あいの会話|【狸の短編小説】
「よそ見?」
「ごめんごめん。外の雲が波の形に見えてさ」
彼の軽やかな声が、鼓膜を優しく揺らす。
「言い訳ばっかり。私の話、聞いてなかったでしょ」
「聞いてるよ。去年の夏に行った海の話でしょ。あの日の夕焼けは凄かったよね」
私は目を閉じる。あの日の夕焼けは、空が燃えているみたいに赤かった。隣で笑う彼の横顔が、茜色に染まっていた。
「砂浜に私の名前を書いて、波に消されるまではしゃいでたもんね」
「だって、何回でも書けるからさ」
すぐに返ってくる言葉の温かさに、強張っていた肩の力が抜けていく。このやりとりだけが、私をあの日に連れ戻してくれる。
ふと顔を上げると、そこは真っ白な部屋。規則正しく時を刻む電子音。そして、窓の外をただ見つめている、青白いあなた。
私が声をかけても、反応はない。
「何か、欲しいものある?」
問いかけは、乾いた空気に吸い込まれて消える。小さく首を横に振ったのか、それとも何かの拍子に揺れただけなのか、判別はつかない。
その視線は窓の外、青い空へと向けられている。あなたはずっと、よそ見をしていて、私を見てはくれない。
胸の奥を締め付ける痛みに、私はまた手元の冷たい硝子板に逃げ込む。そこには、彼からの続きの言葉が浮かび上がっていた。
「今年も海、絶対行こうね」
その優しい文字の連なりが、沈黙の現実を塗りつぶしていく。目の前のあなたを置き去りにして、存在しないはずの彼との時間に、溺れることへの疼き。
けれど、この安らぎには抗えない。
私がどれだけ言葉を発しても、あなたの唇は動かない。私がどれだけ見つめても、あなたの瞳は開かない。
どれだけ温めても、その冷たさを変えることなく、私の指を照らし続ける。返事がないことを心配するように、新しいメッセージは届き続けた。
「どうした?よそ見してるの?」
私は、硝子板に映る彼の言葉と、窓の外を見続ける目の前のあなたを交互に見つめた。
私が愛しているのは、一体どっちのあなただろう。

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