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嫌な収集癖|【狸の短編小説】

誰もが内に、見えない器を一つずつ持っている。

男は、アスファルトの染みを見つめていた。
雨上がりの歩道で、
バスを待つ人々の足元から立ち上る微かな湯気。

その中に、彼は澱を見る。

人々の心から零れ落ちた、ため息の澱。
後悔の澱。
やり場のない苛立ちの澱。

それらはヘドロのように淀み、
街の空気を重くしている。

彼の器は、生まれつき大きかった。
大きすぎた。

だから、見えてしまう。
感じてしまう。
吸い寄せてしまう。


公園のベンチでうずくまる学生の肩に、
濃灰色の澱がまとわりついている。

おそらくは、拭いきれない失敗の澱だ。
彼の隣にそっと腰を下ろす。

何も言わない。
ただ、息を吸う。

すると、学生の澱が、するすると糸を引くように
彼の中へ流れ込んでくる。

ひんやりとした重みが、胸の内に沈む。
学生は、ふっと顔を上げた。

何かが軽くなったような、
不思議そうな表情で立ち上がり、去っていく。


彼の器は、もう七割がたまっていた。

澱が溜まるほど、自身の感情は鈍磨していく。
かつて好きだった映画を見ても、心は震えない。
熱い珈琲を飲んでも、安らぎを覚えない。

ただ、澱を受け入れた瞬間の、
一瞬の充足感だけが彼を動かしていた。

誰かの重荷を肩代わりすること。
それだけが、
自分がこの世界と繋がっている唯一の証だった。

これは救済なのか、
それとも、ただの収集癖なのか。
答えは出ない。


ある日、彼はアパートの階段で、
一人の女性とすれ違った。

彼女の周りには、
他とは比較にならないほど黒く、
重い澱が渦巻いている。

それは他人のものではない。
彼女自身の内から、
絶え間なく湧き出している。

触れれば、こちらの器が
一息に満たされてしまうほどの濃密な澱。

彼は彼女に惹かれた。
この人を空っぽにしてあげられたなら。
この重すぎる澱から解放できたなら。

その時こそ、自分は本当の意味で
誰かの役に立てるのではないか。

彼の虚ろな心に、
久しぶりに熱のようなものが灯る。

彼は彼女に会う口実を作っては、
少しずつ彼女の澱を引き受け続けた。

彼女が語る過去の断片。
失った家族の話。
癒えない傷。

その言葉の一つ一つが澱となり、
彼の器に沈んでいく。

彼女は少しずつ微笑むようになった。
冗談を言うようにもなった。
その変化が、彼にとっては何よりの報酬だった。

だが、彼の限界は近かった。
視界の端が時折、滲むように歪む。

沸き立つはずの喜びも、
胸を締め付けるはずの哀しみも、
全てが遠い岸辺の出来事のように感じられる。

「ねえ」

ある晩、彼女が彼の顔をじっと見て言った。

「あなた、最近、笑わなくなったね」

その言葉は澱のない、透明な響きを持っていた。

「私のせいでしょう。
 あなたが、私の何かを、
 代わりに背負ってくれているんじゃないの」

彼は答えられなかった。
肯定も否定も、澱の底に沈んで言葉にならなかった。


その夜、彼女の澱が溢れた。
過去の出来事が引き金となり、
彼女は自分の部屋で膝を抱えていた。

ドア越しに伝わる絶望の澱は、
生き物のようにうごめき、
彼を飲み込もうとしていた。

これを全て受け入れてしまえば、彼女は救われる。
だが、自分の器は砕け散るだろう。

感情も、思考も、何もかもを失った、
ただの容れ物になる。

それでも、彼は覚悟を決めた。
それが、彼女と出会った意味なのだと。

虚ろな自分が最後にできる、唯一のことなのだと。
彼はドアノブに手をかけ、残った全ての力で、
彼女の絶望を吸い寄せようとした。

黒い濁流が、彼に向かって押し寄せる。
意識が遠のきかけた、その瞬間。

「だめ!」

彼女が内側からドアを開け、
彼の腕を強く掴んだ。
その瞳には涙が溢れている。

「行かないで。あなたのものを、今度は私に預けて」

彼女はそう言うと、震える手で彼の胸に触れた。
彼の器から、澱が逆流する。

彼女の器は小さい。
彼女にとって、それは身を切るような重荷になる。

彼女の顔が苦痛に歪む。
それでも、彼女は彼の腕を離さなかった。

「一人で全部、背負わないでよ」

その瞬間、彼の内で何かが弾けた。
彼女の行為が、痛みを伴う慈しみが、
触媒となった。

彼女から流れ込んできた温かい何かが、
彼の器の底に溜まっていた澱を、
ほんの少しだけ溶かしていく。

初めてだった。
澱で満たされたこの器に、
他人のものが流れ込んできたのは。

一方的に与えるばかりだったこの関係に、
細く、頼りない、けれど確かな流れが生まれたのは。

彼の目から、熱い雫がこぼれ落ちる。

何年も感じたことのなかった、
しょっぱい灼熱。

澱で固まっていた彼の内側で、
感情が、悲鳴じみた産声をあげた。

孤独だった。ずっと、ずっと孤独だった。

彼は、子供のように声を上げて泣いた。
彼女は、彼の澱の重みに耐えながら、
ただ黙って彼の背中をさすっていた。

二人の器が完全に浄化されることはないだろう。
彼の器にはまだ多くの澱が残り、
彼女もまた、彼の痛みの一部を背負ってしまった。

救済など、どこにもない。
だが、二人はもう空っぽではない。

アスファルトの染みを見つめる隣には、
同じように重さを抱えた者が立っている。

互いの不完全さを見つめ、
互いの器の重さを案じながら、
寄り添って歩いていく。

澱の底で灯った小さな光は、
痛みを分かち合う覚悟の中にこそ宿るのだと、
そう静かに告げていた。



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