何も無くて、ごめんね|【狸の短編小説】
壁に色を塗っていた。
虹のどの色とも違う光を放つ色。
塗り終えた壁の前で息をつくと、背後を通り過ぎる親子の会話が聞こえてきた。
「あの壁、まだ何もないね」
彼らの目には映っていない。
店先に並ぶ林檎に手を伸ばしても、店主は虚空を見つめている。
差し出した硬貨は、指をすり抜けて、乾いた音を立てた。
誰もその音を拾わない。
人はただ、通り過ぎていく。
薄い空気の層を隔てているように、誰の肩にも触れることはない。
人々はその存在を避けない。
アスファルトの裂け目に、小さな花を見つける。
その花びらは、壁に塗ったのと同じ色をしていた。
誰も気にも留めない。
夕暮れ時、広場のベンチに座る。
世界がオレンジ色に染まっていく。
その光の中で、誰にも見えない自分の色を、静かに放っている。
ふと、足元で小さな喉を鳴らす音が聞こえてきた。
見下ろすと、野良猫が光の余韻を浴びるように目を細めている。

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