献痛の果て|【狸の掌編】
彼女の痛みが僕の指先に流れ込んでくる。
ひび割れたガラスを握りしめるような鋭さ。
底なしの沼に沈むような鈍さ。
それらが混じり合った不快な熱。
僕は歯を食いしばり、
そのすべてを自分の内側へと引きずり込む。
『献痛』。
愛する者の苦しみを肩代わりする、
この世界で最も崇高な儀式。
「……燈也(とうや)さん」
僕の腕の中で妻の千影(ちかげ)が微かに息をつく。強張っていた彼女の体がゆっくりと弛緩していく。
血の気の失せていた頬に、ほんのりと赤みが戻る。
その穏やかな寝顔を見ることだけが、
僕の救いだった。
千影の病は、
原因不明の激痛が全身を襲う残酷なものだった。
医者は匙を投げ、
日に日にその輪郭は影のように薄くなっていく。
増えていくのは気休めの薬ばかり。
呻き声しか発せなくなった彼女を
見ていることは耐えられなかった。
だから僕は、献痛を選んだ。
最初はほんの少しの痛みだった。
だが、千影の病が進行するにつれ、
僕が引き受けるべき苦痛の総量も増えていった。
週に一度だった献痛は、
今では一日に何度も行わなければ、
彼女は叫び声を上げる。
僕の身体はとっくに限界だった。
引き受けた痛みは消えることなく、
古い傷跡のように僕の中に蓄積されていく。
世界は色褪せ、味も匂いも
薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるようだった。
「もう、やめて」
ある日、献痛を終えた僕に千影は掠れた声で言った。
「
何を言うんだ。
君が楽になるなら、僕はなんだってする
」
「違うの。あなたが、、、」
「大丈夫。僕は平気だよ」
僕は彼女の言葉を遮り、無理に微笑んでみせた。
彼女は痛みのせいで弱気になっているだけだ。
僕がしっかりしなければ。
僕の善意だけが、
彼女をこの地獄から救い出せる唯一の光なのだから。
千影はそれ以来、何かを諦めたように、
僕の献痛をただ静かに受け入れるようになった。
それでいい。言葉はいらない。
僕がすべてを引き受ける。
そして、その夜は来た。
千影の呼吸がかつてないほど浅く、速くなる。
引き攣るような呻き声が、部屋の空気を震わせる。
僕は覚悟を決めた。
僕のすべてを懸けて、
彼女から一切の苦痛を抜き去る。
僕は彼女の冷たい手を握りしめ、意識を集中させた。
これまでとは比較にならない、
膨大で凶暴な痛みの濁流が、
僕の精神を根こそぎ洗い流していく。
最後の蝋燭が燃え尽きるように、
視界が白く点滅し、
僕の存在そのものが悲鳴を上げた。
――やがて、嵐が過ぎ去った。
僕の身体は、もう何も感じなかった。
空っぽの器。
安堵のため息をつき、
僕は腕の中の千影に視線を落とす。
彼女は眠るように穏やかな顔をしていた。
苦しみから解放された、安らかな顔。
ただ、その胸はもう上下していない。
枕元に、一枚のメモが落ちていた。
震える力の入らない筆跡で、こう書かれていた。
『
ありがとう。
でも、もうやめて。
あなたの痛みが、わたしの痛みだった
』
僕は、その文字の意味を理解できなかった。
ただ、僕が引き受けたはずの痛みが、
胸の奥でいつまでも、いつまでも
消えないことだけを感じていた。

初めての長編に挑戦しました。⬇️
他の作品もどうぞ⬇️
🔻 「今日は、君の好きな金木犀を見に行こうか。きっと綺麗に咲いている」
たとえその姿が見えなくても、語りかける言葉は変わらない。大切な人を想い続ける男性の深い愛情と、それを見守るカフェの優しい視線が胸を打つ。愛と記憶が織りなす、穏やかで美しいひとときを描いた掌編。
🔻 あくびがうつると、その相手が抱く片想いの情動まで、ウイルスのように感染してしまう呪われた感受性。
憧れの先輩のあくびがうつったとき、僕のありふれた日常は終わりを告げました。あくびから始まる、奇妙で切ない恋の伝染。あなたの想像を裏切る、新感覚の青春奇譚がここにあります。
🔻 宛名には、告白した彼の名ではない、別の男の名を打ち込む。
告白を成功させたはずなのに、請求書の宛名はなぜか別人。人の心を操る彼の仕事の本当の目的とは何か。恋愛劇の裏で蠢く、冷徹なビジネスの正体に迫るショートストーリー。
もう見逃さない。全編を一気読みできます。⬇️

