ヘイコウ駅|【狸の掌編】
僕が勤め始めたこの駅には、時刻表が存在しない。
電車が滑り込んでくる轟音も、
出発を告げるけたたましいベルの音も、
ここにはない。
ただ、プラットフォームに吹く風の音と、
時折訪れる人々の静かな息遣いだけが、
錆びた屋根の下に満ちている。
人々は切符を持たずに改札を通り、
思い思いの場所に佇む。
目を閉じて、
何かを確かめるように深く息を吸い込む。
ある老婦人は古びたベンチの隅で、
ふわりと香る白菊の匂いに涙を浮かべた。
若い男は、線路脇に咲く名も知らぬ花の前で、
懐かしい珈琲の香りを嗅いだと言って微笑んだ。
ここはヘイコウ駅と呼ばれている。
人々が失った誰かの最後の想いが
香りとなって閉じ込められている場所なのだと、先輩は言った。
「
俺たちの仕事は、
その香りが消えないように、この駅を守ることさ。
ここは、誰もがいつか辿り着く終着駅だからな。
」
そう語る先輩の横顔は、どこか寂しげだった。
僕はこの駅が持つ不思議な力を、
一種の奇跡のように感じていた。
失われた温もりに再び触れられる場所。
なんて優しく、物悲しい奇跡だろう。
けれど、僕は少し前から気づいていた。
どんなに強い風が吹いても、
どんなに雨が降っても、
駅舎の奥から常に微かに立ち上る、
一本の細い煙の存在に。
鼻の奥をかすめるどの香りとも違う、
形容しがたい無臭の匂いに。
それは、全ての香りが燃え尽きた後に残る、
空虚な気配にも似ていた。
ある晴れた午後、
先日亡くなった隣家のお婆さんの孫娘が、
俯きながら駅を訪れた。
彼女はプラットフォームの端に立つと、
堰を切ったように泣き出した。
「
金木犀の匂いがする。
おばあちゃんの庭の匂い。
」
その姿を見つめながら、
僕はたまらない衝動に駆られた。
煙の源、
そしてこの駅の本当の姿を知らなくてはならない。
僕は、今まで立ち入ることを固く禁じられていた
改札の向こう側へと足を踏み入れた。
軋む扉の先には、もう線路は続いていない。
そこにあったのは、石畳の通路と荘厳で静かな建物。
それに、空に向かって真っ直ぐに伸びる、
一本の白い煙突だけ。
見上げた駅舎の蔦に覆われた古い看板。
その裏側に風雨に削られた小さな文字が、
かろうじて読み取れた。
僕らが守っていたのは奇跡ではない。
ただ、避けられない別れそのものだった。

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