UN-lockers|【狸の短編小説】
鳴り続ける軽薄な電子音に、
満たされていた街。
「ピロン♪ キーゾクが認証されました」
カフェの窓際で、僕は無色の水を啜る。
向かいの席に座る同僚は、
カップの女神ロゴに、レンズを向ける。
興奮で震える指先。
画面が緑に光り、待望の音が鳴る。
彼の表情が弛緩し、
深い安堵のため息が漏れた。
この儀式、キーゾクこそが、
現代社会の呼吸そのもの。
「カナタも、いい加減にしたらどうだ。
その水じゃ、一桁のRSは
びくともしないぞ」
「別に、困ってないから」
嘘だ。
僕の微弱な色覚特性は、
ロゴの色情報を正確に読み取れない。
何度試しても仕組みに弾かれる。
生まれつきのゼロポインター。
社会の歯車からこぼれ落ちた、
規格外の存在だ。
一向にキーゾクできない画面は、
冷たい光を放っている。
一件の未読通知。
中央に鎮座する黒い鍵穴が、それを阻む。
送り主は、唯一の肉親である祖母。
彼女からの便りは、これで七通目。
指で触れても揺すっても、開くことはない、
七つのゴースト・メッセージ。
このデジタル感覚障害、
人々がデジデフと呼ぶ現代病は、
僕を世界から切り離し続けていた。
RSが低いというだけで、面接は書類で落ち、
店は「RS100以上限定」の札を掲げる。
街を歩けば、新商品のアンロックを
達成した者の顔が、広告塔を飾る。
アパートの窓という窓には、
キーゾク済みの、商品の空箱を並べた
コレクション・ウォールが
誇らしげに輝いている。
彼らは、キーゾクすることで社会に所属し、
僕のようなアンロッカーズは、
存在しない者として扱われる。
まるで、幽霊のように。
***
絶望が首筋まで浸かった夜のこと。
僕は誰も使わなくなった雑居ビルに、
地下へと続く階段を見つけた。
壁に、スプレーで描かれたダミー・ロゴ。
ありもしない商品の、歪んだ鍵穴。
誘われるように降りていくと、
そこは、ひそやかな話し声に満ちた、
ノーロゴ・マーケットだった。
ロゴを削り取られた古着。
自家製のパン。ラベルのない瓶詰。
キーゾクの呪いから逃れた場所。
その中心に、彼女はいた。
「ようこそ、アンロッカーズの隠れ家へ」
ベタナと名乗る女性は、
静かな笑みを浮かべていた。
彼女は定期的に集会を開き、旧時代の文化、
とりわけ紙の本の価値を説いていた。
「本にはロゴがない。
キーゾクを強いる鍵穴もない。
ここだけが、私たちの思考が
自由でいられる最後の聖域なの」
彼女が差し出した、古い文庫本を受け取る。
サラサラとした紙の感触。
インクと古紙が混じった、鼻につく匂い。
そこには、確かに安らぎがあった。
僕はマーケットに居場所を見つけた。
だが、安らぎは長く続かない。
集会に集う人々は、
口ではアナログの価値を語りながら、
その瞳には失ったRSへの未練が浮かぶ。
「どこかの天才が、スマホの鍵穴を
開ける法則を見つけたらしいぞ」
噂話に色めき立ち、
意図的にキーゾクしない物を溜め込む。
新たな自己顕示の手段となりつつあった。
誰もが、承認の渇きから逃れられない。
ベタナの横顔に、時折よぎる疲労の色。
僕はそれを見逃さなかった。
***
仕組みは常に進化していく。
商品のロゴだけでなく、
公共の標識、公共の風景、
人々の笑顔までもが認識され、
キーゾクの対象となった。
街は狂気の度合いを深め、
ノーロゴ・マーケットにも
監視の目が光り始める。
「もう、ここも限界。
本当の聖域へ逃げましょう」
追い詰められたベタナは、仲間たちに告げた。
彼女が指し示した最後の避難所は、
街の外れに立つ、旧時代の残骸。
巨大な市立図書館だった。
埃っぽい空気と、無限に続く背表紙。
そこは、電子音も届かない理想郷。
僕は安堵のため息をつき、
書架の一画に吸い寄せられた。
幼い頃、祖母が贈ってくれた小説。
何度も読み返し、物語の隅々まで覚えている。
宝物のような一冊。
本を抜き取り、硬めの椅子に腰を下ろした。
ページをめくる指先が、懐かしさに震える。
物語の世界に没入する。
時間も、世界の狂気も、何もかもを忘れた。
感動と共に、最後の一文を読み終える。
満たされた思いで、
そっと本を閉じようとした瞬間だった。
文章の終わりを示す、小さな黒い丸。
これが、インクの染みが広がるように、
ゆっくりと、形を変えていく。
円の中心が沈み込み、
縁が鋭角的に刻まれていく。
それは、憎んでやまない、
あの冷たい鍵穴の形だった。
ペーパー・キーホール。
物理法則を無視したそれが、
物語の「終わり」そのものに寄生している。
本を落とすことも、
声を上げることもできない。
硬直しているその時、
ポケットの中で微かな振動が起きた。
図書館に来る前、ベタナがお守りとして、
手渡してくれた一枚の栞。
震える手でそれを取り出すと、
革紐のついた栞の先端が、
精巧な鍵の形に削り出されているのが見えた。
どこにも、逃げ場などなかった。
仕組みは、消費や繋がりだけでない。
記憶、物語、そして安らぎという概念すら、
すべてを飲み込んでいく。
僕は、ただ見つめている。
決して開かない鍵穴を。
ずっと、ずっと、ずっと。

どんなに探しても見当たらないのです。
事実を受け止めきれず、妄想に逃げた結果、
生まれた悲しい物語でした。
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