鉄路と王国の滅亡:K-K線建設の裏で銃弾に倒れたバスタール藩王プラヴィールの真実
はじめに~この記事で学べる事
日本へ鉄鉱石を送り出そうとしたKothavalasa–Kirandul line (通称:K-K線)の建設の傍らでおきた、建設現場であったバスタール藩王国の悲劇と、その後のナクサライトの浸透と闘争の過程がわかります。そして現代の日本人がこうした史実にどう向き合えばよいかを最後に考察します。
K-K線の光の面に焦点当てた記事でまずは復習を!
1.K-K線とバスタール藩王国
K-K線はバイラディア鉱山から掘り出される鉄鉱石を運ぶために建設されたのだが、そもそもバイラディア鉱山とはどこにあるのだろうか。まずはその位置関係を確認しておきたい。
バイラディア鉱山はチャティスガール州の南部のバスタール地区(Bastar District )に位置する。

バイラディアとは「牛のこぶ」を意味する地元の言葉で、地元の人々(以後本稿ではアディヴァシとする)から神聖視されていた。この地区一帯は険しい山岳地帯であり標高は1000mにも及ぶ。すぐ西はゴダヴァリ川で、そのむこうはテランガナ州である。
中心都市はジャグダルプール(Jagdalpur)で、かつてはバスタール藩王国の首都であった。そんなバスタール藩王国に19世紀末に調査が入り、鉄鉱石の存在が確認された。そしてさらに1934年から1935年にかけて、インド地質調査所(GSI)のH. クルックシャンク(H. Crookshank)博士らによるバイラディラの山で詳細な地質調査が実施された。結果、世界最大規模の高品質(純度65%以上)な鉄鉱石(主に赤鉄鉱)の埋蔵が確認されたのである。この鉄鉱石が埋蔵されているという事実がバスタール地区の運命を変えてしまう。
2.バスタール藩王国の小史
バスタール藩王国の歴史は14世紀にまでさかのぼる。この地域にはゴンド族(Gond) であるとかマリア族(Maria)といった先住民が暮らしていた(本稿ではアディヴァシと総称する)。彼らを束ねたのがカーカティーヤ朝(Kakatiya dynasty)という王朝であった。カーカティーヤ朝はもともと現テランガーナ州のワランガルを拠点にしていて周辺を治めていたのだが、1323年にデリー・スルタン朝によって攻撃され、カーカティーヤ朝は滅びてしまった。しかし、一族の王の弟、Annama Deva (アンナマ・デーヴァ)はゴダヴァリ川を越えてこの地に至り、以後この王朝がこの地を治めることになる。
20世紀に入りバスタール藩王国を統治していたのがカーカティヤ朝の20代目の王であるプラヴィール・チャンドラ・バンジュ・デオ(Pravir Chandra Bhanj Deo:以下プラヴィール王)である。プラヴィール王は1929年に生まれ、1936年に即位した。幼年期、藩王国の行政はイギリスに任せて、王自身はライプルの学校で学んた。
そして18歳になった時、バスタールに帰国し親政を開始した。時は1947年で、インドが独立した時のことである。鉄鉱石が埋蔵されているとわかった時、王は生まれたばかりの子供であった。王がもう15年早く生まれていれば、と思わずにはいられない。
3.プラヴィール王の取り組みとその殺害
親政を開始したプラヴィール王は1948年1月1日付で、バスタール藩王国がインドに組み込まれる条約に調印する。バスタール藩王国は正式に解体され、まずは「中央州(のちのマディヤ・プラデーシュ州)」の一部として統合されたのだった。王の親政はわずか数ヶ月であった。
英国に留学していて開明的であった王としては、このままの政体ではバスタール藩王国は運営できず、アディヴァシが昔ながらの生活を続けるのは困難であり、インドに組み込まれた方がアディヴァシの暮らしのためになる、と判断したのであろう。山中に立て籠もって戦う手もあったかもしれないがそうはせず、平和的に事態を収めた。名君と評してよいだろう。インド政府としてはバイラディア鉱山の利権を失わずに済んだというわけだ。
プラヴィール王は王という立場は失ったが、アディヴァシから「神の化身」、あるいは伝統的な守護女神ダンテシュワリの「最高神官」として絶大な敬意と信仰を集めていた。そうした人気を背景にして、プラヴィール王は1957年に国民会議派の国会議員として当選した。王は議員の立場でアディヴァシの福祉のために働こうとしたのである。
一方でこの年、インド政府の閣僚や鉱物資源公社の幹部、さらには仲介を試みる民間商社などが相次いで来日、あるいは在印日本大使館を通じて日本の通産省(当時)や鉄鋼大手(八幡製鐵の三鬼隆社長ら)に接触していた。王の思いとは裏腹に、インドの対日鉄鉱石販売のプロジェクト、K-K線建設の計画は着々と進んでいたのである。
プラヴィール王は議員としてすぐにインドの政界で頭角を現す。会議派の上層部は彼のことがだんだん目障りになってきたようだったが、王は意に介さなかった。
王は献身的にアディヴァシのために働くが徐々に政府との間に溝ができてしまう。バスタールの法では部外者が土地を買うことを禁じていたが、インド独立後その法律は修正され、形骸化されてしまう。結果、部外者が「酒瓶一本」や、「極めて少額な代金」で土地を奪うことになってしまった。
森林が失われ始めた。これはK-K線敷設のための用地買収だったのだろう。現代的な感覚に疎いだろうアディヴァシをだまして手っ取り早く済ませようとしたわけだ。(安く土地を買い叩いたにもかかわらず、複線化の費用までは捻出できなかった。おかげ日本の技師たちが輸送力増強のための知恵を絞らなければならなかった)
こうした動きに反発して、プラヴィール王は議員辞職してしまう。そして反アディヴァシ政策に対する王の反対が増大すると、王は1961年に拘束されてしまう。
1958年に「日印鉄鉱石開発協定」が正式に調印されたのだが 、そのしばらく後のことである。デリーの国民会議派政府としては、日本と協定を結んだ以上、速やかにK-K線を開業させ鉄鉱石を出荷し、その代金で第二次五か年計画を遂行し、国全体を近代化させたかったのだ。政府はプラヴィール王からその特権的な地位を奪い取ってしまった。心身障害があるなどとレッテルを貼ったという話まである。
プラヴィール王の政治活動は止まらない。新しい方策を採らねばならないということで、先住民族の政治団体を全国レベルで立ち上げ、選挙に打って出て9議席を獲得するにいたった。
プラヴィール王は強制的な搾取、警官による女性への狼藉、餓死、 Dandakaranya project と呼ばれた復興計画などで政府と対立した。政府や産業関係者にしてみればプラヴィール王のせいで計画が進んでいかないと感じるようになってきた。
日本が東京オリンピック(1964年)を終え、いよいよ高度経済成長の黄金期へ突き進むまさにその裏側で、悲劇は1966年に起こった。この時系列の冷酷な一致に、私たちは目を背けることはできない。
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日本が支えた鉄路と、バスタール藩王国の未来
かつて日本の国鉄がインドの山間部の鉄道建設を支援しました。その鉄道は日印双方の経済発展に大いに貢献しましたが、悲劇も惹起しました。その歴史…
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