剥がれ落ちた泥|【狸の短編小説】
背中には、誰も見えない泥が、
常に僕を覆っていた。
十年前、高校の廊下で
友人の浩介を突き落としかけたあの日。
僕は悪びれもせず
「知らない誰か」のせいにして逃げたあの日。
まとわりつくような黒い塊が体に生じ、
以来、嘘をつくたびに粘り気を増して、
僕を締め付けている。
浩介は足を挫き、
大切な試合に出られなくなった。
それがきっかけかは分からない。
ただ、彼は部活を辞めた。
学校を休みがちになり、成績も落ちた。
僕は知らんぷりを決め込んだ。
肥大した泥は肺の奥にまで絡みつき、
呼吸すらも浅くなる。
他人の目には見えないが、僕は猫背になり、
足を引きずる奇妙な男と化していた。
どんな行動も億劫で、
まともに人と目を合わせることもできない。
***
ある日、皿洗いをしていると、
浩介が扉を開けて入ってきた。
彼を見た瞬間、
背中の泥がぞっとするほど、ねばつく。
彼は注文カウンターで、
伏せ目がちに水を頼む。
その顔には当時の活発な面影も、
空っぽの目に映る生気もなかった。
まるで自分から逃げ出すしているように。
翌日から、僕は浩介と共に働くことになった。
傍にいる浩介の姿を見るたび、
泥は嫌悪感を伴って粘着性を増し、
過去の痛みが甦る。
なぜ彼はこんなにもうつろなのだろう。
それは僕のせい。
***
誰もいないバックヤードで、
浩介が独り言のようにつぶやいた。
「もし、あの時、俺があんなに弱くなければ。
バスケさえ続けられていれば」
悔恨に塗れたその声を聞いた瞬間、
泥は体組織に侵食するほど深くねばついた。
その時気づいた。
僕の泥は、僕自身の罪悪だけでなく、
僕の裏切りが堆積させた絶望までをも
吸収し続けていたのだと。
僕が元凶ならば、
この泥は永遠に洗い流されず、
彼もまた重い影を引きずるだろう。
僕の泥は、彼の諦念の色まで含み込み、
僕をより深い場所へと沈めていく。
「浩介っ!」
人気のない店の隅に彼を呼び出す。
凍りつくような沈黙の中、
震える声を絞り出し、
真っ直ぐ彼の瞳を見つめた。
あの頃の彼が、
ひどく疲れた目で世界を見ていたことに、
心から痛みを覚えた。
「ご、ごめん。あの時のこと…!」
一度口に出せば、
呼吸を忘れそうになるほど言葉が溢れた。
全てを吐き出す僕の告白に、彼は困惑する。
「なんでそんなこと、
お前が一人で抱え込んでたんだよ」
「お前はただ、あそこに突っ立ってただけ。
俺は、足は挫いたけど、
それでバスケを辞めたわけじゃないから」
彼の言葉を聞き終えた瞬間。
ブシャァアアア!
轟音と共に、まとわりついていた巨大な泥が、
一瞬で乾き切り、粉々になって剥がれ落ちる。
重く、粘ついた膜が剥がれた背中には、
何トンもの重りが下りたかのような解放感。
体が内側から洗い清められたかのような
軽さが全身を駆け巡った。
そのあまりの軽さに、
地面に倒れ込むように泣いた。
胸の奥の黒い塊が消え失せる。
深々と息を吸い込むと、
体中の細胞が喜びに震える。
「ばか…」
彼はそう呟いた。
***
再び、共にカフェのキッチンに立つ。
僕の背中には、粘つく泥はもう無い。
軽やかな体と心で、
時折、浩介の横顔に目をやる。
彼の表情も、どこかよく見える。
この剥き出しの軽やかさこそ、
本当の僕の姿なのだろう。
新しい一歩を、ようやく踏み出せる。
***
それ以来、浩介と会うことはなかった。

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