重乃井の縄のれんをくぐった男の話・宮崎市重乃井の釜揚げうどん
重乃井の縄のれんをくぐった男の話




宮崎市川原町の路地は、やけに静かだった。

曇り空の下、黒い格子壁の建物がぬっと現れる。「元祖 宮崎名物 釜あげうどん 重乃井」。白地に墨で書かれた看板は、威張ってもいないし、媚びてもいない。1966年創業。つまりこの店は60年間、釜あげうどんだけで勝負してきたということになる。60年である。人間で言えば還暦をとっくに過ぎている。ぼくも68歳だから、まあ似たようなものなのであった。

縄のれんが重い。竹で編まれた、本気の縄のれんである。これをくぐるには、少しだけ覚悟がいる。腰をかがめて中に入ると、出汁と小麦の混ざった湯気の匂いが、鼻腔のいちばん奥まで入り込んできた。
釜あげうどん並と、魚寿司を頼んだ。
メニューはそれだけである。並か大盛か。あとは寿司を何貫つけるか。それしかない。潔い。潔すぎて、笑いが出る。
うどんが来た。


黒い丼に、白い麺が湯の中でゆらゆら揺れていた。湯気が立ち昇っている。その横に、茶褐色のつけ汁。天かすが細かく浮いて、刻みネギが散らばっている。醤油の濃い色をしているが、見た目ほど辛くはなさそうだった。
箸で麺を持ち上げた。ふわん、と麺が垂れる。讃岐のようなコシはない。そのかわり、やわらかくて、しなやかで、口の中でほどけるような食感がある。つけ汁に浸して、すすった。

最初に来たのは、天かすの油の甘さだった。次に、醤油の塩気。そして最後に、ネギの香りが鼻に抜けた。麺は汁をたっぷり抱えたまま、喉を通過していった。額にうっすらと汗が浮いた。
魚寿司は、鯖の押し寿司だった。肉厚の〆鯖が酢飯の上に乗っている。上にちょこんと載った紅生姜が、妙に愛らしい。酢飯はしっかり目の味つけで、うどんの合間に食べると、口の中がきれいにリセットされるのであった。

長嶋茂雄も王貞治も、このうどんを食べたのだという。ミスターがこのカウンターに座って、同じように箸で麺を持ち上げて、同じように額に汗を浮かべたのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
食べ終わった。丼に残った白い湯につけ汁を注いで、蕎麦湯のようにして飲んだ。胃の底がじんわりと温かくなった。
血糖値のことは、宮崎駅に着いてから考えることにした。
60年間うどんを茹で続けた店の、60年分の湯気を吸い込んで、ぼくは縄のれんをくぐって外に出た。曇り空は相変わらずだったが、それでも悪くない昼なのであった。
#おいしいお店
