内なる自分は敵となる|【狸の話】
バヒヌの日記_♁∅

人が「死にたい」と口にした時、その言葉は死への願望を表現しているのではなく、多くの場合、生きることに疲れ果てた自分との対話が破綻していることを表しているのかもしれない。
そもそも、言葉を発するという行為そのものが、他人や世界との繋がりを諦めていない、なによりの証拠であり、一縷の望みを掴もうとする必死の試み。
しかし、なぜこの痛切なサインが時に、自死へと人を駆り立ててしまうのか。その鍵を握るのは、私たちの内に潜むもう一人の自分、すなわち客観的な自分との対話の在り方にあるかもしれない。
人は、常に俯瞰して自分を見つめている。「自分は駄目だ」と思う時、必ずそこには駄目な自分を客観的に評価するもう一人の自分の存在がある。
この客観的な自分は多くの場合が、頼れる味方として存在してくれている一方、精神的に追い詰められた時などに、必ずしも味方という立場を取ってくれるとは限らない。
むしろ、時にそれが最も冷酷な裁判官へと変貌してしまう可能性をはらんでいる。
社会という名の巨大な法典を元に、自らの苦しむ感情を甘えや弱さとして、一方的に断罪し始める敵と化した客観性は、自死へと向かうべき理由を冷静に並べ立て、「死こそが唯一の合理的な解決策である」と本人に囁き続ける。
それは、論理という名の刃で自らの心を刺し続ける、自己完結した絶望の牢獄。ここからの脱出は、一人で思考を続ける限り不可能に近いといえる。
だからこそ人は、この内に潜む冷たい声から逃れるために、外部に救いを求めなければいけない。その魂が必要としているのは、アドバイスや正論といった、客観的な自分と同じ土俵で戦うものでないのは当然のこと。
これらは、内なる裁判官に新たな武器を与えるのに等しく、危険な賭けになりかねないから。
真に求められているのは、評価や判断を一切含まない、ただ苦しみを丸ごと受け止めてくれる共感という名の抱擁。「苦しんでいるあなたが存在していても良い」という存在そのものの肯定が、自分という独房に差し込む一筋の光となる。
内部で崩壊したセーフティネットを、他人が一時的に張り直してあげることによって初めて、人は牢獄から抜け出して、生へと向き合う僅かな足がかりを得ることができる。
結局、「死にたい」という言葉は、内なる対話が破綻し、敵と化した客観的な自分に追いつめられた現状からの逃避を望む、悲痛なSOSなのである。
その声に応えようとする者にできることは、解決策を提示することではなく、ただその傍らに立ち、その存在を無条件に肯定してくれる、一人の人間としての温もりを提供することなのかもしれない。


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