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赦しは無音の中に|【狸の短編小説】

兄さんが死んで半年が経った。

大学で音響物理学と、
奇妙な伝承を研究していた兄さんの部屋。
そこで僕の時間は止まったまま。

机の上には、世界で唯一の遺品が鎮座している。
錆唱機せいしょうき

兄さんが自分の声を遺した、手製のからくり。

ゼンマイを巻くと、
古びた円盤がゆっくりと回り始める。

やがて流れ出すのは、少し照れたような優しい歌声。
生前と何も変わらない、僕を安心させるための音色。

だが、この機械はただ声を再生するだけじゃない。

歌声が響くたび、
その内部には物理的な錆が生まれる。
人はそれを『声錆こえさび』と呼んだ。


兄さんのような好事家たちの間で囁かれる、
記憶を物質に留めるための秘術。

喜びは黄金色に、悲しみは鈍い鉛色に。

兄さんの錆唱機から生まれる声錆は、
いつも陽だまりのような温かい光沢を放っていた。

僕はガラスの小瓶にそれを集め、窓辺に飾る。
光に透ける錆の粒は、兄さんの魂のかけらのようで、
僕の孤独を慰めてくれる。


近頃、機械の調子がおかしい。

歌声は時折ひどくかすれ、
歯車が悲鳴のような音を立てる。

加えて、再生するたびに内部でカラカラと
何かが転がるような乾いた音が混じるようになった。

再生を重ねるほど声錆は美しくなるのに、
反比例して機械そのものは確実に朽ちていく。

この歌声が消えることは、
兄さんを二度失うのと同じ。
このままでは、兄さんが完全に壊れてしまう。

僕は震える手で父さんの古い工具箱から
精密ドライバーを取り出す。

意を決して錆唱機の裏蓋を外した。

複雑に絡み合った歯車の隙間。
動力源と思しきシリンダーの脇に、
耐火布に包まれた小さなものを見つける。

それは古びた鍵と、走り書きのメモだった。


 もしこの音が聞こえたなら、
 それはもう終わりの合図だ。
 本棚の奥、俺の日記を読んでくれ
 』

僕はメモの指示通り、
本棚の奥から鍵のかかった古いノートを見つける。
兄さんの日記。


先ほどの鍵で錆びついた留め金を開ける。
そこには錆唱機の設計図と、
彼の苦悩に満ちた走り書きがびっしりと並んでいた。

『これは鎮魂歌じゃない。魂を喰らう呪いだ』


 俺がいなくなっても、
 ユウが独りにならないように。
 ただそれだけだったのに
 』


 ユウ、もしこれを見つけたら、俺を許すな。
 そして、どうか
 』

最後の一文は、インクが滲んで読めなかった。

僕は震える指でページをめくり、
設計図の中心、動力源を示す部分を凝視する。

そこに書かれていたのは、信じられない言葉。

「燃料:術者の遺灰」

その文字が、僕の視界を焼き切る。
脳の奥に、冷たい鉄の杭を打ち込まれたようだった。

僕が美しいと眺めていた声錆は、
兄さんの魂が削り取られた残骸。

歌を聴くという行為が、愛する兄を少しずつ、
この世から消滅させるための儀式に他ならなかった。

愛しい記憶の保存装置ではない。
魂を食らい、朽ちさせるための、残酷な牢獄。

立っているという感覚が足元から溶けて消える。


気づけば、床板の冷たさが両の手のひらに
現実として突き刺さっていた。

どうして、、、
兄さんは自らを永遠の燃料に変えたというのか。

僕は、兄さんの優しさに甘え、
この手で、彼の魂を少しずつ殺していた。

聴けば兄さんが消えてしまう。
聴かなければ、この機械の中で、
兄さんは永遠に閉じ込められたまま。


僕はゆっくりと立ち上がり、
クローゼットの奥から、
一番重い鉄のハンマーを引っ張り出した。

机の上の錆唱機が、やけに静かに見える。

陽だまり色の声錆が、最後の光を放っていた。
まるで、僕に選択を委ねるように。

兄さんの歌声を聴き続けたい」。

僕のエゴが叫ぶ。

兄さんを、本当の意味で自由にしてあげたい」。

心の奥底が、か細く震えた。

僕は涙で滲む視界のまま、
静かにハンマーを振り上げる。

「ごめん、兄さん」

真鍮が絶叫し、歯車が砕ける。
耳障りで短い断末魔が響いた。


部屋のすべての音がその一点に吸い込まれるような、
絶対的な無音がおとずれる。

床に散らばった声錆は、もう光らない。
ただの、色の付いた砂だった。

僕は窓を大きく開け放つ。

吹き込んできた夜風が、
床の砂をさらい、闇の中へと溶かしていく。

もうどこにも兄の欠片はない。
それが、何よりも安らかなことに思えた。

もう、兄さんの声は聴こえない。
僕がこの手で、彼の魂を完全に消し去った。

このどうしようもない空虚さと、
ほんのわずかな安らぎを抱えて。

僕は生きていく。

それこそが、兄が僕に遺した、
本当の鎮魂歌なのかもしれない。



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