank (March 2, 1943 – March 3, 1999), released in December 1965

英語原詞 https://genius.com/Jackson-c-frank-blues-run-the-game-lyrics

船に乗ってイングランドへ行こう, ベイビー
スペインでもいい
どこへ行こうとも
どこにいたとしても, どこに行っても
どこへ行ったって
いつも同じ憂鬱が ついてくるんだ (*1)

ウイスキーを頼んでくれ, ベイビー (*2)
ジンも注文してくれ
俺とルームサービス, ハニー
俺とルームサービス, ベイブ
俺とルームサービスだけで十分だ
ああ, 俺たちは 罪深い人生を生きてるんだ (*3)

酒を飲んでない時は, ベイビー
おまえのことばかり考えてるよ
寝ていない時は, ハニー
眠れない時は, ママ
寝ていない時は
わかるよね, 俺が泣いてるのを見つけるはずさ

他の街へ行ってみよう, ベイビー
他の小さな町でも
どこへ行こうとも
どこにいたとしても, どこに行っても
どこへ行ったって
憂鬱が 俺を追いかけてくるんだ

生きることは賭けさ, ベイビー
愛することも同じようなもんさ
どこで 賭けをしようが
いつ サイコロを振ろうが
どこで 賭けをしようが
憂鬱が 俺を追い詰めるんだ (*4)

明日かもしれないね, ハニー
とにかくいつの日か (*5)
目覚めて年老いた自分に気づくんだ
ずっと年とってるんだ, ママ
年老いて目を覚ますんだよ
それで俺は, もう抗うことをやめるんだ

船に乗ってイングランドへ行こう, ベイビー
スペインでもいい
どこへ行こうとも
どこにいたとしても, どこに行っても
どこへ行ったって
いつも同じ憂鬱が 俺についてくるんだ

….. ♫ ….. ♫ ……

訳注
*1 the blues 「憂鬱」「気のめいり」, ここは音楽の「ブルーズ」よりも「憂鬱」という言葉で。

*2 send out for 「(~を)送ってもらうよう頼む」

*3 living a life of sin 「罪深い人生を生きて(い)る」

一般的な(あるいは宗教的な)意味合いではなく(もしくはそれだけではなく), 自身の経験に根差した表現であるように思われる。

以下, 次章「Jackson C. Frank の 筆舌に尽くしがたい苦難の人生」の第2節(「彼は生涯をあの災の中で生きた」: 「失われた」歌手 Jackson C. Frank の悲劇)より転載。

しかし, 苦痛は肉体的なものだけではなかった。火災のなか他の子供たちを助けようとした後で窓から逃れた Jackson C. Frank は, さらに多くの同級生を救えなかったことへの 強い罪悪感を感じていたのだ。それはこれほどの恐ろしい出来事に対する, 驚くべき成熟した反応だと言えるだろう。「彼の頭の中で, 彼は他の子供たちよりずっと大人だったのです」と Damien Aimé Dupont は言う。「しかし, 彼はこのこと全てに対処するための心理的な支援を持ち合わせてはいなかった。そのため, 彼は心の中では, その生涯をあの災の中で生きていたのです。」

以下, 同様に 次章第2節(「彼は生涯をあの災の中で生きた」: 「失われた」歌手 Jackson C. Frank の悲劇)より転載。

Jackson C. Frank はまた, あの火災で亡くなったガールフレンドの名に由来する Marlene という頌歌も書いた。ある痛ましいヴァースで彼は自分が生き残ったことへの罪悪感を表現し, 火災の怪我で自分が足を引きずるようになったことを自らへの罰と解釈している。“Though the fire had burned her life out / It left me little more / I am a crippled singer / And it evens up the score”(炎は彼女の命を焼き尽くしたけれど / 私にはほとんど何も残っていなかった / 私は身体が不自由なシンガーだ / それでスコアはイーヴンだ[これで帳尻が合うのさ])と彼は歌ったのだ。

*4 The blues have run the game 「憂鬱が 俺を追い詰めるんだ」 
run は「(獲物・犯人などを)追う」「追い詰める」
the game はここでは「賭け」, そしてこのヴァースの冒頭のラインが Living is a gamble だから, それは「人生」「(苦難の人生を)生きること」でもある。そう解釈して「憂鬱が 俺の人生を追い詰めるんだ」「憂鬱が 俺を追い詰めるんだ」と意訳した。

因みに run は やはり他動詞で「経営する」「管理する」「運営する」などの意味にもなるから, 転じて The blues have run the game 「憂鬱が ゲーム(賭け, 人生, 俺)を支配するんだ」という解釈もありだろう。ただ, この歌詞の中の文脈においては, 「支配する」も「追い詰める」も大意としてはそう変わらないと思う。

*5 Someplace down the line 「とにかくいつの日か」
"somewhere down the line" で「いつの頃からか」「いつかある時点で」といった意味。それとほぼ同じ解釈をし, 文脈を踏まえて意訳した。

………. ♫ ………. ♫

なお, 上述のシングル・ヴァージョンは, 以下の通り。

Blues Run the Game (single version) by Jackson C. Frank (March 2, 1943 – March 3, 1999), released in 1965

こちらは アルバム収録ヴァージョンよりやや粗いタッチだろうか。

Blues Run the Game 収録アルバムは Paul Simon が プロデュース, 同曲は Simon & Garfunkel も カヴァー

Jackson C. FrankBlues Run the Game が 収録されたアルバムは, Paul Simon がプロデュースした(録音は1965年7月, リリースは同年12月)。このことを含め, 次章であらためて触れるように Jackson C. Frank の人生に Paul Simon の存在が関わる部分があることを踏まえ, そうした側面を併せてより深く理解するために, ここで, 1965年前後の時代を Paul Simon 絡みで詳しく整理しておきたい。

Paul Simon と Art Garfunkel によるデュオ(前身は同じ二人の Tom & Jerry)である Simon & Garfunkel のデビュー・アルバム "Wednesday Morning, 3 A.M." は 1964年10月19日リリース, しかしこれは当時あまり売れず, 失意の Paul Simon はロンドンへ(後段に記す帰国時期までの間, ロンドンを拠点とし, レコーディングやヨーロッパ各地のライヴハウスなどを巡る音楽活動をする)。

Paul Simon は 1965年6-7月, ロンドンのスタジオで ソロ・アルバム "The Paul Simon Songbook" を録音(当初はイギリスのみで同年8月リリース, 後に回収, 後に再リリース)。同じ時期, 1965年7月に, やはりイギリスに渡り一時期 Paul Simon のロンドンでのルーム・メイトでもあった Jackson C. Frank のセルフタイトル・アルバム(Blues Run the Game 収録)が, ロンドンの別のスタジオで, Paul Simon のプロデュースにより録音・制作されている。

一方, 同時期(1965年6月もしくは7月), アメリカでは, 上述・前年1964年リリースの Simon & Garfunkel のデビュー・アルバム "Wednesday Morning, 3 A.M." に収録されていた Paul Simon のアクースティック・ギターのみの伴奏による The Sound of Silence に, 同アルバムのプロデューサーだった Tom Wilson が手掛けたフォークロック・サウンドを加えるオーバーダビングが(Paul Simon にも Art Garfunkel にも知らせないまま)施される。そして, その新たなヴァージョンのシングル盤が 1965年9月12日にリリースされる(英語版 Wikipedia, 以下の通り日本語版ウィキペディアでは 同年9月13日と記載)。

同年9月13日、シングルとして発売。B面には同年4月に録音されていた「はりきってゆこう(We've Got a Groovy Thing Goin')」が収録された。ビルボード・Hot 100では、11月21日の週に58位を記録。サイモンは ヨーロッパのツアーからロンドンに戻ると、ニューヨークのアート・ガーファンクルからの電話でコロムビア・レコ―ドからの帰国要請を告げられる。同シングルの成功を受けて、彼は 12月8日に滞在先のロンドンからエア・インディアの帰国便に搭乗し、帰国後にガーファンクルと共にサイモン&ガーファンクルとしての活動を再開させた。同曲は、ついに 1966年1月1日 と 1月22日には、それぞれ チャートの1位を記録し、彼等の最も知られた楽曲の一つになった。

*なお, このヴァージョンは, 1966年1月17日リリースの Simon & Garfunkel のセカンド・アルバム "Sounds of Silence" に収録 されている(*1)。

上記の通りの背景・事情により, Paul Simon は 1965年12月8日にロンドンを発ち, アメリカに帰国。一方, Paul Simon がプロデュースし同年7月に録音されていた Jackson C. FrankBlues Run the Game 収録アルバム(セルフタイトル・アルバム "Jackson C. Frank"),

*Personnel for Jackson C. Frank's 1965 debut and only studio album
Jackson C. Frank – guitar, vocals
Al Stewart – guitar picking on a song called "Yellow Walls"
(Production)
Producer: Paul Simon
Liner notes: Jackson C. Frank, Bert Jansch

このアルバムは, 同年12月, つまり 1965年12月にリリースされた。この時期はしたがって, Paul Simon のアメリカへの帰国時期と重なる結果になったことになる

*1 アルバム "Sounds of Silence" 制作の際, Simon & Garfunkel は Jackson C. FrankBlues Run the Game をカヴァーし, 録音している。録音の期日は 1965年12月21日(リンク先, Bonus tracks (2001 CD reissue) 参照)。アルバム "Sounds of Silence" に収録されなかったが, 上記リンク先 記載によると, この Simon & Garfunkel による Blues Run the Game カヴァーとアルバム "Sounds of Silence" に最終的に収録された11曲のプロデューサーは同じ人物(Bob Johnston)であったようなので, Blues Run the Game カヴァーもアルバム収録曲の候補として録音されたものと思われる。

数ヶ月で一気に人気デュオとなった Simon & Garfunkel の新作アルバムに彼らによる Blues Run the Game のカヴァー・ヴァージョンが収録され, 作詞作曲者として Jackson C. Frank がクレジットされていたなら, 同アルバムのリリース前月にリリースされた Paul Simon プロデュースによる Jackson C. Frank のデビュー・アルバムが(そもそもそのアルバムには, 歌詞が表現する憂鬱・沈鬱さにより相応しい仕上がりになっているオリジナル・ヴァージョンの Blues Run the Game が収録されているわけで)多くの音楽ファンの注目を集める結果になっていたのではないかと想像する。今から60年も前の話であり, Jackson C. Frank がこの世を去った1999年から振り返っても33年も前の話ではあるが, 彼の運命を変えたかもしれないと思うと, Simon & Garfunkel による Blues Run the Game カヴァーが アルバム "Sounds of Silence" に収録されなかったことは残念でならないという気がする。

因みに, Simon & Garfunkel による Blues Run the Game カヴァー・ヴァージョンが(初めて)リリースされたのは, その録音から約32年後, Jackson C. Frank が亡くなる日(1999年3月3日)の1年4か月前である。
同ヴァージョンは 1997年11月4日リリースの Simon & Garfunkel のボックス・セット Old Friends に収録されている(Disc 1, 16曲目)。

このボックス・セットのタイトル Old Friends は勿論, Simon & Garfunkel の解散前最後のアルバム "Bridge over Troubled Water"(邦題「明日に架ける橋」, 1970年1月26日リリース)の前のアルバム, やはり名作アルバムで彼らの 4作目のアルバム "Bookends"(1968年4月3日リリース)に収録された曲のタイトル Old Friends が由来であるが, Paul Simon と Jackson C. Frank が少なくとも 1965年の一時期, "Friends" と呼べるような人間関係にあったことは想像に難くない。

ボックス・セットのタイトルも曲のタイトルも, アルバムの録音時期もリリースの時期も, そして人と人が出会う時期も, 偶然の積み重ねによるものがある一方で, 何処かで人それぞれの意思による選択が生む結果である側面もあり, 人が生きていくなかで起きることの綾のようなものには, 何か不思議なものがあるように感じられる。

なお, 次章の第2節に載せた 記事によると, Paul Simon は, Jackson C. Frank に関するドキュメンタリー映画や彼についての伝記的な書籍のためのインタヴュー取材を受けることを断っている。(記事中の原文は "Simon declined to be interviewed for either the film or Abbott’s book", 因みに英語の decline は「〔申し出・招待などを丁重に〕断る, 辞退する, 謝絶する, 拒否する」といった意味; 〔丁重に〕とはいえ, 明確に, きっぱりと断るというニュアンス)

なぜなのだろうか。

上に書いたように, Paul Simon と Jackson C. Frank が出会い親交を深めた時期にとりわけ Paul Simon あるいは Simon & Garfunkel サイドで起きた幾つかの出来事やそれぞれの出来事のタイミングは, それ以降の Paul Simon と Jackson C. Frank のミュージシャンとしてのキャリアや人生そのものに皮肉な対照を生み出しているという側面はあるように思う。更には後年の二人の間に起きかけたことからも(次章第2節, 第3節で触れる), 何らかの心理的影響があるのかどうか。

あくまで推測であり, 以下, 順不同なのだが, 可能性としては,

1) Jackson C. Frank の悲劇的, というより悲劇そのものの人生を想起した時, Paul Simon は同じアメリカ人ミュージシャンの Jackson C. Frank の生涯唯一のアルバムをロンドンでプロデュースしたものの, 上述の通りそのアルバムのリリース時期と Simon & Garfunkel の曲が初めてヒットチャートを駆け上がり Paul Simon が成功を夢見て(あるいは成功を期待して, あるいは若者に相応の野心を抱いて)アメリカに急遽帰国することになった時期とが偶然にも重なり, そしてその後, Simon & Garfunkel は実際に人気デュオとしての成功「街道」を進むことになり, 一方で Jackson C. Frank のアルバムは(おそらくはプロモーション上の支援にも恵まれず)セールスが全く伸びず, 結果, 両者のポピュラー音楽界におけるプレゼンスの違いは大きくなるばかりだった, そんな二人の間のデリケートな関係性とミュージシャンのキャリアの非対称性, それらが Paul Simon に微妙な「負い目」のような心理的負担をもたらしているのではないか。

また, アメリカ帰国直後の具体的なエピソードとしても, これも上に次の通り記したように,

*1 アルバム "Sounds of Silence" 制作の際, Simon & Garfunkel は Jackson C. FrankBlues Run the Game をカヴァーし, 録音している。録音の期日は 1965年12月21日(リンク先, Bonus tracks (2001 CD reissue) 参照)。アルバム "Sounds of Silence" に収録されなかったが, 上記リンク先 記載によると, この Simon & Garfunkel による Blues Run the Game カヴァーとアルバム "Sounds of Silence" に最終的に収録された11曲のプロデューサーは同じ人物(Bob Johnston)であったようなので, Blues Run the Game カヴァーもアルバム収録曲の候補として録音されたものと思われる。

数ヶ月で一気に人気デュオとなった Simon & Garfunkel の新作アルバムに彼らによる Blues Run the Game のカヴァー・ヴァージョンが収録され, 作詞作曲者として Jackson C. Frank がクレジットされていたなら, 同アルバムのリリース前月にリリースされた Paul Simon プロデュースによる Jackson C. Frank のデビュー・アルバムが(そもそもそのアルバムには, 歌詞が表現する憂鬱・沈鬱さにより相応しい仕上がりになっているオリジナル・ヴァージョンの Blues Run the Game が収録されているわけで)多くの音楽ファンの注目を集める結果になっていたのではないかと想像する。今から60年も前の話であり, Jackson C. Frank がこの世を去った1999年から振り返っても33年も前の話ではあるが, 彼の運命を変えたかもしれないと思うと, Simon & Garfunkel による Blues Run the Game カヴァーが アルバム "Sounds of Silence" に収録されなかったことは残念でならないという気がする。

因みに, Simon & Garfunkel による Blues Run the Game カヴァー・ヴァージョンが(初めて)リリースされたのは, その録音から約32年後, Jackson C. Frank が亡くなる日(1999年3月3日)の1年4か月前である。
同ヴァージョンは 1997年11月4日リリースの Simon & Garfunkel のボックス・セット Old Friends に収録されている(Disc 1, 16曲目)。

このボックス・セットのタイトル Old Friends は勿論, Simon & Garfunkel の解散前最後のアルバム "Bridge over Troubled Water"(邦題「明日に架ける橋」, 1970年1月26日リリース)の前のアルバム, やはり名作アルバムで彼らの 4作目のアルバム "Bookends"(1968年4月3日リリース)に収録された曲のタイトル Old Friends が由来であるが, Paul Simon と Jackson C. Frank が少なくとも 1965年の一時期, "Friends" と呼べるような人間関係にあったことは想像に難くない。

といったこともあり, こうした様々なことをトータルに思い起こした時, いつの頃からか, Paul Simon の胸のうちに Jackson C. Frank に対する何か微妙な「負い目」の感情が芽生えていたとしても不思議ではないという気がするのだ。

あるいは,

2) 次章で様々な例が示すように, Jackson C. Frank は少年時代の悲惨な出来事がトラウマとなり, その影響で生涯「心の病」を抱えた人で, (その症状として)奇行に走るような時もしばしばあった。また, とりわけ後半生は貧困の中を生きることにもなり, 他者に支援を求めるようなこともあった(例えば, かつて Paul Simon のデュオのパートナーだった Art Garfunkel はその際に Jackson C. Frank からネガティヴな印象を与えられるような経験をしてもいる)。本人が語らない以上, 詳しくは, あるいは正確には分からないのだが, Paul Simon の側に, ロンドンで親しかった頃もしくは二人の関係が疎遠になって以降の時期に何らかのかたちで同様にネガティヴな経験をし, そのことで, Jackson C. Frank に関するドキュメンタリー映画や書籍のためのインタヴュー取材を受けてミュージシャン Jackson C. Frank のレガシーに何処か否定的な影を与えることは避けたい, そんな心理が働くということもあり得るのかもしれない。これは仮定の話, 条件付きなので, 「あくまで想像」なり「推測」なりの度合いが強いものではあるけれども。

….. ….. …..

最後に, ここでは些か「余談」的なものになるが,

The version of this song recorded by Simon and Garfunkel appears in the PBS documentary The Vietnam War by Ken Burns, in season 1: episode 7.

Jackson C. Frank の 筆舌に尽くしがたい苦難の人生

忘れられたバッファローの伝説: Jackson C. Frank の物語

以下のクリップ "A Forgotten Buffalo Legend: The Jackson C. Frank Story" は, Jackson C. Frank の生まれ故郷であるニューヨーク州バッファロー市の地元テレビ局 WKBW-TV によるもの。

2017年2月25日 YouTube 上にアップ, 以下はその際の description(説明)。

Jackson C. Frank was born in Buffalo on March 2, 1943, but his fate was sealed the morning of March 31, 1954, he was only 11-years-old. A furnace explosion ignited a wall of fire that consumed the old wooden annex at Cleveland Hill School in Cheektowaga, nearly wiping out a 6th grade music class in session at the time. 15 of his classmates died, Jackson suffered severe burns covering more than 50% of his body.

Jackson C. Frank は 1943年3月2日にバッファロー(ニューヨーク州バッファロー市)で生まれた。しかし彼の運命は, 彼がまだ11歳だった時, 1954年3月31日の朝に決定づけられた。Cheektowaga(ニューヨーク州のErie郡にある町)にある Cleveland Hill School(彼が当時通っていた小学校)の古い木造別館は, 炉の爆発による炎が壁のように広がったことで焼き尽くされ, その火災は当時授業中だった6年生の音楽のクラスをほぼ消し去ってしまった。クラスメート15人が亡くなり, Jackson C. Frank も身体の50%以上に重度の火傷を負う大怪我をしたのだ。」

……………(以下は, 2026.1.30 加筆)

"2015, he was finally voted into the Buffalo Music Hall of Fame, which is a real big deal because that's the first time any institution of our governing body or anything in this country recognized him." (Jim Abbott)

上掲ヴィデオ 2:40-

Jim Abbott 曰く(Jim Abbott は Jackson C. Frank の伝記的書籍の著者, 次節参照),

「2015年, 彼はついに『バッファロー 音楽の殿堂』入りを果たした。これは本当に大きな出来事なんだ。なぜなら, この国の何らかの運営組織が 彼(彼の業績など)を認めた(公に認めた, 公認した, 評価した)のは, これが初めてだったんだからね。」

Buffalo Music Hall of Fame (BMHOF) のホームページを見ると, Jackson C. Frank の名はここにある(アルファベット順 F; 今現在, 彼の次に Aretha Franklin が!)

Jackson C. Frank のバイオグラフィに関するページ

(次節, 次々節で触れていない内容もあり興味深い)

「彼は生涯をあの炎の中で生きた」: 「失われた」歌手 Jackson C. Frank の悲劇

この見出しは, 2025年5月2日付のイギリスの一般紙 The Guardian の記事のもの。ライターは 調べたところ, ニューヨーク在住の音楽評論家のようだ。

以下は 本 note 筆者による訳。完全な逐語訳ではないが, 記事の趣旨は正確に表現されているはずだ。一語一句の逐語訳で日本語にすると逆に記事の本意が伝わりにくくなるので, 日本語の言い回し・表現上の編集をしたり, あるいは理解が深まるように(解説的な)言葉を補うなどし, また, これも理解を深める目的で, 適宜, 楽曲を含め リンクを付けている。

人名に関しては, 原文の表記が姓名の姓だったり名だったりする箇所でも, 全てをフルネームのアルファベットで記した。また, he, she などの代名詞になっている箇所も, あえて代名詞でなく, ほとんどの箇所でフルネームの表記にした。原文通りに「彼」「彼女」などの代名詞を使用した方が文章としてはスムーズに読める, あるいは読みやすいものになるが, これも記事に書かれている内容, 事実関係がより正確に伝わることを優先した。

なお, 記事中でたびたび名前が出る Damien Aimé Dupont は Jackson C. Frank についてのドキュメンタリー映画を製作したフランス人監督の名であり, Jim Abbott は 後半生の Jackson C. Frank をよく知り彼の伝記的な内容の書籍を著した人物の名である。

….. 以下, 記事の原文および日本語訳 …..

‘He lived his whole life in that fire’: the tragic story of ‘lost’ singer Jackson C Frank 〜 A school fire, a shooting and mental health issues plagued a man whose legacy is remembered in a new documentary

「彼は生涯をあの災の中で生きた」:「失われた」歌手 Jackson C. Frank の悲劇 〜 学校火災, 銃撃事件, そして精神疾患が彼を苦しめ続けた, そんな彼が残したものを, いま新たなドキュメンタリーで振り返る

(訳注: ‘lost’ には「〔人に〕認められていない」「理解されていない」, さらには「〔心身が〕ぼろぼろになった」などの意味もある。)

Thirty years ago, when the music writer Jim Abbott tried to track down the “lost” folk singer Jackson C Frank, he had no idea what he’d find. All he had to guide him was a tip from an old associate of Frank’s to go to a housing facility in Queens, New York, where he was told he was living. When he finally arrived there, the man he saw bore no relation to the Frank he was expecting. “All I had to go on was his album cover from 1965 when he was much younger and looked pretty dashing,” Abbott said. “This was the 90s when he was much heavier and was hobbling around looking really grouchy.”

30年前, Jim Abbott(現在 音楽ライター)が「失われた」(「行方不明の」)フォークシンガー Jackson C. Frank の行方を追おうとした。しかし彼の居場所になんとか辿り着き, Jim Abbott が見たのは, Jackson C. Frank の変わり果てた姿だった。1965年のアルバムのジャケットとはまるで違っていた。Jim Abbott 曰く「90年代になり, 彼は体重がずっと増え, 足を引きずってよろよろ歩き, とにかく不機嫌そうに見えた」。

The place Frank was living in “was populated by drug addicts and hookers and, for some reason, had this gigantic sand pit in the middle of the lobby that you had to walk around. It’s very hard to weird me out,” Abbott said. “This did.”

おまけにその時の Jackson C. Frank は「麻薬中毒者や売春婦がたむろするような場所に」住んでいて, それに「なぜかロビーの真ん中には砂場があって, そんなところを歩かねばならなくて 不気味だった」, そう Jim Abbott は語った。「本当に不気味だったよ」

Regardless, he sought and sustained a close friendship with Frank, initially inspired by his love for the only album the artist ever released in his lifetime. A self-titled work, Frank’s album was produced in the mid-60s by a young Paul Simon, featured guitar work from Al Stewart and included haunting ballads the musician wrote that were covered at the time by folk icons such as Sandy Denny (whom he briefly dated), Nick Drake and John Renbourn. Upon its release, Frank’s album barely sold but, as happened with so many once overlooked artists, his songs were disinterred during the YouTube era leading to covers by artists such as Laura Marling, John Mayer and Counting Crows, as well as their usage in popular TV series such as This Is Us, and films as widely seen as Joker. In 2014, Abbott wrote a book about the artist’s life and music titled Jackson C Frank: The Clear Hard Light of Genius.

それでも Jim は Jackson C. Frank との間に親しい友好関係を築き, 維持した, その友情は第一に Jackson C. Frank がリリースした生涯唯一のアルバムへの Jim の愛情に基づくものだった。

Jackson C. Frank のそのセルフタイトルのアルバムは 1960年代半ば(1965年)に若き Paul Simon によってプロデュースされ, Al Stewart のギターもフィーチャーされていた。そして Jackson C. Frank が書いた心に残るバラードは当時, Sandy Denny(と Jackson C. Frank は短期間ながら恋愛関係にあった), Nick Drake, John Renbourn などのフォーク界のアイコンによってカバーされた。

Jackson C. Frank のアルバムはリリース時にはほとんど売れなかったが, 見過ごされていた多くのアーティストに起きるのと同様に, 彼の曲は YouTube時代になって掘り起こされ, Laura Marling, John Mayer, Counting Crows などのアーティストによってカバーされるようになった。さらには This Is Us のような人気テレビドラマで音楽が使われ, Joker のような映画でも同様に使われるようになった

2014年には, Jim Abbott が, "Jackson C Frank: The Clear Hard Light of Genius" と題された Jackson C. Frank の人生と音楽に関する著書を著した。

Now, Frank’s legacy has a chance to be discovered by a whole new audience through the first documentary about his life, by the French director Damien Aimé Dupont, titled for one of his most cherished songs, Blues Run the Game. As told in the film, Frank’s story stands with the sorriest of the many doomed musician sagas, replete with tales of intense physical pain, lingering mental trauma, horrific diagnoses, an accidental shooting that left him blind in one eye, as well as periods of homelessness. Frank’s story and music were so compelling to Dupont that he pursued the film even though funds were scarce and footage of the artist, who died in 1999, was severely limited. Only an 18-second flash of silent film of Frank performing survived. More, there was a serious language issue: Dupont barely spoke English when he started the project. “I took lessons for the film,” he said with a laugh during a Zoom interview in which he was aided by a translator.

今, Jackson C. Frank のレガシー, 彼が残したものは, フランス人監督 Damien Aimé Dupont による彼の人生についての初のドキュメンタリー映画を通して, 全く新しい聴衆・リスナーに発見されるチャンスを得ている。ドキュメンタリーのタイトルは, 彼の最も大切な曲の一つである Blues Run the Game からとられた。

この映画で語られるように, Jackson C. Frank の物語は, 激しい肉体的な苦痛, 長引く精神的なトラウマ, 恐ろしい診断(統合失調症や長期にわたる鬱病の診断を指すか), 片目を失明させた銃撃事件, そしてホームレスの生活といった物語に満ちており, 多くの悲運・不遇のミュージシャンの物語の中でも最も悲惨なものの一つである。

Jackson C. Frank の物語と音楽は, Damien Aimé Dupont にとって非常に強い興味を持たせるものだったため, 資金が乏しく, また1999年に亡くなったこのアーティストの映像が極めて限られていたにもかかわらず, 彼はドキュメンタリー映画の製作を試みた。何しろ, Jackson C. Frank の演奏の映像は18秒間の無声映像が残っているのみだったのだ。さらには深刻な言語の問題もあった。このプロジェクトを開始した当時, Damien Aimé Dupont はほとんど英語が話せなかったのだ。「映画のためにレッスンを受けたんです」, 彼は通訳の助けを借りながら行なった Zoom によるインタヴューで, 笑いながら語った。

As the documentary recounts, the horrors in Frank’s life began when he was just 11. In 1954, a furnace exploded at his elementary school near Buffalo, New York, causing a fire that burned to death 15 of his classmates while leaving Frank scorched more than 50% of his body. The extensive damage caused a calcium buildup in his body that deformed his joints, which the doctors tried to remedy by repeatedly breaking key bones. “You can imagine the incredible pain that caused – especially for a young boy,” Abbott said.

ドキュメンタリーが示すように, Jackson C. Frank の人生における恐怖・戦慄は, 彼がわずか11歳の時に始まった。1954年, ニューヨーク州バッファロー近郊の小学校で炉が爆発し火災が発生, その火災で彼のクラスメート15人が焼死し, Jackson C. Frank 自身も熱傷面積が身体の50%以上に及ぶ大火傷を負ったのだ。全身の広範囲にわたる損傷により体内にカルシウムが蓄積し, それは彼の関節を変形させることにもなった。

医師たちは彼の主要な骨を繰り返し折ることでこの深刻な症状を治そうとした。「とりわけまだ幼い少年にとって, どれだけ途方もない, 形容し難いほどの痛みだったのか, 想像できるでしょう(か)」と Jim Abbott は語る。

The pain wasn’t just physical. Frank, who escaped the fire through a window after trying to help other children out, felt intense guilt for not being able to rescue more of them. That’s a surprisingly mature response to such a horrific event. “In his head, he was much older than the other children,” Dupont said. “But he had no psychological help to deal with it all. So, in his mind he lived his whole life in that fire.”

しかし, 苦痛は肉体的なものだけではなかった。火災のなか他の子供たちを助けようとした後で窓から逃れた Jackson C. Frank は, さらに多くの同級生を救えなかったことへの強い罪悪感を感じていたのだ。それはこれほどの恐ろしい出来事に対する, 驚くべき成熟した反応だと言えるだろう。「彼の頭の中で, 彼は他の子供たちよりずっと大人だったのです」と Damien Aimé Dupont は言う。「しかし, 彼はこのこと全てに対処するための心理的な支援を持ち合わせてはいなかった。そのため, 彼は心の中では, その生涯をあの災の中で生きていたのです。」

A rare bright spot during the eight and a half months he spent recuperating in the hospital arrived when a music teacher brought him an acoustic guitar, which he taught him to play. As a result of his injuries, Frank developed eccentric fingerings which gave him a uniquely textured sound. His singing also had distinction, defined by his dulcet tones as well as his ability to communicate an inner life of deep pain and empathy. Some of the songs he began to write reflected the horrors he faced as a child, including Yellow Walls, which referred to the hospital where he stayed. “No one knows me in the morning / No one sees me go walking by,” he sang. “And if I listen while no one answers / The winds can only echo a goodbye.”

8か月半の入院療養生活の間に, めったにない希望の光が訪れた。音楽の教師がアクースティック・ギターを彼に持ってきて, ギターの弾き方を教えてくれたのだ。怪我をした影響で, Jackson C. Frank は風変わりな指使いで弾き, それはユニークで陰影のあるサウンドをもたらした。歌もまた, 心地良い声色と更には深い苦しみと共感に満ちた自身の内面を表現する能力によって, 秀でた特質を持っていた。彼が書き始めた曲の中には 子供ながらに直面した恐怖を反映したものがあり, 例えば彼が入院していた病院を歌った Yellow Walls もそうである。“No one knows me in the morning / No one sees me go walking by”(朝, 誰も私を知らない / 私が歩いていくのを誰も見ない)と彼は歌った。“And if I listen while no one answers / The winds can only echo a goodbye.”(そして 誰も答えないのに私が耳を傾ければ / 風の中で別れの言葉がこだまするだけだ)

Yellow Walls from the self-titled debut and only studio album by Jackson C. Frank (March 2, 1943 – March 3, 1999), released in December 1965

(訳者注: この曲では Al Stewart も ギターを弾いている。)

Frank also wrote an ode called Marlene, named for his girlfriend who died in the fire. One crushing verse expresses his guilt about surviving, interpreting the limp he developed afterwards as his punishment. “Though the fire had burned her life out / It left me little more / I am a crippled singer / And it evens up the score,” he sang.

Jackson C. Frank はまた, あの火災で亡くなったガールフレンドの名に由来する Marlene という頌歌も書いた。ある痛ましいヴァースで彼は自分が生き残ったことへの罪悪感を表現し, 火災の怪我で自分が足を引きずるようになったことを自らへの罰と解釈している。“Though the fire had burned her life out / It left me little more / I am a crippled singer / And it evens up the score”(炎は彼女の命を焼き尽くしたけれど / 私にはほとんど何も残っていなかった / 私は身体が不自由なシンガーだ / それでスコアはイーヴンだ[これで帳尻が合うのさ])と彼は歌ったのだ。

Marlene by Jackson C. Frank (March 2, 1943 – March 3, 1999)

(訳者注: この曲は, 1965年12月リリースの彼のアルバムには収録されず, 後年[彼の死の3年前, 1996年に]アルバムが CD化された際, その 'bonus track' として収録された。)

In his late teens, Frank worked as a journalist at the Buffalo News and attended Gettysburg College, but by 1962, he dropped out. A year later, he received a huge insurance payout due to his injuries. Equivalent to more than $1m today, he proceeded to fritter the money away on expensive cars and guitars, leaving him with little after just a short while. “He felt it was blood money,” Abbott said. “He didn’t want it.”

10代後半の時期の Jackson C. Frank は Buffalo News紙で記者として働き, そして Gettysburg College に通ったが, 1962年に中退した。1年後, (11歳の時の火災が原因の)負傷による巨額の保険金を受け取った。現在の価値で100万ドル以上にも相当するその大金を彼は浪費し, 複数の高級車やギターを買い, ごく短期のうちにほとんど使い切ってしまった。「彼はそれを血の代償だと感じていたのです」と Jim Abbott は語った。「彼はそれを望んでいなかったのです。」

Early in 1965, he went to London with his girlfriend in search of adventure. Soon he came across a booming folk scene centered at the Soho club Les Cousins, populated by key musicians such as Bert Jansch, Ralph McTell and Sandy Denny. Other artists picked up on his songs, including Paul Simon, who recorded Blues Run the Game with Art Garfunkel in an outtake, and Denny, who cut You Never Wanted Me and Milk & Honey in shattering versions. Soon after Denny met Frank, he encouraged her to quit her day job as a nurse to sing full-time. Later, she wrote a mournful song about him titled Next Time Around, which alluded to a strange and haunted man from Buffalo. Decades later, Adam Duritz of Counting Crows became obsessed by Blues Run the Game, making sure to including his version in many of the band’s live shows to this day. “It’s a perfect song,” Duritz said. “The melody is fantastic and there’s not a wasted word in the lyrics. That song has become a huge part of my life.”

1965年初頭, Jackson C. Frank は当時のガールフレンドと共に冒険を求めてロンドンへ旅立った。彼はすぐに, ソーホーのクラブ Les Cousins を中心に活気あふれる現地のフォーク・シーンに出会った。そこには Bert Jansch, Ralph McTell, Sandy Denny といった主要なミュージシャンが集っていた。

他のアーティストたちが, Jackson C. Frank の曲を取り上げた。例えば Paul SimonArt Garfunkel と Blues Run the Game をアウトテイクで録音し(注:しかしこの録音は 1965年12月21日のもので, 時期からして Paul Simon が アメリカに帰国してからの録音のはず)(リンク先の Bonus tracks (2001 CD reissue) の項を参照),

Sandy Denny は素晴らしいアレンジで(Jackson C. Frank 作詞作曲の)You Never Wanted Me と Milk and Honey をカヴァーした。

Sandy Denny Jackson C. Frank と出会って間もなくのうちに, 彼は彼女に看護師の仕事を辞めてフルタイムでシンガーになるよう勧めた。後に彼女は, 彼について "Next Time Around" という悲しげな歌を書き, バッファロー(市, ニューヨーク州, Jackson C. Frank の生まれ故郷)から来た奇妙で何かに取りつかれた男を暗示した。

数十年後, Counting Crows の Adam Duritz は Blues Run the Game に夢中になり, 今日に至るまでバンドの多くのライブで自身によるカヴァー・ヴァージョンを必ず演奏している。「完璧な歌だよ」と Adam Duritz は語った。 「メロディーが素晴らしく, 歌詞には無駄な言葉がひとつもない。この歌は私の人生の大きな部分を占めるようになったんだ。」

Blues Run the Game, the opening track from the self-titled debut and only studio album by Jackson C. Frank (March 2, 1943 – March 3, 1999), released in December 1965

Duritz first heard the song through the Simon & Garfunkel version, not knowing that in the mid-60s, Simon and Frank weren’t just colleagues, they were also roommates for a while. Though the first Simon & Garfunkel album had already come out by then, it wasn’t yet successful, which inspired Simon to try to establish himself as a solo artist in London. He soon amassed enough clout there to produce Frank’s album for EMI, but the project seemed troubled from the start. Al Stewart, who played guitar on the sessions, says in the documentary that Frank was so self-conscious in the studio, he couldn’t sing or play a single note. He and Simon had to agree not to look at him before he could perform. Once the ice was broken, however, he cut the whole disc in three hours. (Simon declined to be interviewed for either the film or Abbott’s book).

Adam Duritz が初めてこの曲を聴いたのは, Simon & Garfunkelヴァージョン だったが, 1960年代半ばに Paul SimonJackson C. Frank が 単なるミュージシャン仲間というだけでなく, しばらくの間 ルームメイトでもあったことは知らなかった。

その頃までには Simon & Garfunkel の最初のアルバムが既にリリースされていたものの, それはまだ成功しておらず, そのことが Paul Simon にロンドンでソロアーティストとしての地位を確立しようとする動機付けになっていた。彼はすぐに EMIで Jackson C. Frank のアルバムをプロデュースできるほどの(ロンドンにおける)影響力を獲得したが, このプロジェクトは初めからトラブルに見舞われたようだ。その際のセッションでギターを弾いた Al Stewart は, ドキュメンタリー映画の中で, Jackson C. Frank はスタジオでは人目を気にしすぎて, (最初は)歌うことも何か弾くことすらもできなかったと語っている。Al Stewart と Paul Simon は, Jackson C. Frank が演奏する前に, (演奏中, 録音中の)彼を見ないことに同意しなければならなかった。しかし硬直した状態から解放されると, Jackson C. Frank は 3時間でアルバム一枚分を録音し終えたのだった。
(なお, Paul Simon は ドキュメンタリー映画と Jim Abbott の著書のいずれにおいても, インタヴュー取材を受けることを断っている。

….. ….. 此処でいったん, 記事の日本語訳から離れます ….. …..

ところで, なぜ Paul Simon は Jackson C. Frank に関するドキュメンタリー映画や彼の伝記的な書籍のためのインタヴュー取材を受けることを断ったのだろうか?(記事中の原文は "Simon declined to be interviewed for either the film or Abbott’s book", 因みに英語の decline は「〔申し出・招待などを丁重に〕断る, 辞退する, 謝絶する, 拒否する」といった意味; 〔丁重に〕とはいえ, 明確に, きっぱりと断るというニュアンス)

この件は, 今日の第1章第2節「Blues Run the Game 収録アルバムは Paul Simon が プロデュース, 同曲は Simon & Garfunkel も カヴァー」にて。

….. ….. 以下, 再び, 上掲記事の日本語訳(続き) ….. …..

In London, Frank’s behavior became increasingly erratic, marked by paranoid outbursts and angry fits of jealousy. Abbott believes his mental issues stemmed directly from his childhood experience, a view shared by Frank’s mother. “She always said: ‘His problems began with that damn fire,’” he said.

ロンドンでの Jackson C. Frank の行動はますます不安定になり, とりわけ
妄想的な感情の爆発や嫉妬(訳者注:何に対する嫉妬だったのか記事では不詳)による激しい怒り, その突然の爆発が特徴的なものだった。Jim Abbott は, 彼の精神的な問題は子供時代の経験に直接起因しているものだと確信している。これは Jackson C. Frank の母親の考えでもあった。Jim Abbott によれば, 「彼女はいつもこう言っていた。『彼の(全ての)問題は, あの忌まわしい火災から始まったのよ』」。

When he was recovering right after the event, he had spent some time in a coma. According to Dupont, “his temperature rose to above 40 degrees [celsius] which some say might have been the origin of his schizophrenia.” (In his 20s, Frank was diagnosed with paranoid schizophrenia).

あの火災の事故直後の怪我からの回復期, 彼は昏睡状態に陥った時期があった。Damien Aimé Dupont によれば「(そのとき)彼の体温は40度以上にまで上がり, それが後の統合失調症の原因になったのかもしれないと言う人もいるんです」。(Jackson C. Frank は 20代の頃, 妄想型統合失調症と診断されている。)

After Frank’s album bombed, he retreated back to New York, near Woodstock, where he married and had two children. His first, a son, died one day after his birth. His second, a daughter, is still alive. Over time, Frank’s behavior became so antisocial that his wife threw him out and, according to many sources, she then told their daughter her dad had died. His daughter has since refuted that story, according to Abbott. Either way, the two had no relationship after her childhood.

Jackson C. Frank のデビュー・アルバム(結果的に生涯唯一のアルバム)がセールス的に失敗に終わった後, 彼はニューヨーク州, ウッドストック近郊に戻り, そこで結婚して 2人の子供をもうけた。しかし最初の息子は, 生後1日で亡くなった。2人目の子供, 娘の方は今も健在だ。

(結婚後)しばらくすると Jackson C. Frank の振る舞いはかなり反社会的なものとなり, 妻が彼を家から追い出すほどだった。多くの情報筋によると, 妻はその後, 娘に父親はもう亡くなったのだと告げたという(ただし Jim Abbott によれば, 娘は後にこの話を否定している)。いずれにせよ, 以降, Jackson C. Frank と娘の間は, 実際上の父娘の関係がなくなってしまった。

By the late 70s, Frank became a public nuisance, lumbering aimlessly around the neighborhood, sometimes stark naked. At other times he would sport a cape and sword and traipse around under the name Lochinvar. In the 80s, Frank relocated to New York City to seek Simon out, to no avail. For the next decade, he lived on the streets of the city. One day during this period, gunfire broke out between two rivals and Frank was caught in the middle, costing him an eye. Despite the risks of street life, Abbott says Frank did well by begging. “He would go out in the morning with a cup and by the end of the day it was full of money,” he said. “He could probably have talked people out of their mortgage if he wanted to.”

1970年代後半期までには, Jackson C. Frank は社会の迷惑者になっていた。近所をあてもなく, しかも時には全裸で, よたよたと歩き回った。時にはケープ(肩と背を覆う, 袖なしのマント)と剣を身につけ, Lochinvar という名で徘徊したりもした。

1980年代には, Jackson C. Frank は Paul Simon を探し出そうと(訳者注:援助を求めてなのか, 旧交を温めたかったのか, 目的は不詳)ニューヨーク市へ移住したが, それも無駄に終わった。

その後の10年間, Jackson C. Frank は路上暮らし(ホームレス)になった。この時期のある日, 二人の敵同士の間の銃撃戦に巻き込まれ, 彼は片目を失った(失明した)。Jim Abbott によれば, 路上生活による危険にもかかわらず, Jackson C. Frank は物乞いを上手くやっていた。「彼は朝, カップ一杯を持って外出すると, その日の終わりまでにはそのカップは金でいっぱいになってたんだ」と Jim Abbott は語った。「彼は望めば, おそらく他人の住宅ローンをやめさせることもできただろう」(訳者注:どういうわけか 口が上手かったということだろうか)

After tracking Frank down in 1993, Abbott was able to get him back upstate where he found shelter in various boarding houses and hospitals. Despite the many issues with Frank, Abbott described him as an engaging and charismatic friend. “You could sit with him on 10 different days and talk about 10 different subjects,” he said. “He seemed to know everything.”

1993年に Jackson C. Frank を探し出した後, Jim Abbott は 彼を州(ニューヨーク州)北部に連れ戻すことができ, そこで Jackson C. Frank は様々な寄宿舎(もしくは下宿屋あるいは安宿)や病院などに身を寄せることになった。Jackson C. Frank には多くの問題があったにもかかわらず, Jim Abbott は Jackson C. Frank に関して, 人を引き付けるカリスマ性のある友人だったと描写した。「10日間, 10通りのそれぞれ異なる話題で話せるような人物だったよ」と Jim Abbott は言った。「彼はまるで, 何でも知ってるようだったんだ。」

Over time, however, Frank’s basic cognition declined. One night, Abbott took him to see a show near Woodstock by his old friend John Renbourn, and though the two talked, afterwards Frank told Abbott he didn’t know who he had been speaking to. His behavior got him thrown out of several facilities he stayed in before he finally ended up at one in Massachusetts where, at age 56, he died of a combination pneumonia and heart attack.

しかし時の流れとともに, Jackson C. Frank の認知機能は低下していった。ある晩, Jim Abbott は Jackson C. Frank をウッドストック近郊でのショーに連れて行ったのだが, そのショーは Jackson C. Frank の旧友 John Renbourn によるショーで, そこで Jackson C. Frank と John Renbourn の二人は言葉を交わしたにもかかわらず, その後, Jackson C. Frank は Jim Abbott に, 自分は誰と話していたのか分からなかったと語った。Jackson C. Frank は自身の行動が原因で, 入所していた幾つかの施設から追い出され, 最後にはマサチューセッツ州の施設に行き着き, そこで肺炎と心臓発作を併発して, 56歳でこの世を去った。

Harrowing as much of his story may be, Dupont says: “Jackson still managed to leave his footprint in the world.”

Better, it seems to be widening. “Today you can find Jackson’s songs in more and more movies and TV shows,” Abbott said. “In that sense, he’s very much here.”

彼の人生がどれほど悲惨で痛ましいものであろうとも, Damien Aimé Dupont に言わせれば, 「Jackson C. Frank はそれでも, 世界に足跡を残したのです。」

なお良いことには, それはさらに広がっているようだ。「今日, Jackson C. Frank の曲は, ますます多くの映画やテレビ番組の中で聴くことができます」と Jim Abbott は語った。「その意味では, 彼は今, まさにここにいるのです」

(Blues Run the Game: The Strange Tale of Jackson C Frank tours in select US theaters from 4 May, including these venues with UK dates following)

(ドキュメンタリー映画 Blues Run the Game: The Strange Tale of Jackson C Frank は, [2025年]5月4日からアメリカの幾つかの選ばれた映画館で公開され, その後イギリスでも公開される予定である。)

Jackson C. Frank, バイオグラフィ(略記)

英文 Wikipedia に彼の経歴が比較的詳しく記載されている(出典の明示も随所にあり参考になる)。以下, 冒頭部分はそのまま日本語に訳す。そして, Biography の項目からは 主な出来事等を箇条書き形式で取り上げ, そのうえで, 適宜, 楽曲の音源リンクを付す

Jackson Carey Frank (né Jones; March 2, 1943 – March 3, 1999) was an American folk musician. He released his first and only album in 1965, produced by Paul Simon. After the release of the record, Frank was plagued by a series of personal issues, and was diagnosed with schizophrenia and protracted depression that prevented him from maintaining his career.

Jackson Carey Frank(旧姓あるいは本名 Jones; 1943年3月2日 - 1999年3月3日)は, アメリカのフォークミュージシャンだった。1965年に Paul Simon によるプロデュースで, 初の, そして唯一のアルバムをリリースした。このレコードのリリース後, 彼は幾つもの個人的な問題に悩まされ, また 統合失調症と慢性的な鬱(うつ)病と診断され, そのために彼は自身の音楽キャリアを維持できなくなった。

Frank spent his later life homeless and destitute, and died in 1999 from a combination of pneumonia and cardiac arrest. Though he only released one record, he has been cited as an influence by many singer-songwriters, including Paul Simon, Sandy Denny, Bert Jansch, and Nick Drake. Rolling Stone journalist David Fricke called Frank "one of the best forgotten songwriters of the 1960s."

Jackson C. Frank は 晩年をホームレスと貧困(極貧)の中で過ごし, 1999年に肺炎と心不全の合併症で亡くなった。リリースしたレコードは 1枚のアルバムのみだったが, Paul Simon, Sandy Denny, Bert Jansch, Nick Drake などの多くのシンガーソングライターたちに影響を与えた人物として言及され(評され)てきた。Rolling Stone 誌のジャーナリスト David Fricke は, Jackson C. Frank を「1960年代の忘れられた最高のソングライターの一人」だと評した。

以下, Biography からは主だった記載事項を箇条書きにする。

Early life

・1943年3月2日, ニューヨーク州バッファロー市で生まれる。
・一人っ子で, 出生名は Jackson Carey Jones であったが, 後に継父の姓 Frank を名乗るようになった。
・キリスト教徒として育てられたが, 後に無神論者になった。

・1954年3月31日, 11歳の時, 通っていた小学校の炉が爆発し, 火災により同級生15人が死亡
・犠牲者には, 彼のガールフレンドだった Marlene du Pont も含まれていた。彼は後に, 彼女についての歌 Marlene を書き, セカンドアルバムのタイトルも Marlene にしようと考えていた

(本 note 筆者による注釈:この曲は, 1965年12月リリースの彼の唯一のアルバムには収録されず, 後年[彼の死の3年前, 1996年に]アルバムが CD化された際, その 'bonus track' として収録された。)

Marlene by Jackson C. Frank (March 2, 1943 – March 3, 1999)

(以下, 再び, ここ からの引用・箇条書き)

・火災の際, Jackson C. Frank 自身は窓から脱出して一命を取り留めたものの, 身体の 50%以上に火傷を負い, 8ヶ月半の入院生活を余儀なくされた。
・後の彼の歌 Yellow Walls は, この入院生活について書かれたものである。

(本 note 筆者による注釈:この曲は 1965年12月リリースのアルバムに収録され, そのヴァージョンでは Al Stewart もギターを弾いている。)

Yellow Walls from the self-titled debut and only studio album by Jackson C. Frank (March 2, 1943 – March 3, 1999), released in December 1965

(以下, ここ からの引用・箇条書きを続ける)

・上記の火災の際の Jackson C. Frank火傷による外傷は 副甲状腺にも重大な損傷をもたらし, 体内にカルシウムが過剰に蓄積, 広範囲にわたる関節障害の原因となった。その結果, 彼には 猫背と著しく足を引きずる症状が生涯続いた

・入院中, Jackson C. Frank は見舞いに訪れた教師からアクースティック・ギターをプレゼントされ, 怪我から回復する間, 音楽に時間を費やすようになった。
・俳優の Kirk Douglas から, 火災で負傷した他の子供たちと共に見舞いを受けたことがある。
・10代の頃, Elvis Presley に大きな影響を受けたが, Elvis から手紙とサインをもらったことがある。
Elvis Presley とは運よく(Elvis の邸宅 Graceland に案内までされ)本人に会ったことがある。

・10代後半期, 彼は断続的に The Buffalo News 紙で働いていた。
・その間, 音楽への情熱が高まり, 地元のコーヒーハウスやアートギャラリーで演奏するようになった。
・舞台恐怖症(訳注:いわゆる「上がる」, 他人の目を意識してしまうなどの症状を指すものと思われる)を隠すため, マイクと議論する等, そのパフォーマンスにコミカルな要素をしばしば加えていた。

・1961年, Gettysburg College に入学(ジャーナリズム専攻)。そこで 3人組の D'Juray Singers というフォークバンドを結成, 大学のラジオ局でカバー曲とオリジナル曲を演奏した。
・数か月のうちに成績は低下し始め, 1962年春に退学。

・21歳の時, 負傷(訳注:10年経過後ではあるが 小学校時代の火災の際の大火傷を指すものかと)による保険金(11万500ドル, 現在の価値で 112万ドル)の保険金を受け取ったが, その大金を無分別に使い果たす。新聞社の仕事を辞め, 車を数台購入, 友人の John Kay(後の Steppenwolf のフロントマン, リードヴォーカル)とトロントのクラブに通い詰めた。

(本 note 筆者による注釈:本章前節からの転載)

10代後半の時期の Jackson C. Frank は Buffalo News紙で記者として働き, そして Gettysburg College に通ったが, 1962年に中退した。1年後, (11歳の時の火災が原因の)負傷による巨額の保険金を受け取った。現在の価値で100万ドル以上にも相当するその大金を彼は浪費し, 複数の高級車やギターを買い, ごく短期のうちにほとんど使い切ってしまった。「彼はそれを血の代償だと感じていたのです」と Jim Abbott は語った。「彼はそれを望んでいなかったのです。」

(以下, ここ からの引用・箇条書きを続ける)

・1965年2月, 当時のガールフレンドと共にイギリスへ移住することを決意したが, Jackson C. Frank 本人の精神状態の悪化により, まもなく二人は別れた。

Debut album

・1965年の彼の名を冠したアルバム Jackson C. FrankPaul Simon が プロデュースした。当時二人は共にイギリスに住み, 現地のフォーク・シーンに浸かっていた。
・アルバムは ロンドンのスタジオで 6時間かけて録音。
Jackson C. Frank は 極度の恥ずかしがりで, 同席していた Paul Simon, Art Garfunkel, Al Stewart から見られないように, スクリーンで遮るよう頼んだ。

・このアルバム収録の最も有名な曲 Blues Run the Game は Simon & Garfunkel にカヴァーされたほか, Counting Crows, John Mayer, Bert Jansch, Nick Drake など多くのミュージシャンにカヴァーされている(訳注:Sandy Denny にも)。

Blues Run the Game は 2018年の映画 The Old Man & the Gun で使用され, さらに同じくアルバム収録曲である Milk and Honey は 2003年の映画 The Brown Bunny で使用された。

Milk and Honey は Nick DrakeFairport Convention, そして 彼が一時期交際していた Sandy Denny にもカヴァーされた。
Jackson C. Frank は 交際中, Sandy Denny に看護師の仕事を辞め, 音楽に専念するよう説得した。

Jackson C. Frank は しばらくの間はイギリスで歓迎されていたものの, 1966年には 彼の精神状態が崩れ始め, その後, 事態は悪化の一途となった。
・1966年初頭に病院に入院している。
・また, 彼は同時期に "writer's block"(作家・作曲家としてのスランプ = 作家が突き当たる障壁, 一時的に思考力・創作力・学習力・作文力などをなくすこと)に陥り始めた。

・保険金(前述)が ついに底を尽きそうになったため, 彼は 2年間アメリカに帰国することにし, その後, 1968年にイギリスに戻った。その際の彼は(イギリスでの)友人たちから別人に見えた。

・教室での火災事故という子供時代のトラウマに起因する鬱状態は悪化し, 以前はあった微かな自信も完全に失っていた。
Al Stewart はこう回想する。
「彼は私たちの目の前で崩壊していったんだ。誰もが愛していた彼のスタイルはメランコリックでメロディアスだった。しかし彼は全く理解できないことをやり始めたんだよ。心理的な苦悩をテーマにした曲で, 大音量で激しく演奏したんだ。僕は歌詞の一語も覚えてないよ。とにかくうまくいかなかったんだ。彼は心理学者のソファに座っている, そう書かれていた批評もあったね。仕事も全く得られず, それから間もなく, 彼は Woodstock(彼の生まれ故郷の州, ニューヨーク州にある Woodstock)に急いで戻ったんだ。」

Woodstock

・Woodstock 滞在中, Jackson C. Frank は元ファッションモデル Elaine Sedgwick(Andy Warhol の Muse たち, Warhol superstars の一人 Edie Sedgwick の従妹)と結婚した。彼が新聞社で短期間働いた後, 二人は一緒に衣料品店を開いた。
・息子と娘が生まれたが, 息子の方は稀な肺疾患を持って生まれ, その日のうちに亡くなった

・息子の死が原因と思われるが, Jackson C. Frank の 精神状態はさらに悪化し始めた。妻との関係も悪化し, 他の女性に近づくようにもなった。
幻聴が聞こえ, それを "spiritual nudists" からの声だと信じ, その声に導かれて辺りを裸で駆け回った。地元の警察に何度か逮捕され, 最終的には 精神病院に入院した。
・ある日, 妻には帰宅を禁じられ, 娘はそれから10代になるまで父親が死んだと信じるようにして育てられた。

・1970年代初頭, Jackson C. Frank は 友人たちに援助を乞うようになる。
・しばらくの間, 部屋を借りてソファで寝泊まりしていた。

・1971年, Art Garfunkel との新曲のシェアや未発表曲 "Juliette" の権利譲渡の可能性などの話し合いのため会合が実現, しかし Jackson C. Frank サイド(本人と連れてきた「ヒッピー」的な友人たち)の無礼な態度が Art Garfunkel を不快な気分にさせ, その話し合いは早々に無に帰すことになった。

・その後, Jackson C. Frank は一時期, 生放送(訳注:地元のラジオ番組かと思われる)での 演奏などをしていた。
・調子のいい時には, 複数の新曲 を書き, 出版しようとしていた書籍(題名 "Society Doll")の冒頭部分も書いた。
・1975年には Melody Maker に Jackson C. Frank の音楽に関する記事が載り, 1978年には 1965年のデビュー・アルバムが ジャケットを刷新して "Jackson Again" と改題され再リリース。しかし, 最終的には(少数のファン以外に)彼の音楽を広めるまでには至らなかった。

・その後, 処方薬で 妄想症状が軽減したため, その薬の服用をやめる決断をした。しかし 間もなく彼は再び 裸で走り回り始め, 時には cape(肩と背を覆う, 袖なしのマント)を羽織り, 剣を持ち, Walter Scott の著作の登場人物 Lochinvar を名乗ったりもした。また, マリファナも吸い始めた。
・そして 再び 精神病院に入院 することになった。

Later life and death

Jackson C. Frank は1980年代初頭, ニューヨーク州で両親と数年間暮らした。その間, (クルマがスピードを上げて飛ばす)田舎道を目的もなく歩き回ったり, 溝に何時間も座って草むしりするなど奇妙な行動をしたため, 近所の人々は彼を警戒した。
・しかし, (子供時代の悲劇の, 地元で有名な)火災の被害者だったことで, 彼は "cut a lot of slack"(「かなり大目に見られた」)。

・1984年, Jackson C. Frank は メモも転居先も残さずに失踪し, 行方不明になった。
・彼は 旧知の Paul Simon を見つけようとの必死の試みでニューヨーク市へ向かったものの, (結局 見つからず, 無駄骨に終わり)ついには ホームレスとなり歩道で寝るようになった。

(注:Paul Simon との関係は, 本 note 本章前節および第1章第2節も参照)

・この間, Jackson C. Frank は, 様々な種類の精神病院の入退院を繰り返していた。
・彼は統合失調症の治療を受けていたが, 本人はその診断を否定し, 子供時代の災難に起因するトラウマが原因の鬱(うつ)病だと主張していた。

Jackson C. Frank の将来が最悪に見えたまさにその時, 1990年代初頭, Woodstock 地方の彼(の音楽)のファン Jim Abbott が, 彼を発見した。
Jim Abbott は, 当時通っていた地元の大学で教師 Mark Anderson と音楽について話し合っていた。二人とも好きだったフォーク・ミュージックの話になり, Jim Abbott は教師に Jackson C. Frank のことを聞いたことがあるかどうか尋ねた。彼はこう回想している。

「私自身は 2年くらい考えてもみなかったんだけど, 教師は『ああ, 知ってるよ。実は 彼から手紙をもらってるんだ。不運なフォークシンガーを助けてあげたいと思うかい?』って答えたんだよ」

(注:Jim Abbott については, 本 note 本章前節も参照)

・Gettysburg College 時代から 教師 Mark Anderson を知っていた Jackson C. Frank は, ニューヨーク市を離れる決心をした後, Woodstock に滞在できる場所があるかどうか尋ねる手紙を(Mark Anderson に)書いていたのだ。

Jim Abbott は Jackson C. Frank に電話をかけ(訳注:上記の手紙に連絡先が記載されていたものと推測), Woodstock の高齢者用施設(老人ホーム類)への一時的な滞在を手配した。
・その後 ニューヨークで Jackson C. Frank を見つけた Jim Abbott  衝撃を受けた。

「彼に会いに行った時, 彼のアルバムのカヴァー(ジャケット写真)以外には彼の写真を見たことがなかった。当時の彼は若々しかった。太った男がよろよろ歩いていたので, 『まさか彼じゃないよな』と思った。立ち止まって Jackson? と声をかけたら, 彼だった。'Oh my God' という印象だった。まるで elephant man か何かのようで。彼はひどく乱れていて, しかも何も持っていなかった。本当に悲しかった。私たちは昼食をとり, 彼の部屋に行った。私はほとんど泣きそうだった。50歳にもなる男が, 持ち物はボロボロになった古いスーツケースと壊れたメガネだけだったんだ。おそらく彼のケースワーカーが 10ドルほどのギターを彼にあげたのだろうが, チューニングは合っていなかったよ。暑い夏の日だった。彼は私のために Blues Run the Game を弾こうとしたけど, 彼の声はほとんど枯れていたんだ。」

・その後まもなく, Jackson C. Frank は Woodstock への引越しを待つ間, Queens(ニューヨーク市)でベンチに座っていた時に pellet gun で撃たれ, 左目を失明した。当初は犯人が見つからなかったが, 後に地元のキッズ(不良少年たち?)が 無差別に発砲し, 彼がたまたま in the wrong place at the wrong time(間違った場所に, そして間違った時間に)居合わせていたことがわかった。

Jim Abbott はすぐに Jackson C. Frank の引っ越しを手助けした。
・この間, Jackson C. Frank は Broadcast Music, Inc. から小切手を受け取り, 新曲のデモ録音を始めた。

この復活は, 1965年の セルフタイトル・アルバム初のCDリリースにつながった。
・後のプレスでは, 1970年代の彼のデモ録音が アルバムのボーナス・ディスクとして収録され(リンク先, 'Track listing' の下方, '1996 Mooncrest CD bonus tracks' との記載), "Blues Run the Game" と題されたアンソロジーには, これらの音源全てと 1990年代に録音された最後のデモが収録された。

(注釈:しかし, 残念ながら, Jackson C. Frank の精神状態は 好転しなかった。)

・その後, 彼は 窓からの放尿を繰り返し, 施設から退去させられた
・以降しばらくは Jim Abbott と同居していたが, 1996年に誤って住宅火災を起こしそうになり(辛うじて免れ), 結局, またも精神科病棟に入院することになった。
・6ヶ月後, Jackson C. Frank はもはや入院生活もできなくなり, 彼の家族も彼を養育できるような状況ではなかったため, JIm Abbott が 彼の法的後見人となった。

Jackson C. Frank は 1999年3月3日, 56歳の誕生日の翌日, Great Barrington, Massachusetts(マサチューセッツ州)にある nursing home(介護施設, 高齢者福祉施設もしくは老人ホーム)で, 肺炎と心不全の合併によりこの世を去った。

….. ….. …..

なお, 彼の死後, 2013年には, Jackson C. Frank の未発表デモ録音を集めたアルバム "Forest of Eden" が, ロンドンのレコード・レーベル, Secret Records からリリースされた。このコレクションには, 未発表曲 "Forest of Eden" や 1950年代のデモ録音 "Heartbreak Hotel", それから 2曲のクリスマス・ソング("Santa Bring My Baby Back To Me", "Precious Lord", 後者は彼の祖父母への挨拶の朗読入り), そして 1965年のアルバムに先立って録音された, 彼のオリジナル曲の自宅録音デモ 3曲 "I Want To Be Alone", "Here Comes The Blues", "You Never Wanted Me" が含まれる。

Jackson C. Frank の現時点での未発表音源は, 1968年に BBCラジオ1の番組 'Nightride' 用に制作された曲があるが, 音質の悪い音源としてしか残っていない。

In 2013, Forest of Eden, an album of Frank's unreleased demos, was released through London based record label Secret Records. The collection includes his unheard song "Forest of Eden", alongside 1950s demo recordings of "Heartbreak Hotel"; two Christmas songs, called "Santa Bring My Baby Back To Me" and "Precious Lord" (with a spoken word greeting to his grandparents); and three home-recorded demos of his original songs made prior to his 1965 album - "I Want To Be Alone", "Here Comes The Blues", and "You Never Wanted Me". The only available recordings of Frank yet to be officially released are songs made for the BBC Radio 1 show Nightride in 1968, but they only exist as poor quality off-air sources.

https://en.wikipedia.org/wiki/Jackson_C._Frank#Later_life_and_death

Blues Run the Game を あらためて聴く 

"Blues Run the Game" by Jackson C. Frank 〜 歌詞和訳

Blues Run the Game, the opening track from the self-titled debut and only studio album by Jackson C. Frank (March 2, 1943 – March 3, 1999), released in December 1965

英語原詞 https://genius.com/Jackson-c-frank-blues-run-the-game-lyrics

船に乗ってイングランドへ行こう, ベイビー
スペインでもいい
どこへ行こうとも
どこにいたとしても, どこに行っても
どこへ行ったって
いつも同じ憂鬱が ついてくるんだ (*1)

ウイスキーを頼んでくれ, ベイビー (*2)
ジンも注文してくれ
俺とルームサービス, ハニー
俺とルームサービス, ベイビー
俺とルームサービスだけで十分だ
ああ, 俺たちは 罪深い人生を生きてるんだ (*3)

酒を飲んでない時は, ベイビー
おまえのことばかり考えてるよ
寝ていない時は, ハニー
眠れない時は, ママ
寝ていない時は
わかるよね, 俺が泣いてるのを見つけるはずさ

他の街へ行ってみよう, ベイビー
他の小さな町でも
どこへ行こうとも
どこにいたとしても, どこに行っても
どこへ行ったって
憂鬱が 俺を追いかけてくるんだ

生きることは賭けさ, ベイビー
愛することも同じようなもんさ
どこで 賭けをしようが
いつ サイコロを振ろうが
どこで 賭けをしようが
憂鬱が 俺を追い詰めるんだ (*4)

明日かもしれないね, ハニー
とにかくいつの日か (*5)
目覚めて年老いた自分に気づくんだ
ずっと年とってるんだ, ママ
年老いて目を覚ますんだよ
それで俺は, もう抗うことをやめるんだ

船に乗ってイングランドへ行こう, ベイビー
スペインでもいい
どこへ行こうとも
どこにいたとしても, どこに行っても
どこへ行ったって
いつも同じ憂鬱が 俺についてくるんだ

….. ♫ ….. ♫ ……

訳注
*1 the blues 「憂鬱」「気のめいり」, ここは音楽の「ブルーズ」よりも「憂鬱」という言葉で。

*2 send out for 「(~を)送ってもらうよう頼む」

*3 living a life of sin 「罪深い人生を生きて(い)る」

一般的な(あるいは宗教的な)意味合いではなく(もしくはそれだけではなく), 自身の経験に根差した表現であるように思われる。

以下, 前章「Jackson C. Frank の 筆舌に尽くしがたい苦難の人生」の第2節(「彼は生涯をあの災の中で生きた」: 「失われた」歌手 Jackson C. Frank の悲劇)より転載。

しかし, 苦痛は肉体的なものだけではなかった。火災のなか他の子供たちを助けようとした後で窓から逃れた Jackson C. Frank は, さらに多くの同級生を救えなかったことへの 強い罪悪感を感じていたのだ。それはこれほどの恐ろしい出来事に対する, 驚くべき成熟した反応だと言えるだろう。「彼の頭の中で, 彼は他の子供たちよりずっと大人だったのです」と Damien Aimé Dupont は言う。「しかし, 彼はこのこと全てに対処するための心理的な支援を持ち合わせてはいなかった。そのため, 彼は心の中では, その生涯をあの災の中で生きていたのです。」

以下, 同様に 前章第2節(「彼は生涯をあの災の中で生きた」: 「失われた」歌手 Jackson C. Frank の悲劇)より転載。

Jackson C. Frank はまた, あの火災で亡くなったガールフレンドの名に由来する Marlene という頌歌も書いた。ある痛ましいヴァースで彼は自分が生き残ったことへの罪悪感を表現し, 火災の怪我で自分が足を引きずるようになったことを自らへの罰と解釈している。“Though the fire had burned her life out / It left me little more / I am a crippled singer / And it evens up the score”(炎は彼女の命を焼き尽くしたけれど / 私にはほとんど何も残っていなかった / 私は身体が不自由なシンガーだ / それでスコアはイーヴンだ[これで帳尻が合うのさ])と彼は歌ったのだ。

*4 The blues have run the game 「憂鬱が 俺を追い詰めるんだ」 
run は「(獲物・犯人などを)追う」「追い詰める」
the game はここでは「賭け」, そしてこのヴァースの冒頭のラインが Living is a gamble だから, それは「人生」「(苦難の人生を)生きること」でもある。そう解釈して「憂鬱が 俺の人生を追い詰めるんだ」「憂鬱が 俺を追い詰めるんだ」と意訳した。

因みに run は やはり他動詞で「経営する」「管理する」「運営する」などの意味にもなるから, 転じて The blues have run the game 「憂鬱が ゲーム(賭け, 人生, 俺)を支配するんだ」という解釈もありだろう。ただ, この歌詞の中の文脈においては, 「支配する」も「追い詰める」も大意としてはそう変わらないと思う。

*5 Someplace down the line 「とにかくいつの日か」
"somewhere down the line" で「いつの頃からか」「いつかある時点で」といった意味。それとほぼ同じ解釈をし, 文脈を踏まえて意訳した。

………. ♫ ………. ♫

"Blues Run the Game" by Sandy Denny 〜 歌詞和訳

因みに,

1965, Jackson C. Frank's single "Blues Run the Game" (Columbia); Denny plays tambourine (uncredited) on the B-side, "Can't Get Away From My Love".

https://en.wikipedia.org/wiki/Sandy_Denny_discography#Guest_appearances

"Can't Get Away From My Love" 

早逝のイギリス人シンガーソングライター Sandy Denny (January 6, 1947 – April 21, 1978) は, 一時期 Jackson C. Frank (March 2, 1943 – March 3, 1999) と恋愛関係にあった。後段にリンクを載せる音源は, その時期もしくはその別れの直後ぐらいの時期の録音によるもの, ではないかと想像する。

ところで, 先日, Sandy Denny 作詞作曲 "Who Knows Where the Time Goes?" の歌詞などに関する投稿をした際,

その時には, 自分が経験した "人生のポケット" *1 と呼ぶものを思い浮かべたりもしたのだが(上掲 note 第2章「Sandy Denny を知った・再認識したきっかけ, Sandy Denny が気になる理由(のひとつ)」第3節「Sandy Denny が 気になる理由(のひとつ)」),

しかし Jackson C. Frank の歩んだ人生の方は, その苦難のレベル, 艱難辛苦のスケールが, 想像を遙かに超えていた。

気を取り直して, いや 早逝の Sandy Denny の人生もそうした意味でかなりのものではあるのだが, ともあれ, 今日は最後に, Sandy Denny による Jackson C. Frank 作詞作曲 Blues Run the Game のカヴァーを聴く。

録音は 1966年。
https://diskunion.net/progre/ct/detail/1008883834

上掲 note 第2章「Sandy Denny を知った・再認識したきっかけ, Sandy Denny が気になる理由(のひとつ)」第1節「Simon & Garfunkel 〜 Jackson C. Frank 〜 Sandy Denny」にも載せている。

*歌詞は, オリジナルの歌詞から [Verse 4](Try another city, baby 〜 )が 省略され(割愛され), 他にも一部異なる箇所がある。

Blues Run the Game from Early Home Recordings (by Sandy Denny)

英語原詞
https://www.sandydenny.co.uk/lyrics/bluesrunthegame.htm

船に乗ってイングランドへ行こう, ベイビー
スペインでもいい
どこへ行こうとも
どこにいたとしても, どこに行っても
どこへ行ったって
いつも同じ憂鬱が ついてくるんだ

ウイスキーを頼んでよ, ベイビー 
ジンも注文して
私とルームサービス, ハニー
私とルームサービス, ベイブ
私とルームサービスだけで十分ね
私たちは 罪深い人生を生きてるの 

酒を飲んでない時は, ベイビー
あなたのことばかり考えてる
寝ていない時は, ハニー
寝ていない時は, ハニー
寝ていない時は
わかるよね, 私が泣いてるのを見つけるはず

明日かもしれないね, ベイビー
とにかくいつの日か 
目覚めて年老いた自分に気づくの
ずっと年とってる, ハニー
年老いて目を覚ますの
それで私は, もう抗うことをやめるの

生きることは賭けね, ベイビー
愛することも同じようなもの
どこへ行こうとも
どこにいたとしても, どこに行っても
どこへ行ったって
憂鬱が 私を追い詰めるんだ

船に乗ってイングランドへ行こう, ベイビー
スペインでもいい
どこへ行こうとも
どこにいたとしても, どこに行っても
どこへ行ったって
いつも同じ憂鬱が 私についてくるんだ

….. ♫ ….. ♫ ……

*1 上に書いた通り, 「しかし Jackson C. Frank の歩んだ人生の方は, その苦難のレベル, 艱難辛苦のスケールが, 想像を遙かに超えていた」のではあるが, それでも今日の note も, 覚書のようなつもりで, "人生のポケット" マガジンに収録しておこうと思う。

いいなと思ったら応援しよう!