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影をずらす、一歩だけ|【狸の短編小説】

 部屋の空気は、
 飽和した溶液のように満ち足りて、
 これ以上溶け込めない、夏至の午後。

 私は鏡台の前に座っている。
 ただ、座っている。

 鏡には、私の顔と、
 背後の散らかり切った部屋が映る。

 その硝子光沢を帯びた表面には、
 日々の呼気が積もらせたであろう、
 緻密な埃が薄く張り付いている。

 光は鈍く、いくつかの指紋が
 過去の接触を化石のように留めている。

 虚構を映すこの面にも、
 生の痕跡は避けがたいらしい。

 静謐の中、ゆっくりと右手の指を伸ばし、
 鏡に触れる。
 
 ひやりとした感触はなく、
 肌と同じくらいの温度がそこにあった。

 埃をそっと、一筋なぞる。
 指が通った跡だけ、世界の輪郭が澄み渡る。

 持ち上げた指先についた灰色の粒子を、
 私はただ、じっと見つめる。

 それは、この部屋の空気の沈殿であり、
 過ぎた時間の骨格だった。

 音もなく立ち上がり、台所へ向かう。

 冷蔵庫を開けると、冷気が足元に流れ落ちた。

 水滴をまとった、硝子のポットを取り出す。
 
 琥珀色に澄んだ麦茶が、
 中で静かに揺れている。

 戸棚からグラスを一つ。
 
 冷凍庫から取り出した氷を二つ落とすと、
 カラン、カランと硬質な音が響き渡り、
 部屋の沈黙に小さな亀裂を入れた。

 麦茶を注ぎ、窓辺に立つ。

 窓の外では、
 遊ぶ子供たちの甲高い声が聞こえる。

 世界は、私の内側とは無関係に動いている。
 
 時折、風が軒先の風鈴を鳴らした。
 
 その透明な音色が、
 外の喧騒と内の静寂との境界線を、
 曖昧に揺らしている。

 グラスを傾け、麦茶を一口。
 
 研ぎ澄まされた冷たさが、
 喉を滑り落ちていく。

 身体の内側で、「今」が凝固する感覚。

 グラスを持つ左手には、
 融けゆく氷の冷たさがじわりと伝わる。

 視線を室内に戻す。
 
 西日が床に長く伸び、
 空気中を舞う無数の埃を金色に照らし出す。

 光の粒子が、そこにあるはずのない
 秩序を描いて乱反射している。

 空になったグラスを手に、玄関へ歩く。

 たたきには、一足のサンダル。

 鼻緒は少し色褪せ、靴底の縁には
 乾き切った泥がこびりついている。

 持ち主の足の形に、わずかに凹むサンダル。
 それは誰のものでもない、
 私の生の来歴そのもの。

 サンダルの前に私は立つ。
 すると、私の影が伸びて、
 サンダルをすっぽりと覆い隠した。

 光が消え、生の証は黒いシルエットになる。
 まるで、理想という虚構の影が、
 ありのままの自分を覆い隠すように。

 一歩、横にずれる。
 サンダルに再び光が当たる。

 もう一度、元の位置に戻る。
 影がサンダルを隠す。

 その動きを、もう一度だけ繰り返した。

 光と影との間で、
 私は自分の立ち位置を測りかねている。

 手の中のグラスが、
 いつの間にか体温でぬるくなっていた。

 静かに踵を返し、台所に戻る。

 ぬるくなったグラスをシンクの中に置いた。
 カチャンと小さな音が響く。

 蛇口をひねると、
 水の流れる音だけが辺りを満たした。

 濡れた手で、もう一度鏡台の前へ戻る。

 鏡の前に立つ。
 
 先ほど指でなぞった一本の筋と、
 残された埃を見つめる。

 濡れた手のひらを、
 鏡の表面にゆっくりと置いた。

 冷たい水滴が、生温かい鏡面に広がる。
 そのまま手のひらを滑らせ、鏡全体を拭った。

 埃と水滴が混じり合い、
 一瞬、鏡の中の像が歪んで滲む。

 虚構と生とが、分かちがたく凝縮し、
 分光する光のように煌めいた。

 手が離れた後、
 鏡は以前より少しだけ鮮明になり、
 そこに立つ、純粋とは言えない、
 確かな私の顔を映している。

 遠くで鳴っていた風鈴の音が、ふと、止んだ。



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