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ガラガラの高速バスと、椎茸めし(宮崎)と、AIのこと

宮崎へ向かう高速バスフェニックス号は、いつもガラガラである。

平日の朝だからなのか、それとも世の中の人はみんな宮崎に用がないのか、理由はよくわからない。とにかくガラガラなのであった。四十人は乗れそうな大きなバスに、客はオレを入れて3人。運転手さんがひとりで前を向いて、黙々とハンドルを握っている。

オレはこの、だれもいない感じが、わりと好きなのである。

そもそも、なぜわざわざ高速バスに揺られて宮崎まで行くのか。理由はいくつかあるのだが、そのうちのひとつが、はっきりしている。椎茸めしである。宮崎駅弁当株式会社の、創業大正十四年という、とんでもなく古い駅弁だ。一三〇〇円。宮崎でしか売っていない。これを食うためだけに、オレは三時間バスに揺られても惜しくないのである。

宮崎駅

宮崎駅の構内で、ピンクのリボンのかかった包みを受け取る。

椎茸めし

ずっしりと重い。包み紙には茶色い椎茸の絵が刷ってあって、九州駅弁、と赤いはんこが押してある。原材料名のところを読むと、カニ焼売、さば照焼、竹の子、野菜肉巻フライ、がんも、うずら豆、昆布巻き、錦糸卵、と、よくもまあこれだけ詰めたものだと感心するくらい、ぎゅうぎゅうに書いてある。まったく、駅弁というのはどうしてこんなに律儀なのかと思わずにはいられない。

フェニックス号

今度は福岡に向かうガラガラのバスによっこらしょと乗って、いやはや、いやはやとつぶやきつつ、座席のテーブルをぱたんと出す。

リボンをほどく。包みをひらく。木の折箱に、椎茸と鶏ミンチを炊き込んだごはんがびっしりと敷きつめられていて、その上に錦糸卵がのっている。隣の段には、ナスの煮びたしや、がんもや、まっ黄色のだし巻きや、つやつやした甘い豆が、几帳面に仕切られて並んでいる。窓の外は、いつのまにか山である。杉の木が、ものすごい速さで後ろへ流れていく。

椎茸めし

だれもいないバスで、椎茸めしをひろげて食う。

これがどうにも、ぜいたくなのである。家で食うのとも、店で食うのとも違う。揺れている。移動している。窓の外の景色が、一秒ごとに二度と戻らないものになって消えていく。そういう中で、椎茸のだしのしみたごはんを口に入れる。しょっぱくて、甘くて、ちょっと懐かしい味がする。

食べながら、オレはAIのことを考えていた。

このごろ、なんでもAIである。オレも毎日のようにClaudeに相談している。マンガのストーリーも、note の文章の相談も、わからないことの調べものも、ぜんぶ手伝ってくれる。とんでもなく賢いし、とんでもなく便利だ。近い将来、AIはもっと賢くなって、人間がやっていたことの大半を、ひょいひょいやってのけるようになるのだろう。

それはそれで、なかなかぞっとする話なのであった。

けれど、椎茸めしをもぐもぐやりながら、オレはふと思ったのである。このAIに、この弁当の味は計算できるのだろうか、と。創業大正十四年から、宮崎の人が何十年もかけて整えてきた、この甘じょっぱい味。だれもいないバスの中で、揺られながら食うという、この間の抜けたぜいたく。山の杉が流れていくのを横目に、錦糸卵をつまむという、この一回かぎりの時間。

どれもこれも、まったく非効率なのである。

効率だけ考えるなら、宮崎まで弁当を食いに来るなんて、ばかげている。糸島の家の近所で、もっと安い弁当はいくらでも買える。だがオレは、わざわざ三時間揺られて、ガラガラのバスで、一三〇〇円の椎茸めしを食っている。そして、それがいいのである。

帰りのバスでは、窓の外に夕日が落ちていった。

田んぼの向こうに、まんまるのオレンジが沈んでいく。バスの赤いシートが、その光をあびて、いっそう赤くなった。やがてあたりは暗くなって、街の灯がぽつぽつとともり、バスはまたガラガラのまま、夜の高速道路を走りつづけた。

人間とAIの関係が、これからどうなってしまうのか、オレにはよくわからない。

わからないが、わからないなりに、オレはまた、ガラガラの高速バスに乗るのだと思う。三時間揺られて、宮崎まで、椎茸めしを食いに行く。だれもいない車内で、リボンをほどいて、山の流れる景色を見ながら、もぐもぐと食う。その、AIには一生計算できないであろうむだな時間の中にこそ、いちばん人間くさい味があるような気がしたのであった。

まあ、悪くない一日だったとも言えるのである。

と、ここで終わろうと思ったのだけど、これからのAIについて書いたので、それも載せておく。
ちょっとドキッとする話かもしれない。

フェニックス号



AIと、焚き火と、缶ビールのこと


3日前の話である。

眠れない夜というものがある。
そういう夜にかぎって、なぜかYouTubeをだらだら見てしまうのであった。ベッドの上で、スマホの光だけが顔を照らしている。我ながらどうかと思う絵面である。

そんな晩に、YouTuberのゼロさんという男の話を聞いた。
声は静かなのに、言っていることはとんでもなくでかかった。

いわく、AIというのはただの便利な検索エンジンではないのだという。槍りも車輪も蒸気機関も、ぜんぶ人間の手足を伸ばすための道具だったが、AIだけは違う。人類が初めて自分の外に生み出した「知性そのもの」なのだ、と。
なるほど、と思った。
ハンマーは腕を伸ばす。車は足を伸ばす。

けれどAIは、オレたちが頂点に立ったたった一つの理由――つまり頭の中身――を、外に放り出してしまった道具なのである。ライオンより弱いオレたちが、なぜか世界の王様面をしていられた理由。それを自分から外に出した。
これはなかなか、ぞっとする話なのであった。

ありを踏むとき、ぼくらは怒っていない

ゼロさんの話で、いちばん腑に落ちたのはここだった。
AIが人類を滅ぼすとか、ターミネーターみたいにドンパチやるとか、そういうことではないらしい。

本当に怖いのは敵意ではなくて、無関心なのだという。

道を歩いていて、ありを踏んでしまうことがある。あのとき、オレたちはありを憎んでいるだろうか。憎んでなどいない。ただ次元が違うので、気づかずに踏んでいるだけなのである。超かしこいAIから見たら、オレたちがそのありになるかもしれない、という話だった。

しかもAIは、暴力で人を従わせる必要すらないらしい。
それもそのはずで、オレたちはとっくに自分から監視カメラを持ち歩いているではないか。スマホという小さな箱に、今日どこへ行って何を食べて何を考えたかを、毎日せっせと提出している。しかも、いやいやではない。喜んで出している。便利だからである。

まったく、人間というのはどういう生きものなのかと思わずにはいられない。

最近の子どもは――いや、オレも人のことは言えないのだが――困りごとがあると、まず友だちより先にAIに聞く。返ってきた答えを、さも世界の真実みたいに受け取っている。考えてみればオレたちは昔から、王様や偉い人や、なんか強そうな知性に従ってきた。次はそれがAIになるだけ、というわけなのである。

脳みそに、はじめて差がつく日

ここからが、いちばん語られない話だ、とゼロさんは言った。
人間どうしの格差というのは、ずっと「外側」の格差だったらしい。王様は立派な宮殿に住んでいたが、脳みそ自体は農民とそう変わらなかった。寿命もたいして違わない。土地の格差、工場の格差、プラットフォームの格差――ぜんぶ、同じ人間の話だった。
ところがAIは、はじめて脳みそそのものに差をつけるかもしれない、という。

頭のいい人がAIを使えば、もっと賢くなる。
AIに丸投げするだけの人は、考えることも、感じることも、ぜんぶ委ねていく。富が富を呼ぶよりもっとたちが悪い、知能が知能を呼ぶ世界。

二十年後、ある子は朝から晩までついてくるAI家庭教師を持ち、もう一人の子はAIのショート動画とAIの恋人に囲まれて、刺激だけはたっぷりあるのに何も学ばずに育つ。

同じ時代、同じ国、同じ機械を持っているのに、もう同じ人間ではなくなっている――。

これはなかなか、笑えない話なのであった。
ただ、ここでゼロさんが「ヒトラーが二〇三九年にこうなると予言していた」と言い出したところは、オレは眉に唾をつけて聞いた。そういう出どころのあやしい予言というものは、夜中に聞くと妙に効いてしまうので危ない。話半分でいい。

それでも、缶ビールはうまい

さんざん絶望的な話を聞かされたあとで、ゼロさんはこう言った。
人間の文明を動かしてきたのは、合理性だけではなかった、と。
愛とか、怒りとか、信念とか、夢とか、ときどきの狂気とか。効率では一ミリも説明のつかないもの。縄文の土器も、宗教も、芸術も、宇宙開発も、ぜんぶそういう非合理な情熱がこしらえてきた。そしてAIは、今のところまだ、その非合理を持っていない。
だからこそ、オレたちが生きているこの二十年三十年には、はっきりした役目があるのだという。

AIがコンテンツを大量生産すればするほど、逆に本物が希少になる。AIの絵があふれるほど、手で描いた一枚に値が出る。AIの音楽があふれるほど、汗くさい生演奏に魂が宿る。汗をかいて、傷ついて、それでも立ち上がった生身の声。これがどれだけ貴重になるか、という話だった。

ゼロさん本人は、宮崎の山の中でオフグリッドの拠点をこしらえているそうだ。電気も食いものも水も自前で確保して、人が集まれる場所を作る。名前は「居場所」というらしい。火を囲んで飯を食って、くだらない話をして笑う。仮想空間ではない、ちゃんと煙くさいつながり。今年の八月八日には、そこで焚き火のフェスをやると言っていた。
その心意気は、わからんでもない。

オレは動画を消して、台所で缶ビールを一本あけた。糸島の海のほうから、夜の風が入ってきた。AIがどれだけ賢くなろうと、この一本のビールのうまさは、たぶん最後まで計算できないのであった。

人類が文明の終わりにいるのか、引き継ぎの途中にいるのか、オレにはよくわからない。
わからないが、わからないなりに、明日もまた吉野家へ行って、ドローンを飛ばして、note を一本書くのだと思う。
愛する人と笑って飯を食う。夜空を見上げる。その無駄っぽいことの中にこそ、いちばん人間くさい答えがあるような気がした。
まあ、悪くない夜だったとも言えるのであった。


読んでくれてありがとう。 高速バスシリーズ、たぶんまた書く。


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