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不害無い@母|【狸の短編小説】

 家の記憶は、磨り硝子と分厚いカーテンの向こうにある。光を拒むこの家で唯一、私が息子の顔を見ないで済む場所は、戸棚の前だった。

軋む扉を開けると、古い木箱が鎮座している。蓋を持ち上げれば、支払いの控えに通院の記録、そして何枚もの黒い紙片が私を迎える。

中央に浮かぶ白い影。指でなぞると、まだ見ぬ我が子の、柔らかな輪郭が伝わる気がした。この箱だけが、私の費やした年月と、報われたはずの祈りの証。


 「……」

背後で床板が鳴る。弾かれたように箱を閉じ、戸棚に戻す。振り返ると、食卓の椅子に息子が座っていた。いつからそこにいたのか。

決して顔を直視することはない。私の目には、それが完成しなかった一枚の肖像画に見えるから。

輪郭だけは確かにある。けれど目や鼻や口といった細部は、作者が途中で絶望して塗り潰したかのように、歪な線と影の塊になっていた。

だから私はいつも、彼の皿にだけ視線を落とし、煮崩れた野菜を置く。


 週に一度の買い出しは、覚悟のいる儀式だ。車の後部座席で毛布を深く被るよう命じ、店の入り口では自分の体で隠すようにして足早に歩く。

それでも視線は防げない。憐憫、好奇、そしてわずかな安堵。他人の目に映る私たちは、きっと滑稽なほど必死なのだろう。

レジの女性が浮かべる作り笑いが、私の背後にいる気配に向けられたものではないことを、私は知っている。

彼女たちは、自分たちが「あちら側」ではないことを確認するために、私たちを見ているのだ。


 あの日、医者に幾度となく言われた。けれど、この箱に詰まった時間と期待が、私の耳を塞いでいた。これは私の子供なのだと、自分に言い聞かせていた。

この子のいない未来など、考えられなかった。いや、考えたくなかった。

息子が成長するにつれ、家の沈黙は重みを増した。言葉を交わすことはほとんどない。彼はただ、私の動きを目で追うようになった。

戸棚の箱を取り出す時、その背中に突き刺さる視線を感じる。それは次第に、単なる好奇心ではない、何か別の色を帯びていった。

値踏みをするような、射抜くような冷たさを。


 それは嵐の夜だった。風が家を揺らし、窓ガラスが悲鳴を上げる。私はいつものように、戸棚の前の床に座り込んでいた。

箱の中の白い影を見つめていると、世界から音が消え、ただこの小さな命の気配だけが満ちていく。至福の時だった。

ふと、すぐ間近に気配がする。ゆっくりと顔を上げる。息子が、目の前に立っていた。初めて、私は彼の顔を真正面から見た。

それは、ロウソクの熱でどろりと溶けかけた、蝋人形の顔。目も、鼻も、唇も、本来あるべき場所から流れ落ち、一つの塊になって表情を失っている。

私の罪が熱を与え、彼を溶かしてしまったかのようだった。彼の瞳の奥には、何の光も宿っていない。

その手には、果物ナイフが握られている。いつも私が、彼のためにリンゴの皮を剥く、小さな刃物。

あ、と声にならない声が漏れた。彼は、私が決して見ようとしなかったものを、ずっとその瞳に映してきた。箱の中にいる幻ではなく、ここにいる自分を。

冷たい何かが、胸のあたりに静かに食い込んでいく。視界が霞む中、最後に映ったのは、床に散らばった黒い紙片だった。

その白い影の上に、新しい染みがゆっくりと、そして確かに広がっていくのが見えた。


 開け放たれた玄関から、雨上がりの土の匂いが流れ込んでくる。テーブルの上では、手付かずのまま冷え切った二人分の食事が、白々しい朝の光に照らされていた。


 この家に、人間はいなかった。


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