床に落ちた警察官の名刺——本物か偽物か?恐怖の夜(後編)
名刺には
『刑事課第一課 強行犯第二係』 と
物々しい肩書が並んでいた。
——そもそも、
この名刺が本物だという保証はない。
書かれている電話番号に、
すぐかける勇気は出なかった。
まず番号を調べ、ネットで検索する。
一致する警察署の番号が出てきた。
……だが、それすら疑う自分がいた。
偽造サイトの可能性だって、
ゼロではない。
それでも、あの男性の正体を
これからの身の安全のためにも
確認したかった。
私は、本物の警察署に
電話をかけることにした。
コール音が、やけに長く感じた。
やっと繋がる。
電話口に出たのは、
明るい声の女性だった。
私は恐る恐る住んでいる地域を伝え、
昨夜の状況をかいつまんで説明する。
そして、名刺のことを切り出した。
「玄関前に名刺があったんですけど……
これって本物なんでしょうか?」
「本物です。ご連絡ありがとうございます。」
あまりに明るい声で、
少しだけ肩の力が抜ける。
続けて尋ねる。
「……何かあったんですか?」
「深夜1時から2時頃、お住まいの周辺で
——女性の声で『助けてー!』という
叫び声があった、と通報があったんです。」
事情を聞くために、
住人の方を一軒ずつ回っていました、
と女性は言った。
「そういった叫び声は、
聞かれませんでしたか?」
——私は、その叫び声には
まったく気づかなかった。
インターフォンが鳴るまで
眠っていたこと。
怖くてドアを
開けられなかったことを伝える。
さらに、女性は続ける。
「今朝も、
昨日お話を聞けなかったお宅を
回る予定です。
お名前を伺ってもよろしいですか?」
一瞬、ためらう。
なんとなく、答えたくない。
——そう思いながらも、名字だけを伝えた。
間を置かず、
フルネーム、
住所、部屋番号、
携帯番号も聞かれる。
えー!そこまで聞かれるのー⁈
電話しなきゃよかったな…
胸の奥に小さな警戒心を残しつつ、
ためらいながらも、
仕方なく個人情報を伝える。
つい、私は聞いてしまった。
「……この電話……本物……ですよね?」
女性は笑いながら言った。
「そちらから警察署に
かけていただいていますので、
本物です。ご安心ください。」
頭ではわかっている。
自分で本物の番号に電話したのだから。
それでも——疑いの気持ちは、
完全には消えなかった。
一睡もしていない中で、
朝からの訪問も避けたかった。
思わず、「もうすぐ家を出るので」と、
お断りをした。
冷静になれば、
考えすぎなのかもしれない。
でも、あの深夜の出来事のあとでは、
慎重になりすぎるくらいで
ちょうどよかった。
数日後、ふと思い出した。
そういえば、
この建物には、
わいせつ事件で
報じられていた人物が住んでいる。
名前が特徴的で、
事務所兼住宅のような形で
部屋を借りていたため、
集合ポストにその名前が
表示されていたことがあり、
それで私は覚えていた。
ニュースで○○町という居住地と名前、
さらに○○店を経営していることまで
目にしたとき、思わずゾッとした。
名前も珍しく、一致することは
そう多くないはずなのに、
そこに○○町という居住地、
さらに○○店という業種まで重なると、
ニュースで報じられていた人物と、
この建物に住んでいる人物は
同一人物なのだと考えざるを得なかった。
認めてしまうと怖くなるので、
できればそうは思いたくなかったが、
それでもそう考えずにはいられなかった。
このことを知っている住人が
どれくらいいるのかは、
私にはわからない。
しかし、すぐに引っ越すのは、
金銭的にも手間の面でも
現実的ではなかった。
自分で気を付けるしかないな……
と考えていた。
もともと、エレベーターなどで
誰かと一緒になるタイミングに
なりそうなときは、
防犯の意味もあるが、
そもそもエレベーターが狭く、
家族ではない他人と乗るには
距離が近すぎて気まずい。
余裕でパーソナルスペースに入っている。
それにコロナの影響で
ソーシャルディスタンスが
当たり前になったこともあり、
携帯を見るふりをして時間をずらしたり、
「お先にどうぞ」と譲ったりしている。
最近は、オートロックの共連れが
原因の事件も目にするようになり、
通る前にも後にも、
気づけば後ろを振り返って
確認する癖がついた。
——無意識のうちに、あの深夜の出来事と、
ニュースで報じられていた人物——
つまりは……同じ建物の住人のことを
結びつけてしまっている自分がいた。
真相は、今でもわからない。
警察に確認するのも、少しためらわれる。
あんなにインターフォンを
しつこく鳴らされたのも、
もしかすると警察官の男性も
万が一のことを
考えてのことだったのかもしれない。
そう思うと、怖がっていた自分が、
少し申し訳なくなる。
「すみませんでした」
届かないとわかっていながら、
つい、つぶやいてしまった。
