拭えない入れ墨|【狸の短編小説】
十年ぶりに回す鍵は酷く錆びつき、開けるのに一苦労する。ドアが開くと、澱んだ空気と共にやってくる埃の匂いが鼻についた。
床に置いた段ボール箱が、空虚な音を立てている。全てがやり直しだ、荷解きを始めなければ。そう自分に言い聞かせて、窓を開けて光を入れる。
だが、部屋に染みついた時間は、新しい空気を拒むように濃く、淀んだままだった。
ふと、部屋の隅で鎮座する電話機に、視線が吸い寄せられた。留守番機能付きの旧式のそれに無意識に手が伸びると、震える指先が再生ボタンを探り当てる。
押すな、と頭の片隅で声がするものの、指は意思に反して深く沈み込む。カタリ、とテープが回り始めた。
軋むような走行音。その耳障りなノイズの向こうから、記憶の扉をこじ開けるように声が聞こえてくる。
「パパ、まだ? ハンバーグ、さめちゃうよ」
その幼く舌足らずな声を聞いた途端に、背筋に冷たいものが走り、呼吸が浅くなった。機械的な音声が、無慈悲にも日付を告げている。十年前の今日の日付を。
テープが止まって訪れた静寂は、先ほどの声よりも大きく、耳の奥で反響している。その沈黙に耐えきれずに、思わず床に目を落とした。
視線の先、フローリングの木目の間には、黒く広がった染みがある。引っ越す前からあった、ただの汚れのはず。
膝をついて、指でそれに触れた。冷たく、ざらついているそれは、ある一点から滲み出して、時間をかけて乾き、木材の奥深くまで根を張ったように見える。
拭き取ろうと袖で強く擦るが、染みはびくともしない。それどころか、表面の埃が取れ、その輪郭がより鮮明になっていった。
どれくらいそうしていただろう。染みを見つめるうち、その形が意味を持ち始めた。それは地図のようでもあり、散ったインクのようでもある。
やがて、うずくまる小さな背中の形に収斂していく。 違う、そうじゃない。頭を振っても、一度結びついた像は、剥がれてはくれなかった。
『パパは、帰ってこなかったの』
声は留守電からではない。耳からでもない。この染みから、床下から、建物の土台から直接、頭蓋骨に響いてくる。俺自身の罪悪感が紡ぎ出した、最も聞きたくない真実の声。
床から立ち上がった。もう荷解きをする気力は残っていない。床を占拠する段ボール箱は、この部屋の新たな家具として、置かれたままになるだろう。
部屋の中央に立ち尽くした視線の先の、床の黒い刻印。それと対峙しているとやがて、かすかな匂いが鼻腔を満たし始める。
肉の焦げた匂いに、冷え切った肉汁の匂い。そこにはないはずのハンバーグの匂いが、この部屋の空気を支配していく。
ここは帰るべき場所ではなかった。ここは、俺の刑期が、本当の意味で始まる場所。これから毎日この部屋で、介入できない過去を観測し続けなければいけない。煉獄はまだ始まったばかりだ。

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