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求めるもの|【狸の短編小説】

「やあ、みんな!
 元気の源は、バランスの取れた食事だよ!

 『赤のパワー、
    黄色のエネルギー、
         緑のビタミン』 
 
  しっかり摂って、元気になろう!」

ふっくらしたご飯と
茶色の焦げ目がついた焼き魚。
彩り豊かな野菜と湯気が立ち上る味噌汁。

「お水や、温かいお茶で、
   体の中からリフレッシュしよう!」

澄んだコップに注がれた透明な水が輝きを放つ。

***

「はぁ...」

僕は満足げにペンを置き、画面から目を離す。
しかし、その視線の先にあるのは真逆の現実。

山と積まれたエナジードリンクの空き缶。
食べかけのカップ麺の残骸。
ぐしゃぐしゃになった菓子パンの袋。

視線をモニターに戻す。

そこ映るのは目の下を占領するクマ。
水分を失った肌と肉を失った頬。

げんきくんの言葉が、
モニターの向こう側から、
皮肉めいたエコーを響かせていた。

締め切りは、あと三日。

僕は空き缶の山の中から、
真新しいエナジードリンクを手に取った。

シュッ。

ゴクリ。

一気に半分ほどを飲み干す。
喉の奥でカフェインが痺れるような感覚。

これだ。
これがあるから、僕は描ける。
そう、信じている。

尊敬する先輩漫画家たちは皆、
徹夜続きで目を血走らせ、
それでも最高の作品を生み出してきた。

彼らが口々に言っていた。

「いいものを作るには、自分を削るんだ。」

その言葉は、
いつしか創作における真実となっている。

読者の期待に応えるには、この痛みに耐え、
この疲労を受け入れるしかない。
そう深く、深く思い込んでいた。

これは、クリエイターとしての宿命なのだと、
心のどこかで言い聞かせて。

***

締め切りが近づくにつれ、作業は苛烈を極める。

腰の奥で、ビリッとした痛みが走る。
立ち上がろうとするたび、
関節が軋むような音がする。

「元気な体は、毎日の少しずつの運動から!」

げんきくんはそう叫ぶ。

僕の身体は石のように凝り固まり、
背中も猫背のまま伸び切っているというのに。

必死にモニターへ喰らいつく。

しかし、目の奥は文字を見ることを拒絶する。
視界は薄い膜が張ったようにぼやけた。

まぶたが重く、
誤魔化すようにエナジードリンクを流し込む。

ただ、カフェインによる手の震えが、
ペンを持つ指先に
じんわりと伝わってくるだけ。

集中しようとすればするほど、
指先が微かに震える。

モニターに映る線が、
意志に反してわずかに波打つ。

描きたい線と、実際に描かれる線の間に、
埋めようのないギャップが生まれる。

思考は泥沼に沈んだように重い。

「栄養がしっかり摂れてると、
    集中力もグンとアップして、
          頭も冴えるんだ!」

げんきくんの満点の笑みが僕を嘲笑している。

食事は、もはや義務と化す。

時間がないからと、
同じコンビニ弁当を温めては、
味も確認せず胃に流し込む。

舌がざらつき、肌はくすんだ。

僕は健康を創造すると同時に、
着実に不健康をつくり出していた。

ここで止まることはできない。
もっとより良いものを作るまでは。

純粋な情熱が、僕を突き動かし続ける。

読者の笑顔を想像すれば、
この痛みも、疲労も、
すべて意味があるのだと信じているから。

***

なんとか締め切りに間に合わせ、
安堵のため息を一つ。

ペンを置くと、全身の力が抜ける。

キーボードに突っ伏し、
そのまま意識を手放した。
一時的な解放感と、それに続く深い虚脱感。

数時間後、鈍い頭痛で目覚め、
僕はスマートフォンを手に取った。

SNSには、
読者からの温かいメッセージが溢れている。

「先生の漫画のおかげで、
    野菜が大好きになりました!」

「毎日、バランスを考えて
    ご飯を作るのが楽しいです!」

「体が軽くなって、
    毎日がもっと楽しいです!」

次々とスクロールしていくと、
手紙の画像が添付されている投稿に目がいく。

「先生の漫画を読んで、
    うちの子も食卓で野菜を
        残さなくなりました。
 
 今では、お手伝いもしてくれるんです」

感謝の言葉とともに、
カラフルな野菜がたっぷりと入った
手作り弁当の写真が添えられていた。

別の投稿には、家族が笑顔で囲む、
彩り豊かな食卓の写真もある。

満たされた表情が容易に想像できる。

彼らが、僕の漫画を通して、
健康的で前向きな生き方を見つけてくれた。

この事実は、クリエイターとして何よりの喜び。
嬉々として感じながら、
ふと、手元の机に目を落とす。

読者のポジティブな変化と健康的な食卓。
そして、目の前にある疲弊し切った現実。

言いようのない空虚感が、
胸の奥からこみ上げてきた。

凍てつく氷塊が胸の中心で膨らむように。
全身から血の気が引いていくような感覚。

げんきくんは、いつもの笑顔で
「みんな、元気?」と問いかける。

その問いが、鋭利な刃物のように心を抉った。

自分が元気ではないのに、
誰に元気を与えられるというのか?

新たな価値をつくり出し、
彼らの生活を豊かにしている。

なのに、なぜ自分自身は
こんなにも満たされないのだろう?

なぜ、僕の身体はこんなにも
悲鳴を上げているのだろう?

これまで感じたことのないほど熱い、
燃えるような衝動が湧き上がる。

「このままでは、終われない」

いつか、本当に
漫画が描けなくなるのではないか。

漠然とした不安が、明確な危機感へと変わる。
それは悲壮感ではない、前向きで切実な衝動。

長く、最高の作品を描き続けるために、
この悪循環を断ち切らなければならない。

僕のつくるべきものは、作品だけではない。
僕自身の身体であり、僕自身の未来だ。

***

まず、目の前の光景を
つくり変えることから始める。

散乱するエナジードリンクの空き缶の山を、
一つ、また一つと手に取り、
ゴミ袋に入れていく。

カシャン、カシャンと缶が袋の底に落ちる音。

空になった机の表面を固く絞った布で拭いた。
染み付いていたカフェインの匂いが、
少しずつ薄れていく。

買い置きのカフェイン詰め合わせには
手を出さず、電気ケトルでお湯を沸かす。

湯気が立ち上るカップに、
ハーブティーのティーバッグ。

澄んだ水が、徐々に琥珀色に染まっていく。

一口飲む。

そこにカフェインのような刺激はない。

ただ、口の中に広がるのは、
ハーブの優しい香りと、
身体に染み渡るような温かさ。

カフェインで無理やり
叩き起こされるのとは訳が違う。

内側から細胞の一つ一つを
丁寧に解きほぐしていくような感覚。

張り詰めていた心がゆるみ、
漠然とした不安の膜が、
薄く、しかし確実に剥がれ落ちていく。

長らく閉ざされていた窓が、
ゆっくりと開かれていくような、
静かで、確かな安堵。

カップを両手で包み込む。

温かさが指先からじんわりと掌全体に広がり、
冷え切っていた身体の芯に届くようだ。

目を閉じれば、
ハーブの香りが草原の風のように
心の中を吹き抜ける。

凝り固まっていた思考が、ゆっくりと動き出す。

小さな一歩。

あまりに小さい。
しかし、かつてないほど確かな未来への足音。

片付いたデスクで、僕は再びペンを握る。
机の上に、いつものカフェインはない。

僕のつくる旅は、まだ始まったばかりだ。



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