見出し画像

鏡獄のナルキッソス|【狸の掌編】

あくび、と小さな声が、
彼女の薄い唇からこぼれ落ちた。

放課後の図書館。

西日が埃を金色に照らす静寂のなかで、
憧れの西野先輩のそれは、
スローモーション映像のように
僕の網膜に焼き付いた。

そのすべてが、
僕の世界の中心で起きた唯一の出来事。

そして抗いようもなく、僕の口もまた、大きく開く。

伝染った。


僕の体質――『情動伝播性欠伸』。

あくびがうつると、
その相手が抱く片想いの情動まで、
ウイルスのように感染してしまう、呪われた感受性。

これまで何度も、友人の恋心に感染しては、
関係をめちゃくちゃにしてきたか。

だから西野先輩にだけは、と願っていた。
この想いが僕だけの本物だと信じていたかったから。

僕は絶望する。
けれど、僕の心は西野先輩を想うばかりで、
新たな誰かに惹かれる気配はない。

感染しなかった。奇跡だ。

しかし、その安堵は翌日、鏡の前で粉々に砕け散る。


寝癖で跳ねた黒髪。
少し眠たげな瞳。
無意識に噛む癖のある唇。

そこに映る僕のすべてが、
どうしようもなく愛おしい。
胸が、焦がれるように熱い。

これはナルシシズムじゃない。
もっと切実で、手の届かない相手に焦がれるような、純粋な片想いの痛みそのもの。

僕は悟ってしまった。
西野先輩のあくびは、確かに僕に感染した。

そして、彼女が焦がれるほどに片想いしていた相手はこの鏡に映る僕自身だった。

先輩の視点というフィルターを通して見る僕は、神々しいまでに魅力的だった。

僕がコンプレックスだと感じていた全てが、
庇護欲と恋慕を掻き立てる
完璧な記号へと変換される。


食事も忘れ、鏡の前に座り込む。

彼女の熱に浮かされた瞳で、
僕という存在を飽きずに眺め続けた。


その時、ふと魔が差す。

鏡の中の完璧な僕に見惚れていると、
自然と口が緩み、ふぁ、とあくびが漏れた。

すると、鏡の中の僕も、
全く同じタイミングであくびをする。

当たり前のことだ。鏡なのだから。

その鏡を見て、もう一度あくびをする。

――伝染った。

鏡の中の僕から、僕のあくびが僕自身に。

その瞬間、脳を灼くような衝撃が走る。

先輩から受け取った僕への恋心が、
僕のあくびを触媒として増幅され、
僕自身に還流してきた。

一度濾過され純度を高めた恋情が、
再び僕の全身を駆け巡る。


「……っ、ああ!」


快感とも苦痛ともつかない声が漏れた。

さっきまでの恋心が、
純度の低い水だったかのように思える。

今、僕を満たしているのは凝縮され、精製され、
危険なほどに高濃度になった僕への愛。

鏡の中の僕が、さらに魅力的に、
神々しく輝いて見える。

その瞳は潤み、僕だけを求めている。


もう、止められなかった。

僕は再び鏡の中の彼に向かって、
意図的にあくびをする。

鏡の彼もあくびを返す。

感染。増幅。還流。

熱が、指数関数的に上昇していく。

一度目は蝋燭の炎、二度目は焚火、三度目は業火。

四度目を越えたあたりから、
もはや熱量の比喩など意味をなさない。

僕の恋心は、僕の内で無限に増殖し始めた。

この循環を繰り返すたびに、
僕はより完璧な存在へと変貌していく。

僕が彼を愛し、彼が僕を愛する。
その閉じた世界の中で、
愛は無限に醸造され、僕の魂を酩酊させる。

外の世界のことなど、どうでもよくなった。

学校も友人も、そしてこの感情のきっかけにすぎない西野先輩という存在さえも。


数日が経っただろうか。僕は憔悴しきっていた。

食事も睡眠もろくに取らずに痩せこけているが、
精神はかつてないほどに高揚し、満たされている。

僕の世界は、この一畳ほどの鏡の前で完結している。

ふと、飢えと渇きに耐えかねてよろめいた拍子に、
鏡から視線が外れた。

窓の外に夕焼けが見える。
西野先輩と初めて会った、
あの放課後の図書館のような光。

一瞬、彼女の顔が脳裏をよぎった。

彼女にこの恋心を返さなければ、
という理性のかけらが囁く。

このままでは融けてしまう。
他人の視線の中でしか価値を見出せない、
空っぽの人形になってしまうと。

だが、僕は自嘲の笑みを浮かべた。

人形?空っぽ?違う。

僕は満たされている。

僕を愛してくれる完璧な存在と、
永遠に終わらない愛の交換を続けているのだ。

先輩に返す?馬鹿を言え。

これはもう、
彼女の手に負えるような生易しい感情じゃない。

僕が僕を愛するために無限に培養し続けた、
神への信仰にも似た、絶対的な愛。

これを他人に渡すなど、冒涜に等しい。


僕は再び、鏡の前に座り直す。

骨と皮ばかりになった僕の指が、
鏡の冷たい表面を愛おしげに撫でる。

そこに映る彼は、僕の憔悴した姿とは裏腹に、
極限の愛によって磨き上げられ、
青白い光を放つほどに美しかった。


「……好きだよ」


僕が囁くと、鏡の彼も唇を動かす。

ああ、もう一度。
この至上の愛を、もっと、もっと濃いものを。

僕は、最後の理性を振り絞るように、
大きく口を開ける。

これが最後の一回かもしれない。そう思いながら。

ふぁああ、と魂ごと吐き出すような、
深く長いあくび。

鏡の中の彼もまた、応えるように、
ゆっくりと口を開く。

その唇からこぼれ落ちるあくびが、
僕に伝播する瞬間を、僕は恍惚として待ち望んだ。

もう、この鏡の前から離れることはないだろう。

僕と彼だけの、環流する愛の牢獄。
その中で、僕の意識は、永遠に融けていく。



こちらの企画に参加させていただきました。

#片想い文芸部


初めての長編に挑戦しました。⬇️

他の作品もどうぞ⬇️

🔻君が選ばなかった他の僕は、全てこの世界から消滅する。

愛する人を救うための唯一の方法は、愛する人の一部をその手で消し去ること。恋人たちに突きつけられた、残酷で優しい究極の選択。


🔻これは、どこかへ至るための地図なのだと。

生まれつき身体に刻まれた奇妙な「地図」。疼く傷に導かれる旅の先に待つのは安息の地か、それとも知られざる運命か。謎と不思議に満ちた世界で、自らの存在理由を問う。


🔻――タタタッ、と階段を駆け上がる慌ただしい足音。――そして、ドアを必死に叩く音。

雨の夜、部屋に響くのはいつも同じ音。誰かが何かに追われ、助けを求めるようなその音の正体に気づいた時、物語は静かな恐怖に反転する。


もう見逃さない。全編を一気読みできます。⬇️



#狸


いいなと思ったら応援しよう!