鏡合わせの共犯者|【狸の話】
バヒヌの日記_♁🜄

私たちは、二種類の人々によって、分断される病理に侵されてしまったSNSという場所に居着いている。
真実を追い求めるために、特定の思想に熱狂する人たちと、自らの理性を確認するために、彼らを愚か者と冷笑する人たち。
一見対極に見える両者だが、実際は鏡合わせの関係にあり、社会の対話を不可能にしている共犯者である。
彼らは医者を装いながら、自らが病理そのものであることに気がついていないのかもしれない。
人々が特定の思想に傾倒するのは、個人の知性の問題ではなく、SNSの構造自体に原因がある。ユーザーの注目を収入源とするSNSのアルゴリズムは、強い感情を煽る情報を優先的に供給して、都合の良い情報だけのフィルターバブルに私たちを閉じ込める。
社会に不安を抱える人にとって、複雑な現実を単純な物語で説明してくれる思想は、抗いがたい救命ボートと化し、彼らはいち早く救われたいと願う要救助者へと変貌する。
対して、この構造的な背景を無視して、全ては個人の責任だという思考の罠に陥っている冷笑主義者は、「騙される方が悪い」という自己責任論で対話を拒絶し、簡単に相手を切り捨てる無慈悲な独裁者と化す。
相手を理解すべき隣人ではなく、切り捨てるべき汚染源として扱うこの非人間的な態度が、相手をより自分たちのコミュニティへと追いやり、分断の溝を深める要因となっている。
この賢いはずの人たちもまた、自らを補強する情報だけを探す確証バイアスの奴隷となっているのかもしれない。
「相手がいかに愚かであるかの証拠」を探し回る彼らの姿は、「世界の隠された真実」を探す陰謀論者の姿と何ら変わず、自らの優越性を確認するだけの空虚な儀式を行う異端に成り下がってしまった。
結局のところ、両者は異なる旗を掲げるだけで、対話を放棄して、相手を敵と見なし、塹壕に立てこもる兵士。
この負の連鎖を断ち切る責任は、一体どちらにあるのか。問われているのは、相手の人格否定を優先して優越感に浸る、冷笑という有害な態度にある。
知性とは、他者の愚かさをあげつらうことではなく、なぜ相手がそう考えるに至ったのか、その背景にある痛みや不安に想像力を及ぼすことのできる器のこと。だとすれば、最初に変わるべきは、自らを賢いと自負する側ではないだろうか。
個人への攻撃をやめ、分断を助長するシステムそのものに批判の矛先を向けることこそが、崩壊した対話を取り戻すための、一歩であるのかもしれない。


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