星は脇の下で輝く|【狸の掌編】
深い瑠璃色のカップを、
スマホの画面を見ながらミリ単位で動かす。
冷めきったカフェラテの白い泡に、
繊細な模様を描き出す。
最後には、決まって三つの点を加えてしまう。
その意味を考えたことはない。
ただ、そうしないと何かが足りない気がして、
落ち着かなかった。
窓から差し込む西日が、
ラテアートを照らす一瞬を切り取る。
アプリを立ち上げ、彩度を上げ、
背景の余計な客を消す。
指先ひとつで、
私の日常は「丁寧な暮らし」に変わる。
『#休日の午後 #自分へのご褒美』
キャプションを付けて投稿すると、
赤いハートが画面に灯る。
けれど、心は少しも温まらない。
目の前には一口もつけていない、
ぬるいラテが残るだけ。
完璧な一枚のために失われた、本当の時間。
いいねの数が増えるたび、空虚なため息がこぼれる。
ふと、ささやくような静寂が恋しくなった。
***
市立科学館の三階。
少しだけカビ臭い、
深い青色のリクライニングシート。
午後二時の回は、
いつも私と祖父だけの貸し切りに近かった。
「くるぞ」
祖父の耕助が、悪戯っぽく笑う。
その合図で、ドーム型の天井の光が、
ゆっくりと消えていく。
完全な闇。
隣に座る祖父の気配だけが、
確かな重みを持ってそこにある。
息を詰めて待つ、ほんの数秒。
頭上に降り注ぐ無数の星屑。
「はあ、、、」
隣から聞こえる深い息遣い。
それにつられて私も息を吐く。
学芸員の穏やかな声が、星座の物語を紡ぎ始めた。
その日、冬の星座の解説を聞きながら、
私は少し得意げに、祖父にささやいた。
「
うち、オリオン座ならすぐ見つけられるよ。
だって、カッコいい狩人なんでしょう?
」
学校の授業で習ったばかりの知識。
無敵の狩人オリオン。
その完璧な響きに、幼い私は強く憧れていた。
「ほう、そうか」
祖父は穏やかに頷くと、
しおれた指で空の一点をなぞる。
「
じゃあ、あの左で赤く光っとる
星の名前は知っとるか?
」
「えっと、、、」
「
ベテルギウス。アラビア語でな、
『巨人の脇の下』って意味なんよ
」
「脇の下?」
想像していた勇ましいイメージとのギャップに、
思わず声が漏れた。
祖父はくつくつと喉を鳴らして笑う。
「
そう。あの偉大な狩人も、
神話の中では自分の強さを鼻にかけて、
傲慢になってしまったんよ。
それで、怒った女神が遣わした
サソリに刺されて死んでしまうんよ
」
祖父は、私に語りかけるように続ける。
「
これはまあ、わしの勝手な考えだけどね。
オリオンを本当に殺したのは、
外から来たサソリじゃない。
たぶん、『自分は完璧だ』と思い上がった、
あいつ自身の傲慢さという
毒だったんじゃないかってな。
だから空の上でもサソリから逃げるように、
オリオン座が昇るときはサソリは沈んどる。
面白いだろう?
完璧に見えるもんにもなあ、必ず物語と、
ちょっと情けないような弱点がある。
そういうもんよ
」
さらに、祖父は私の心を見透かすように言った。
「
それに、あのベテルギウスはな、
もうじき寿命の星なんよ。
わしらが今見とるのは、
何百年も前にあの星が必死で放った光。
カメラで撮って閉じ込めた光は、
いつまでも綺麗かもしれんけど、
この星の光は違う。
何百年もかけて、
わしらの目に届くためだけに旅をしてきた光よ。
完璧に止まった時間より、
不器用に流れる時間の方が、
わしは愛おしいと思う。
人も星も、ちょっと足りんくらいが愛おしいもんよ
」
不完全な物語。いつか終わる輝き。
完璧だと信じていた狩人には滑稽な名前の星がある。
傲慢さという弱点がある。
強く輝く星も、永遠ではない。
その事実が、なぜだか私の心を強く揺さぶった。
無敵であることよりも、
ずっと人間らしくて、愛おしいと思えた。
その日の夜、私は子ども部屋の窓から、
祖父に教わった砂時計を探した。
街の明かりの中でも、
あの三つの星だけは、はっきりと見える。
プラネタリウムの特別な闇を、
部屋に持ち帰れたようで、
胸が温かくなったのを覚えている。
***
スマートフォンの電源を落とす。
ベランダに出て、冷たい手すりに両手をついた。
街の明かりで、星は数えるほどしか見えない。
それでも、目を凝らす。
あの不格好な砂時計の形を探す。
冬の澄んだ夜空に強く、
しかしどこか寂しげに浮かぶオリオンの姿。
その中心には、行儀よく三つの星が並んでいる。
その右肩で、ベテルギウスが静かに赤く瞬いていた。
スマホの画面で見た、あの冷たい赤色とは違う。
疲れた狩人がついた、
温かい血の通った溜息のような光。
強く、美しく、一点の曇りもない英雄。
でも、本当に美しいのは、
不完全な物語をその身に刻みながら、
それでも夜空に輝こうとするその姿。
もう、誰かの「いいね」の数で
自分の価値を測るのはやめよう。
あの日の祖父の言葉が、
何百年も前の光のように、今私の胸に届く。
「
人も星も、
ちょっと足りんくらいが愛おしいもんよ
」
空のベテルギウスが、優しい光で私を照らしていた。
その温かい光は、冷えた心に染み渡る。
私の場所は、あのプラネタリウムの闇の中にある。
祖父がくれた、不完全さを愛おしむ心の中にある。
完璧じゃない自分を許し、
受け入れられる、心のわが家。
部屋に戻り、もう一度ケトルでお湯を沸かす。
今度は、誰に見せるためでもない。
自分のための一杯を淹れる。
温かいミルクの白い泡。
スプーンの先で、その表面にそっと触れる。
もう、完璧な円を描こうとは思わない。
ただ、夜空で見つけたあの星々のように、
三つの点を、慈しむようにそっと置く。
湯気の立つカップを両手で包み込む。
ぬるいラテとは違う、
確かな温もりが指先から伝わってきた。

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