君の涙は、僕の虚ろ|【狸の掌編】
泉(いずみ)の仕事場は、
常にひやりとした空気に満ちていた。
棚に並ぶのは、
彼が手がけてきた『涙晶(るいしょう)』たち。
喜びは星屑のような多面体に。
後悔は内側に曇りを宿す歪な球体に。
愛しさは柔らかな光を放つ雫の形に。
姿を変え静かに佇んでいる。
『涙晶彫刻師』、それが彼の生業だった。
人々が強い感情と共に流した涙は、
乾くと硝子質の結晶となる。
彼はその結晶から、
持ち主の感情そのものを形として彫り出す。
客は完成した自らの感情を手にし、
過去を慈しみ、あるいは決別していく。
泉自身は、もうずいぶん長く涙を流していなかった。
彼の心は枯れた井戸のように乾ききり、
感情の揺れを感じない。
だからこそ、他人の涙晶に込められた
生々しい情動に触れることで、
かろうじて生の実感を得ていた。
ある月夜、
工房の扉の前には、小さな桐箱が置かれていた。
依頼主の名はない。
中には、たったひとつぶの涙晶。
それは泉が今まで見たどの涙晶とも違っている。
無色透明でありながら、
内部には虹色の光が無数に明滅し、
複雑な輝きを放っていた。
「なんだ、これは、、、」
魅入られたようにそれを手に取り、
作業台の光にかざす。
泉は直感した。
これを彫り上げることこそが、
自分の技術の証明であり、存在意義そのものだと。
彼はノミを握った。
極細の刃先を涙晶に慎重に当てる。
チリッ、と微かな音がした瞬間、
彼の脳裏に見知らぬ光景が流れ込んでくる。
――白いカーテンが風にはためく病室。
消毒液の匂い。握られた冷たい手。
「誰の?」
混乱しながらも彼は彫り進める。
ひと彫りごとに、
断片的な映像が洪水のように押し寄せる。
――遊園地の観覧車から見た夕焼け。
笑い声。肩に感じる温もり。
――土砂降りのなか、傘もささずに佇む人影。
アスファルトを打つ音。
誰かの大切な時間の断片だった。
彫刻は遅々として進まない。
涙晶はまるで内側から抵抗するように硬く、
定まった形を見せようとしなかった。
それでも彼は彫り続けた。
この涙晶に秘められた感情の正体を
知りたいという渇望が彼を突き動かす。
何日も経った頃、
ようやく涙晶の核に近づいた。
最後の一片を削り落とせば、
この感情は形を得るだろう。
彼は息を止め、祈るようにノミを振り下ろす。
その瞬間、世界が反転した。
病室の白い光。
止まった心電図の無機質な音。
そして、愛する人を失った、身を切るような絶望。
忘れていたはずの痛みが、
彼の乾いた心をこじ開けて奔流のように流れ込む。
そうだ。これは、俺の涙だ。
あの日、すべてを忘れたいと願って流した、
たった一度の、最後の涙。
彼は顔を上げた。
作業台の上には、
たった今、彫り上げられた
涙晶細工が静かに光を放っている。
それは、膝を抱え顔をうずめて慟哭する、
若き日の彼自身の姿だった。
虚ろだったはずの泉の瞳から、
熱い雫がこぼれ落ちる。
工房の床に当たり、
チリン、と澄んだ音を立てて、
小さな硝子の粒となる。
初めて自分のために生まれる、新しい涙晶だった。

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