言葉になる前に、「違うこと」は分かっている
大事な用事の前、鏡の前で服を替えます。一着目を着てみるものの、なんとなく落ち着きません。別の服に替えても、まだ違います。鏡の前を行き来しているうちに、時間だけが過ぎていきます。
それでも、なぜか「これは違う」という感覚だけは、すぐに分かるのです。
では、その「違う」は、何と比べているのでしょうか。まだ選ぶべき一着も決まっていないのに、その基準だけは、なぜ先に働いているのでしょうか。
二千年前の問い
服を選ぶときも、文章を書き直すときも、「これは違う」と感じることはできます。けれど、その基準が何なのかと聞かれると、うまく言葉にはできません。
この少し不思議な感覚は、二千年以上前には、すでに一つの問いとして考えられていました。プラトンの対話篇『メノン』のなかで、メノンという青年は、ソクラテスにこう問い返します[1]。
まだ知らないものを、どうやって探せばいいのでしょうか。何を目印に探せばよいのかも分かりません。それに、もし偶然行き当たったとしても、それが探していたものだと、どうして分かるのでしょうか。もともと知らなかったのですから。
この問いは、やがて一つの逆説としてまとめられます。知っているものは探す必要がなく、知らないものは出会っても、それが探していたものだと判断できません。だとすれば、探究そのものが成り立たないことになります。
それでも、「違う」は分かっている
先ほど見たように、私たちは候補のいくつかを「これは違う」と、ためらわず退けています。もしメノンの逆説がそのまま成り立つのなら、それはできないはずです。何に向かっているのか分からないのであれば、「それではない」と判断することもできないからです。
それでも、私たちは書き直すたび、言い換えるたびに、「違う」と言いながら候補を退けています。そのことを不思議だと思う機会は、ほとんどありません。あまりにも自然にできてしまうため、問いにすらならなかったのです。
この当たり前を正面から考えたのが、マイケル・ポランニー(Michael Polanyi)です。物理化学者として研究を重ねた後、人が知るとはどういうことかを探究したポランニーは、メノンの逆説を取り上げたうえで、「私たちは、語ることのできる以上のことを知っている」と述べました[2][3]。
言葉にできることだけが、知っていることではありません。説明はできなくても、手応えはあります。候補が現れると、その手応えが「これは違う」と教えてくれます。ですので、私たちは、まだ言葉にならないものへ向かいながらでも、違う候補だけは先に退けることができるのです。
言葉にならないのに、間違えない
言葉にできないのに正確でありうることを、極端な形で示す仕事があります。ひよこの雌雄鑑別です。
生まれたばかりのひなの雌雄を見分けるこの技術は、1924年に日本で生まれました[4]。熟練した鑑別師は、一時間に八百から千二百羽を、ほとんど間違えることなく選り分けます[5]。ある調査では、五十年にわたり約五千五百万羽を見分けてきたベテランに、その見分け方を尋ねています。しかし、本人は、それをうまく言葉にできませんでした[6]。
弟子も、言葉だけで技術を身につけるわけではありません。熟練者のそばで手つきを見ながら、一年から二年をかけて覚えていきます[5]。説明できないことと、正確であることは、たしかに両立しているのです。
ただし、その手応えだけでは、技術は次の人へ伝わりません。弟子が長い時間をかけるのは、その感覚を言葉だけでは受け取れないからです。手応えは正確です。しかし、そのままでは他の誰かに渡すことはできません。言葉には、手応えにはできない仕事があります。自分の知っていることを、別の人へ受け渡すという仕事です。
言葉になる前の手応え
ポランニーは、暗黙知を言葉へ完全に置き換えることはできないと考えました。そのため、熟練した技術は説明だけでは伝わらず、実際に手を動かし、そばで学ぶことが欠かせません。暗黙知は、実践のなかで身につき、実践のなかで受け継がれていくものです。
一方で、その手応えを急いで言葉にしてしまうと、本来感じていたものから離れてしまうことがあります。その感覚を消さずに扱う方法を考えたのが、心理療法家ユージン・ジェンドリン(Eugene Gendlin)です。
ジェンドリンは、まだ言葉になっていない身体の感覚を「フェルトセンス(felt sense)」と呼びました[7]。それは、はっきりした感情でも、完成した考えでもありません。「何か違う」「まだしっくりこない」と感じている、その曖昧な手応えです。
そこでジェンドリンは、その感覚を急いで説明しようとはしませんでした。言葉やイメージを一つずつ、その感覚にそっと当ててみます。すると、しっくりくるものもあれば、「それではない」と感じられるものもあります。正解を最初から知っているわけではありません。それでも、違うものは先に退けられます。感覚との響き方を確かめながら、少しずつ言葉へ近づいていくのです。
ここで確かめられているのは、正体ではありません。「これではない」という感覚です。名前はまだありません。それでも、違うものは退けられます。言葉になる前に働いている知識は、完全には説明できなくても、私たちの選択を静かに導いています。
その前に、一呼吸だけ手を止めてみる
これは、特別な技能の世界だけの話ではありません。文章を書くときも、言葉を選ぶときも、私たちは何度も「これは違う」と候補を退けています。その判断は驚くほど確かです。しかし、なぜ違うのかと聞かれると、うまく言葉にはできません。
普段であれば、そのまま次の候補を書き始めます。その「違う」という感覚は、役目を終えたものとして通り過ぎていきます。
しかし、その前に、一呼吸だけ手を止めてみます。
その短い間にも、何かは働いています。その避けられた「違う」は、強すぎるのかもしれません。軽すぎるのかもしれません。硬すぎるのかもしれません。あるいは、自分の言葉ではない感じがするのかもしれません。それは、はっきり言い切れなくても構いません。正体に名前をつける必要もありません。
大切なのは、「違う」という感覚を、すぐに説明へ変えようとしないことです。まだ言葉になっていない手応えが、そこには残っています。その手応えを消さずに次の言葉へ向かっていくと、候補は少しずつ、その感覚と響き合うものへ近づいていきます。
「違う」と感じることは、何に向かっているのか分かっていない証拠ではありません。まだ言葉にはなっていなくても、知っていることが働いている。そのことに気づくだけで、言葉へ向かうという行為の見え方は少し変わります。
やがて、その手応えは、「違う」候補を退ける場面だけではなくなっていきます。まだ言葉が一つも浮かんでいないときでも、「こちらではない」という感覚だけが、先に働いていることがあります。何に向かっているのかは、まだ言えません。それでも、その手応えが最初の一言へ向かう小さな手がかりになることがあります。
参考文献
[1] プラトン著、藤沢令夫訳『メノン』岩波文庫、岩波書店、1994年 https://www.iwanami.co.jp/book/b246647.html
[2] マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫、筑摩書房、2003年 https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088161/
[3] Michael Bradie, "Polanyi on the Meno Paradox," Philosophy of Science, 41(2), 1974, p.203 https://doi.org/10.1086/288586
[4] 増井清・橋本重郎・大野勇「雄鷄ニ於ケル(退化)交尾器官並ニ初生雛ノ雌雄ノ鑑別ニ就テ」『日本畜産学会報』第1巻、1924年、153-163頁 https://doi.org/10.2508/chikusan.1.153
[5] 「ニワトリのヒナの雌雄鑑別」ウィキペディア日本語版(閲覧日2026年7月19日) https://ja.wikipedia.org/wiki/ニワトリのヒナの雌雄鑑別
[6] Biederman, I., & Shiffrar, M. M., "Sexing day-old chicks: A case study and expert systems analysis of a difficult perceptual-learning task," Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition, 13(4), 1987, pp.640-645 https://doi.org/10.1037/0278-7393.13.4.640
[7] Gendlin, Eugene T. Focusing. New York: Everest House, 1978. (邦訳:ユージン・ジェンドリン『フォーカシング』福村出版)
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