「中学受験はコスパがいい」への反論。偏差値よりサナダムシを面白がる素養こそが、私の生存戦略だ。
最近、ある記事がタイムラインに流れてきた。50代の父親が語る中学受験のメリットについての記事だ。
要約すると「今のうちに勉強習慣をつければ、将来が楽になる」「いい大学・大企業へのパスポートが得られる」という、過去の成功法則の焼き直しのようだった。
当然私は、大きな違和感を感じた。単に受験戦争が嫌いだからではない。
世間でよく語られる「中学受験をガリガリやるか、それともゆるくのびのび育てるか」という二元論に異議があるからだ。
私が娘を偏差値競争に参加させないのは、娘にのんびりとした「ゆるい生活」を送らせるためではない。
むしろ逆で、既存の受験勉強ではこれからの時代を生き抜くには不十分だと感じているからだ。
それは、私自身が日々、外資系のグローバルビジネス環境に身を置いているからでもある。
私は、学校や塾が教えるよりも本質的な知的トレーニングを娘に求めており、あえて受験勉強という単純作業に時間を奪われないよう、戦略的に余白を確保している。
ちなみに、私の娘も都内の進学塾に通っているため、塾や受験の実態は理解している。しかし、私は娘に上のクラスに入れとか、偏差値を上げろとは言わない。
塾のカリキュラムをあくまで素材として利用しつつ、家庭では全く異なるアプローチで知の獲得を狙っている。
単位は暗記するものではない。世界を「定量化」するための共通プロトコル
一例を挙げると、算数では「長さ(m, km)」や「重さ(g, kg)」などの単位が登場する。
通常は「1L=10dL」などと暗記させ、単位換算のドリルを繰り返させる。
しかしこれでは、単位がただの面倒な記号として認識されてしまう。だから私は、家庭学習で全く違う視点を与える。
単位とは、曖昧な世界をデータとして扱うための定量化プロトコルであることを伝えるため、私は娘にこう問いかける。
「『このお菓子は多い』と表現したとき、どれくらい多いか相手に伝わる?」
「伝わらない。人によって感じる量が違うから」
「そう。だから、誰が見ても同じ意味になるように、世界共通のものさしを決める必要がある。それが単位だよ」と。
私は、単位換算を計算問題として解かせない。定規という基準を使って、目の前の現実を数値データに変換するトレーニングとして行う。
感覚ではなく数値で表すというのは、ビジネスやデータサイエンスの基本だ。
私が育てたいのは、計算力ではなく、カオスな現実世界の中から基準を見つけ出し、誰もが検証可能な形に定量化できる知性である。
知識ではなく、自分の体を使った検証
3年生の理科は、身近な観察が中心だ。学校では「昆虫の足は6本」「日陰は温度が低い」と知識として覚えさせる。
一方、私が娘に求めているのは、もっとハードな科学的態度である。例えば常識を疑い、自分の体を使って事実を確かめるような姿勢だ。
昔ガリレオは、教会の天井で揺れるシャンデリアを見て、ただ祈っていたわけではない。
「揺れ幅が違っても、往復する時間は同じではないか?」と考え、自分の手首の脈を使い時間を測って検証した。
私は娘に言う。
「教科書に書いてあることが正しいとは限らない。大事なのは、君が『なんで?』と思った時に、自分の目と手を使って『事実』を取りに行くことだ」
だから我が家では、時には塾の宿題を後回しにしてでも、自然の中での観察や実験を優先する。
自分の影の長さを測ったり、磁石を持って家中のくっつくものを探したりする。遊びの一種だが、ゲームや動画を見るなどの受動的な遊びではない。
未知の課題に対して仮説を立て、検証し、結論を出すという、研究者やビジネスリーダーに必須の実戦訓練でもある。
「サナダムシ」を面白がる娘を見て確信したこと
ここまで読むと、読者の方はこう思うかもしれない。
「それは親の勝手な理想論じゃないか? 娘さんはそれに付き合わされて、混乱しているんじゃないか?」と。
確かに親が過干渉しないよう気をつける必要があるが、一例をいうと先週末、9歳になった娘が、ふと思い出したように私にこう言ってきた。
「パパ、また目黒の寄生虫博物館に行きたい」
彼女は5歳の時、図鑑で見た寄生虫に興味を持ち、何度かその博物館を訪れていた。それから4年が経ち、今でもなお彼女の関心は続いていた。
博物館に着くと、彼女は男性の体内から出てきたという長い真田虫(サナダムシ)の前に立ちじっと観察している。
ホルマリン漬けの寄生虫が並ぶ部屋にいるのは、親として正直あまり気持ちのいいものではない。
さらに彼女は、アニサキスの入ったキーホルダーや、寄生虫のカルタを欲しがった。
「それは……」と私が難色を示すと、彼女は代わりに寄生虫のイラストが描かれた定規を選んで買った。
一見グロテスクに見える自然界のリアルな姿に、美しさと不思議さを感じるセンス・オブ・ワンダーを持ち続けている。
もし私が「そんな気持ち悪いものより、勉強をしなさい」と言ってこの時間を奪っていたら、この感性は死んでいただろう。
帰宅後、彼女は来週も行きたいと言い出した。もっと寄生虫の種類を覚えたいそうだ。
彼女はこれからも自分自身の尺度で世界を測り続けるだろう。
結論:アプローチを変える
「受験しない=逃げ」ではない。
「受験しない=ゆるい教育」でもない。
私は、崩れかけた既存のゴール(偏差値・学歴)に向かって走るというアプローチを捨てただけだ。
その代わりに、「グローバル水準の主体性」と「本質的なツールの習得」という、より険しく、しかし確実な未来へと続くルートを選んだ。
進学塾には通わせる。計算力や基礎知識を効率的に得るという部分は有用だからだ。
しかし私は娘を、テストのハイスコアを目指すだけの受験生にはしない。
世界を解像度高く捉え、自らの手で未来を切り拓く幼き探究者として育てている。これが、私の選んだ「戦略的教育」である。
サナダムシを面白がる素養は、どこで育つのか。その答えはこちら。
