【創作大賞2026 お仕事小説部門】転職したサクラは働き直すことにした|第3話
Project MOON No.06-2
家族の生活を守る位置の話
-これまでのサクラ、そしてこの先の話-
「今夜は、トイレと徹夜で向き合う。」
サクラはそう決めていた。
もう二度と、
あんな失敗はしたくなかった。
静かな夜だった。
窓の外では街灯だけがぼんやり光り、
部屋には時計の針の音だけが
小さく響いている。
机の上には、
現場写真。
トイレの図面。
そして、
分厚い建築用語辞典。
その横には、
カフェオレの入った大きなマグカップと、
コンビニで買ったお菓子が並んでいた。
「く~……美味しい。」
サクラはカフェオレの入った
マグカップを机の端に置き、
その横に並べた甘いお菓子をひとつつまんだ。
机の上には図面と現場写真。
そして分厚い建築用語辞典。
今回のトイレ工事の失敗は、
ただの寸法の取り違えではなかった。
構造を理解しないまま、
職人任せ、
先輩任せのまま、
勢いだけで工事に向かってしまった。
その結果だった。
もう二度と同じ失敗を繰り返さないために。
サクラは静かな深夜の部屋で、
辞典のページをゆっくりめくり始めた。
指先でページの端を押さえる。
排水芯。
その言葉は、
先日、
水道設備の職人の代田から
教わったばかりだった。
「排水芯、測ったのか?」
現場で聞いたときの声が思い出される。
あのときは、
少し急かされているようにも聞こえたし、
試されているようにも聞こえた。
でも今ならわかる。
なんのことはない。
あれはただの確認だったのだ。
サクラはさらに図面に視線を落とした。
トイレはシンプルに見える。
でも、
給水
排水
便器の位置
この三つで成り立っている。
では、排水芯とは何か。
辞典の図を指でなぞる。
排水芯とは、
排水管の中心位置のこと。
多くの場合は奥の壁からの距離を指す。
つまり、
トイレは
好きな位置に置けるわけではない。
排水管の位置を起点にして、
置ける場所が決まる。
だから代田は言ったのだ。
「排水芯、測ったのか?」
あれは、
便器がつくかどうかを
判断するための言葉だった。
サクラは現場写真をもう一度開いた。
(うん……
ここまでは代田さんから聞いて理解してる)
小さくうなずき、
机の端のクッキーをひとつ口に入れる。
辞典の図を指でなぞる。
トイレの排水は、
床の下や壁の中を通って、
建物の外の下水道へ流れていく。
つまりトイレは、
家の排水システムの一部だった。
さらにページをめくる。
トイレの排水には二種類ある。
床排水と壁排水。
戸建て一階に多いのは床排水。
床から排水管が立ち上がっているタイプだ。
床に丸い開口があり、
その穴から排水管が立ち上がり、
そこに便器を固定する。
トイレは次の順番で接続されている。
便器
排水ソケット
パッキン
排水フランジ
排水管
という順番だ。
まず便器の裏側には排水口がある。
その排水口を排水ソケットという
接続部材で床の排水管につなぐ。
このとき、
すき間から臭いが上がってこないように
パッキンで密閉する。
さらに
排水フランジという
リング状の部材で便器を床に固定する。
こうして便器は
排水管と一体化する。
つまり
便器は床に置かれているのではなく
排水管に接続されている。
サクラは現場写真の床部分を指でなぞった。
(うん。今回の現場はこれだ)
そしてもう一つは壁排水。
壁の中から排水が出ているタイプ。
主にマンションに多い。
床に開口がなく、
壁の奥に排水管が通っている構造だった。

サクラは
少し首をかしげながらページをめくった。
(これはまだ担当したことはないけど……)
図をじっと見つめる。
壁の中の排水管が縦管につながり、
下の階へ落ちていく構造。
なるほど。
だからマンションでは壁排水が多いのか。
もし床から排水を通してしまうと、
そのまま下の階の天井裏を通ることになる。
位置を間違えれば、
下の階の部屋の真ん中を
排水管が通ることになる。
サクラは思わず苦笑した。
そして少しだけ、
先日の自分の説明の危うさを思い出した。
「リモデル便器なら対応できるはずです!」
先輩は苦い顔をしていたが
それは本当か?…
サクラはさらにページをめくる。
普通のトイレは
便器の排水口の位置が固定されている。
つまり
排水管の位置が合わないと
設置できない。
ところがリモデルタイプのトイレは
便器と排水管の間に
位置を調整するための接続部材
が入っている。
これがリモデルタイプの正体だった。
通常のトイレは
便器
↓
排水フランジ
↓
排水管
という直線の接続になる。
ところがリモデルタイプは違う。
便器
↓
排水ソケット(位置調整部材)
↓
排水フランジ
↓
排水管
という構造になる。
つまり
便器と排水管の間に
ワンクッション入っている
構造になっている。
リモデルタイプは便利だけれど
どこでも付くわけではない。
調整できる範囲が決まっている。
だから現地調査時は
排水芯を測る
型番を確認する
設置寸法を見る
という順番で判断すべきなのだ。
つまり
リモデル=何でも付く
ではなく
リモデル=範囲内なら付く
という設計だった。
何にでも対応できる
魔法のトイレがあるわけではない。
(あっぶない。
わたし、適当なことを喋ってたな…)
サクラは小さく首を振った。
まだ整理することは山ほどある。
手元の手書き図面を指で押さえながら、
現地調査のときの記憶を思い返していた。
◇
「まず排水芯を見る」
先輩はしゃがみ込み、
床にスケールを当てた。
「排水芯?」
「そう。便器の排水の位置だよ。
ここが合わないとトイレはつかない」
◇
……そうだった。
あのとき、
先輩は排水芯の位置を
普通に測っていたはずだったのだ。
頭にカッと血が昇った
「あんにゃろうのせいで…」
はっ。いかんいかん。
また人のせいにするところだった。
気を取り直して
サクラは現場写真を拡大した。
現場写真を見る。
固定用ビスを隠すキャップの横に、
スケールが当てられている。
◇
「たった105ミリ。」
サクラは
画面に表示された数字を見つめていた。
たった105ミリ。
でも、
その10センチちょっとの違いで、
トイレは付かなくなる。
人は暮らせなくなる。
そして職人は怒鳴る。
サクラは机の上へ肘をつきながら、
もう一度図面を見た。
排水芯。305ミリ。
そして、
最初に納品されたネオレストの図面を開く。
排水芯。200ミリ。
「なるほど……」
小さく呟く。
静かな深夜だった。
部屋には
デスクライトだけが灯っている。
窓の外では街灯がぼんやり光り、
時計の秒針だけが静かに進んでいた。
マグカップから立ち上るカフェオレの湯気。
机には現場写真と図面、
建築用語辞典が散らばっている。
サクラは画面へ顔を近づけた。
どうやら、
絶対に
設置できないわけではないらしい。
ただ、
そのまま付けると便器が前へ出る。
便器が前へ出ると、
正面の扉に膝が当たる。
膝が当たるということは、
扉が閉まらない。
扉が閉まらないということは――
サクラは手を止めた。
「……あ。」
嫌な想像が始まる。
◇
朝。
家族みんなが慌ただしく動いている。
父がトイレに入る。
しかし扉は閉まらない。
なぜなら、
膝が当たって閉まらないからだ。
父は諦めたような顔で
便座に座っている。
ランドセルを背負った娘が
廊下を歩いてくる。
父の足をまたぐ。
「行ってきます。」
娘は無表情だった。
父も無表情だった。
誰も突っ込まない。
家族全員が、
それを受け入れている。
玄関。
廊下。
トイレ。
その境界は完全に消滅していた。
もはや宇宙だった。
「いやいやいやいや。」
サクラは慌てて首を振った。
最悪だった。
◇
しかし。
恐ろしいのは前だけではない。
今度は逆を考える。
もし排水位置より、
便器の排水芯の方が大きかったら。
今度は後ろへ下げなければならない。
すると壁が邪魔になる。
つまり――
壁を壊す。
サクラは再び想像した。
冬の朝。
外壁から、
お客様のお父さんのおしりだけが
外へ飛び出している。
なぜなら便器を下げるために、
壁を壊したからである。
お父さんは真顔だった。
隣の家の奥様がゴミ袋を持って出てくる。
目が合う。
「また出てるわね。」
お父さんは静かに会釈する。
最悪だった。
本当に最悪だった。
サクラは思わず両手で顔を覆う。
◇
ようやく理解した。
排水芯は、
ただの数字じゃない。
前に出せば、
暮らしがおかしくなる。
後ろに下げれば、
家そのものがおかしくなる。
だから、
絶対に間違えてはいけない。
代田が怒った理由も、
ようやく分かった気がした。
サクラは図面の数字へ、
そっと指を置く。
305。
さっきまでただの数字だった。
でも今は違う。
その数字の向こう側には、
毎朝トイレを使う家族がいる。
子どもがいる。
父がいる。
母がいる。
何気なく続いていく生活がある。
サクラはチョコレートをひとつ口へ入れた。
甘さがゆっくり広がる。
そしてもう一度、
図面へ目を落とす。
数字を覚えるためではなかった。
その数字の向こうにいる人たちを、
忘れないためだった。
了
「転職したサクラは働き直すことにした」
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転職したサクラが、
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