小学校受験でなくした「なぜ」は、里山で取り戻せる
グローバル化という言葉を耳にするようになったのはいつ頃だっただろうか。少なくとも最近ではない。
英語教育の早期化、インターナショナルスクールの増加、グローバル人材育成という言葉の広がりなど、教育面において言えば、表面的には確かに世界に開かれる方向に進んでいるように見える。
しかし実際に都心の幼児教育や小学校の現場で起きているのは、その反対の現象だ。
グローバル化への適応という看板を掲げながら、実態は戦後から変わらない偏差値主義、選別競争への先祖返りが加速している。
乳幼児期、もっと言えば妊娠中から早期教育の重要性を説く情報に触れることは珍しくない。
早期教育と言ってもさまざまな領域があるが、未就学児童を持つ都市部の親にとって身近に感じるのは、知育教育や小学校受験だろう。
早いうちからさまざまな教材やプログラムを受け、そのうち私立小学校、もしくは国立大学附属小学校への入学を目指して準備を始める家庭も出てくる。
大手受験対策塾から個人経営の教室まで、専門性もエビデンスも不明で価格の妥当性も確認できないサービスが、高い値段で売られている。
受験のある学校を目指す理由は家庭によって多様だが、一貫しているのは将来子供たちが社会で活躍していけるよう、整った環境を与えたいと思うからだろう。
外資系企業でグローバルなビジネス環境に身を置く私は、その渦中にいる自分の娘たちを実際に育ててきて、その違和感を強く実感してきた。
私は医療機器メーカーで17年、プロダクトマネージャーとして働いてきた。本社のあるアメリカに加え、ヨーロッパやアジア各国など、多国籍の同僚と英語で直接やり取りしながら、製品開発に関わる仕事をしている。
この環境に身を置いて分かったことは、グローバルで活躍するとは単に勉強ができて英語が話せることではない。
母国語で深く考え抜いた人間が、英語を手段として使いこなしながら、異なるアイデアやバックグラウンドを持つ相手と対等に渡り合って解を出すことだと考える。
もちろん、職種やポジション、業界などによって違いはあるだろう。
しかし、ネイティブのようにバイリンガルで英語が喋れることではないし、偏差値が高いほど有利というものでもない。
その考えを持って、私は二人の娘を2歳から6歳までの4年間、IB(国際バカロレア)認定のプリスクールに通わせた。
これは英語や知識の早期習得が目的ではなく、多様性の中で問いを立て、探求する力を育む教育を目指したからだ。
子供たちはこの4年間で、発見すること、アイデアを考えること、面白いと思ったものや経験を共有することなどを楽しむ感覚を育んだ。
例えば、生き物が好きな長女は4歳の時に目黒寄生虫館でサナダムシを見て以来、寄生虫への興味をずっと持ち続けている。
興味がある、面白いと思ったことを自分のペースで掘り起こしていく姿勢が、この4年間で育った最大の収穫だった。
一方で、年中から年長の年末にかけて、長女は一年超にわたる小学校受験を経験した。
当時の私たちは、何が適切な教育なのかを自分たちの中で確立できていなかった。
その結果、幼児教室や受験塾の主張を受けて、流れるまま受験に突入してしまった。
同級生や幼児教室において受験をする子が多かったことや、小学校の環境の選択肢を広くしておきたいと思ったからだ。
プリスクールに通いながら受験塾にも通い、正解を素早く、正確に出す訓練を重ねた。
つまり、好奇心を大事にして問いを立てることを奨励される環境で育った子供を、正解を求める教育に放り込むという矛盾した行動を、我が家では長女に取ったのだ。
塾の問題に向かう娘は「なぜ」と問わない。聞いても答えが返ってこないことを理解しているからだ。
数や図形の問題を早く正確に解く。お話の内容を正確に記憶する。指示された通りに、のりやハサミを使って正確かつ丁寧に製作する。
どこにもIBスクールで培ったような探究の入る余地がない。
入試では季節の行事や伝統的なイベントなどを理解しているかなどを問うケースも多く、その対策のために親は自然体験などに参加させる場合もある。
しかし、それはあくまで受験の枠の中での話に過ぎず、子どもが自由に好奇心を持つことを目的としたものではない。
また、プリスクールのウィンターコンサートの準備期間が受験対策と重なった時、長女は十分に練習に参加できず、セリフや動作に自信のないまま舞台に立つことになった。
そして受験もコンサートも終わった後、彼女は私にこう言った。「スクールでの時間を削りたくなかった。みんなともっと練習したかった。」
受験により何を諦めることになるのか、彼女自身は分かっていたのだと思う。
決して文句は言わないが、彼女の心の中には「受験勉強する時間がなければ、もっと打ち込めたのに」という残念な気持ちがずっと残っている。
これは小学校に進学した後、長女から改めて聞いた話だ。
結局、長女は近所の公立小学校に進み、受験という領域からいったん距離を置いたが、4年生になった現在は大手進学塾に通っている。
公立小学校を選んだからといって、既存教育体系での競争から逃げられるわけではない。
何が子どもにとって正解なのかを示すエビデンスはどこにもない。塾に通わせないという選択をしても、いずれ進路で行き詰まるリスクはある。
そのリスクを子どもたち本人に負わせる覚悟がない限り、既存の教育環境を完全に無視することはできない。
そのような背景で塾には通わせているが、塾が教えることを盲目的に「正しい教育」だと信じ込むことはしないようにしている。
あくまで自分に合ったペースで、効率的に基礎学力を身に付けることが目的だ。
塾は、目の前のひとりひとりの子どもがどう育つかには関心がない。関心があるのは、合格実績であり、組織としての評判だろう。
これは私の家だけで起きている特殊な話ではない。近年は都心の幼児教育・受験産業は、巨大な市場になっている。
背景にあるのは、子どもの将来に対する親の不安を煽り、安心を商品として売る構造だ。
早期教育、知能育成、面接対策など、どれも今やらなければ手遅れになり、大きくなってからでは取り返せないという親の焦りが土台にある。
子どもが生まれる前から、親はさまざまな場所で発達や教育面での焦りや安心を植え付けるマーケティングに接することになる。
中には幼児期の教育投資は、将来の年収を向上させるという主張も広がりを見せているように思う。
このような情報を目にすると、早ければ早いほどいいという考えに至るのは自然なことかもしれない。
しかし問題の根はもっと深いところにある。
不安を煽り、安心を提供する業者がいなくなったとしても、今の都心の生活環境では、子どもが自由に過ごせる場所がそもそも少ない。
高層マンションと商業施設、幹線道路に囲まれた街に、子どもが探究する空き地も雑木林もない。
放課後などに自由に余白を過ごせる時間が、都市の構造の中に組み込まれていないのだ。
ここで最初の問いに戻りたい。そもそもグローバル人材とは何か。
私は17年間、複数の国籍のチームと英語で意思決定をしてきた。会議で存在感を放つのは、英語が流暢な人間ではない。
自分の専門性や経験からくる考えを基に母国語で深く考え抜き、その思考を英語という手段で伝えられる人間だ。
私がHBS Onlineのプログラムを受講した時も、海外の受講生たちは正解を覚えることではなく、自分の意見を組み立てて議論することに積極的だった。
問いを立てる力。自分のペースで課題に向き合い、深く考え抜く力。これらがグローバル人材の土台であり、英語力はその後についてくる手段に過ぎない。
ただし、問いを立てる力だけで価値が生まれるわけではない。それを専門性や独自の視点に育てていく過程があってはじめて、グローバルなビジネスの場で意味を持つ。
問いを立てる力は簡単に身につくものではないし、探究する姿勢は、幼少期に世界を広げてもらう経験と、それを支える大人の存在があってはじめて育つ。
IBがinquire(探究する)という姿勢をカリキュラムの中心に据えているのは、詰め込み型の教育では決してこの力が育たないからだろう。
たとえばIBのPYPでは、「コミュニティとは何か」「どんなコミュニティが存在するのか」という視点を、学齢に応じて繰り返し提示していく。
次女はあるUnitで「CommunityのRole and Responsibility」を学んでいた時、一緒に電車に乗りながら車掌さんを指さして「あの人は何をしているんだろう。Roleは何?、Responsibilityは何かな」と問いかけてきた。
突然、5歳児が英語でRoleとかResponsibilityという言葉を使うことにびっくりしたことを覚えているが、この視点が自然に湧いてくるというのは日常的に意識する環境があるからだろう。
知識を与えられて覚えるのではなく、自分で問いを発見し、その答えを探しにいく経験を繰り返すことでしか、この力は育たない。
これは個人の感覚だけの話ではない。
OECDが2019年に発表した教育の指針『Learning Compass 2030』[2]は、教師から与えられる指示を受け取るだけでなく、生徒自身が未知の状況を主体的に進み、意味のある方向を見出していく力、言い換えると、知識・スキル・態度・価値観を土台にした主体性(student agency)を、教育の中核に据えている。
世界の教育政策が向かっている先は、正解を早く出す力の育成ではない。受験への傾倒は、この視点を持つ余地を与えてくれない。
正解を速く、正確に出す力。間違いを指摘される環境への適応。これらはグローバル人材の土台とは異なる力である。
しかし、グローバルで活躍できる子どもを育てたいと願う親が、実際にはこの力を与えようとしてしまっている。
これが、私が考える看板と実態の矛盾だ。
幼児期に育つべきは、探究心そのものと、それを失わずに保ち続ける視点だと考える。
探究する姿勢は、放っておいて自然に身につくものではない。誰かがその場に一緒にいて、一緒に「なぜ」を探してくれる必要がある。
私の考え方の核にあるのが、Rachel Carsonの『The Sense of Wonder』という概念だ[1]。
Carsonは、子どもがすでに持っている世界への驚きや好奇心を、大人が知識を教え込むことで育てるのではなく、大人自身がその驚きを子どもと一緒に共有し、隣で発見し続けることこそが重要だと説いている。
私が育ったのは千葉県の田舎で、今でも蛍が飛ぶ自然が残っている。母や友人たちが今でも暮らしており、毎年、季節ごとに子どもたちを連れて行っている。
タケノコを掘り、ホタルを鑑賞し、釣りをし、キャンプをし、畑から野菜を取り、田んぼでオタマジャクシを捕まえる。
ここで起きていることは、The Sense of Wonderの実践だと思っている。教えるのではなく、子どもの隣で一緒に「これは何だろう」と考え、「面白いね」と共感する。
子どもの友人家族を連れて行ったこともある。「東京ではできない経験だった」「来年も来たい」「子どもの笑顔を見られて良かった」
そう言われた時、これが自分の家族だけの特殊な体験ではなく、誰の子どもにも起こりうることなのだと確認できた。
グローバル人材を育てる前に、幼児期には定期的に都心を離れ、子どもが探究心を保てる場所に親子で身を置くこと。
そこで子どもの隣に立ち、一緒に探求する大人であることが大事だと思う。
正解を出す力は学校や塾でも学べる。しかし、問いを立てる感性は、その外側でしか育たない。
だから残り多くない幼少期、意識して子どもたちを自然の中に連れ出し、神秘さや不思議さに目を見はる感性を一緒に育んでいきたい。
その探求心と基礎力を基に、子どもたちから湧き上がる行動力を大事にし、失敗を恐れない姿勢が身につくようにサポートする。
その結果として、多様性の中で自分を主張し、解決策を一緒にまとめ上げるという行動ができるようになると信じている。
【関連記事】
もう一人の娘(次女)も小学校受験を少し経験したのだが、その中で見せた変化についてはこちらに書いた。
「パパ、怒ってない?」6歳の娘が親の顔色を窺う異常事態。私が小学校受験を捨てた理由
【出典】
[1] Rachel Carson(著)、上遠恵子(訳)『センス・オブ・ワンダー』 https://www.shinchosha.co.jp/book/207402/
[2] OECD, "OECD Learning Compass 2030" https://www.oecd.org/en/data/tools/oecd-learning-compass-2030.html
