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白い世界の亀裂|【狸の短編小説】

 夫がいなくなってから、
 息子は太陽ばかり描くようになった。

 夕飯のあと、皿を洗う音を聞きながら、
 息子は真っ白な紙に向かい、
 ひたすら赤いクレヨンを滑らせる。

 他の色はもうずっと使っていない。

 日に日に短くなる赤だけが、
 あの子の小さな指先で、
 いつもほんのり温かかった。

 壁には、同じ顔をした太陽が
 十枚以上貼られている。

 どれも紙の中央を独占して、
 血が滲んだような赤い円が主張してくる。

 その一枚一枚が、
 この家の時間を止めてしまった、
 小さな祈りのしるしに見えた。

 「ねえ、今日は車を描いてみない?
      パパが乗ってた、青い車」
 

 ある晩、私はそう声をかけた。
 息子は顔も上げずに、小さく首を横に振る。
 
 紙の上でクレヨンが擦れる、
 粘りつくような音だけが部屋に響く。

 まるで、あの子の心を全部使って、
 小さな世界を色で満たしているかのようだ。


 夜、私は壁の太陽たちに見つめられながら、
 なかなか眠れなかった。

 夫は長期の出張に行っただけ。
 
 そう自分に言い聞かせても、
 何かを見透かしたように見つめてくる。

 ふと、一枚の絵が目に留まった。
 昨日描いていた、新しい太陽。

 その赤い円の中心から黒い雫が一本、
 まっすぐ下に伸びている。
 他の太陽にはない、たった一つのしるし。

 

 翌日、息子が太陽を描き終えるのを待って、
 私は尋ねた。

 「この黒いの、なあに?

 私の声は、自分でわかるくらい、
 かすかに震えていた。

 息子はクレヨンをそっと置くと、
 小さな指で黒い雫をなぞった。

 「涙だよ

 あの子の目は、画用紙のずっと向こう、
 私には見えない景色を見つめていた。

 「どうして、泣いているの

 「太陽が、心配してるんだ

 静かな声だった。

 けれどその言葉は、私の心の奥、
 施錠された扉にスッと染みこんでいく。

 あの子のまっすぐな瞳は、
 私が見て見ぬふりをしていた
 真実を見ているようだった。

 「何を、心配してるの

 息子はゆっくりと私に顔を向けた。

 何も映っていない湖のような瞳で、
 静かに言う。

 「パパが、まだ帰ってこないから

 その瞬間、心臓がギュッと凍る。

 ああ、この子はわかっている。

 私が言葉で隠した嘘の下で、
 この家族という世界が静かに壊れていく、
 その小さな音を聞いているのだ。

 壁一面の太陽が、
 一斉に黒い涙を流し始めるのが見えた。

 あれは息子の絵なんかじゃない。
 この家の心を写した鏡。

 一枚の画用紙はもう紙ではなく、
 私の明日を告げる、
 静かな手紙に変わっていた。


 3ヶ月前に書いたものを書き直してみました。
 ぜひ以前のものと見比べてみてください。


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