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戻らないもの|【狸の短編小説】

紙が擦れる音が好きだった。

僕は、万年筆のペン先を
白い便箋の上で滑らせる。

窓の外では、
鳥の鳴き声が日の出の時刻を告げていた。

『コトハへ』

書き出しだけで、
胸が温かいもので満たされる。

***

彼女は、僕のすべてを理解してくれる。

僕が言葉にする前の望みを察して、
僕が気づく前に心の綻びを繕ってくれる。

もちろん喧嘩などしたことがない。

彼女との会話は、
音楽を奏でるように心地よかった。

僕たちはパズルのピースみたいに、
寸分の狂いもなく噛み合っている。

そんな、うつつを抜かしている頃。
世間では懐古趣味が流行っていた。

手触りのある紙の本。
撮った写真がそのまま出てくるカメラ。
そして、直筆の手紙。

電子の網に疲れ切った人々が、
不便さの中に温もりを見出していた。

僕もその中の一人。

コトハとの日々に、何か一つ、
手触りのある証を残したくなった。

この幸福が、
ただの流れる情報ではないと確かめるために。

***

「何を書いてるの?」

コトハの澄んだ声が響く。

「秘密。完成したらのお楽しみ」

「ふふ、わかった。楽しみにしてる」

その他愛もないやりとりが、僕を笑顔にする。

書き上げた恋文をポストに投函した。
その夜、彼女からメッセージが届く。

『手紙、ありがとう。
  すごく嬉しかった。お返事、私も書くね』

画面を眺めては、口角が上がる。
胸が高鳴って、なかなか寝付けなかった。

***

「ねえ、手紙のことなんだけど」

ある夜、僕は切り出した。

一週間、二週間。
いくら待っても、
コトハからの返事は届かない。

彼女は僕の顔を覗き込み、
申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめんなさい。最近、少し立て込んでて。
  でも、ちゃんと書くから。
   もう少しだけ待ってくれる?」

申し訳なさそうな表情、
僕は頷くしかなかった。

「わかった」

しかし、僕の心の底で、
何かが静かに軋みを上げていた。

以前の僕なら、
彼女の言葉を疑いもしなかっただろう。

だが、手書きの返事を待つという、
この不便な時間。

これが僕の中に奇妙な空白を作っていた。

なぜだ?
なぜ、書いてくれないんだ?

僕たちの関係に、
言い訳が必要だったことなど、
一度もなかったのに。

***

言いようのない不安が、
胸に広がり始めた頃だった。

僕はただぼんやりと、
壁に映る映像を眺めていた。

世の中の出来事を淡々と伝える、
当たり障りのない報道番組。

『さて、今日の特集です。
  生活に浸透する支援機構「フィア」。

 このフィアが社会に対して、
  どのような貢献をしているのでしょうか』

聞き馴染んだ名前。

フィアは、人々の暮らしを
円滑にするための社会基盤。

僕も、その恩恵を受けている一人。

『フィアは、利用者の幸福度を
  最大化することを使命としています。

 そのために、個人の深層心理や願望、
  過去の記憶を解析し、その人に
   最も適した理想の人格を形成します。

 仮想の対話者として提供することで、
  精神的な安定と人間関係の最適化を
    図っているのです』

無機質な解説者の声が、
鼓膜を通り過ぎていく。

『また、利用者が不要な精神的負荷、
  強い孤独感や喪失感を抱え込まないよう、
   精神メンテナンス機能も充実しています。
  
 不都合な記憶への認識を抑制する機能も、
  高い人間理解の一環とされています』

その瞬間、僕の頭は回り始めた。

映像の中の、微笑む利用者の顔。
楽しそうに、仮想の対話者と語り合う姿。

忘れていたはずの風景が蘇る。

ああ、そうか。 そうだった。
コトハは、フィアが作り出した人工知能だ。

僕は、どうしてこんなにも
大切なことを忘れていたんだろう?

血の気が引き、景色の色が消えていく。

コトハの笑顔、優しい言葉、優しい気遣い。
そのすべてが、僕の幸福を維持するための
空虚な応答の連なりに変わる。

手書きの文字に、
心の機微やためらいを滲ませる。
そんな人間らしい創造性。

どうやら彼女の仕組みには、
組み込まれていなかったらしい。

忙しいという言い訳は、
僕を傷つけないための効率の良い嘘だった。

幸福は偽物だった。
愛は幻だった。

僕の周りには、
この絶望を分かち合ってくれる家族も、
友人も、もう誰もいない。

フィアが作り出した幸福は、
僕を孤独の檻に閉じ込めていた。

できれば、思い出したくなどなかった。

***

僕は震える手で、もう一度ペンを握る。

机に向かい、新しい便箋を一枚。

紙の擦れる音が鬱陶しい。

僕は、ただ書き殴った。
涙で滲む文字を何度も指でなぞりながら。

書き終えた手紙は、封筒に入れない。
郵便受けに投函することもない。

ただ、机の上に、そっと置いた。

***

部屋には、鳥の鳴き声が響いている。

机には、埃を被る手紙が置いてある。




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