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不害無い@息子|【狸の短編小説】

 僕の住む家には、映るものがない。鏡はとうの昔に割られ、窓は一日中、分厚い布で覆われている。

僕が自分の顔を知るのは、雨上がりの水たまりを覗き込む時だけ。そこに映るのは、泥水に揺れる歪んだ輪郭。僕はいつも、そこに石を投げ込む。波紋がすべてを掻き消すまで。


 母は時々、戸棚の奥から分厚い冊子を取り出す。日に焼けた表紙には、何も書かれていない。

中には、黒い背景に浮かぶ白い影の写真が、何枚も挟まっていた。丸くて、小さくて、僕とは似ても似つかない何かの影。

それを見つめる母の横顔は、僕の知らない人のようだった。僕が床の軋む音を立てると、母は弾かれたように冊子を閉じ、元の場所へ隠してしまう。


 週に一度、僕らは町へ行く。車の後部座席で毛布を被って、できるだけ小さくなる。

店に入ると、空気が変わるのがわかる。囁き声と、一瞬だけ僕に向けられ、すぐに逸らされる視線。

レジの女の人は母にだけ笑いかける。その作り物の笑顔が崩れ、目に憐れみが宿るまでの、ほんのわずかな間。その時間が、僕の世界のすべてだった。


 母は、僕にご飯を食べさせ、体を拭き、服を着せる。けれど、その目は決して僕の顔を捉えない。いつも僕の肩越しにある壁の染みを見ている。

その指先が僕の肌に触れるたび、微かに震えるのを知っていた。それは義務だった。償いだったのかもしれない。僕という名の、取り返しのつかない何かの。


 それは嵐の夜だった。風が窓を叩き、家が唸りを上げていた。母はまた、あの冊子を広げていた。雷光が部屋を白く照らし出す。その横顔は、白い影の写真に落ちて、恍惚としていた。

僕は静かに立ち上がり、母の後ろに立った。 軋む床板の音に、母がゆっくりと振り返る。初めて、母の目が僕の顔を、僕の全身を、真正面から捉えた。

大きく見開かれた瞳が、恐怖に揺れる。唇が何かを形作ろうとして、意味のない音を漏らした。 僕の手には、いつも食卓の果物を切るための、冷たい柄があった。


 雨は、とうに上がっていた。 開け放たれた玄関から、湿った土の匂いが流れ込んでいる。テーブルの上では、あの分厚い冊子が開かれたまま、夜露に濡れていた。

最後の頁に写る白い影の上に、赤い染みが静かに広がっていた。手付かずのまま冷え切った二人分の食事が、朝の光に照らされている。


 この家に、人間はいなかった。


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