満潮書架|【狸の掌編】
父が遺したこの書斎で、それは静かに起こる。
月に一度、新月の夜にだけ訪れる現象。
私はそれを満潮書架と呼んでいる。
合図は、壁を埋め尽くす本棚からだ。
ぎしり、と木が軋む音。
続いて背表紙の隙間から滲み出すように、
黒い液体がしたたり落ちる。
それはインクの匂いをさせて、
床の木目にゆっくりと染み込んでいく。
これが干潮。世界の始まりの合図。
やがて、遠くからごぽり、
と空気が弾けるような音が聞こえ始める。
すると、今度は本棚そのものが海になる。
古い物語の革装丁が波頭となり、
新しい文庫本の頁が白い泡となって
押し寄せてくる。
活字の波は次第に水位を上げる。
床を洗い、椅子の脚を濡らし、
やがて私の足首を捉える。
冷たく重い。
物語の質量そのものが流れ込んでくる。
私は机の上に避難し、その光景をただ眺める。
窓の外はいつもと同じ。
くすんだ灰色の壁が見えるだけ。
音も光も、この部屋に閉じ込められている。
満潮が近づくにつれて、
インクの香りは次第に遠のく。
代わりに塩の匂いが鼻をつくようになった。
気のせいか、呼吸が少し苦しい。
押し寄せる本の波間に、きらりと光るものが見える。
小さな魚の鱗だろうか。
ありえない、と首を振る。
ここは書斎で、海ではない。
だが、水位はもう私の腰まで達している。
浮き上がった数冊の本が、
小舟のように頼りなく漂っていた。
壁の時計の針は止まっている。
部屋を満たすのは
ちゃぷん、ちゃぷんと響く不規則な水音だけ。
それは恐怖というより、むしろ荘厳な儀式に思えた。
父が愛した物語たちが、
物理的な形を持ってこの空間を満たしていく。
私もまた、その物語の一部に溶けていく。
ああ、ついに天井まで水面が達した。
最後の空気が、
私の口から銀色の泡となって昇っていく。
視界が暗転する寸前。
部屋のガラス窓だと思っていたものの向こうに、
巨大な顔が見えた気がした。
父によく似た、優しい顔だった。

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