【小説・楮原繭と七日間だけの葬儀屋】

楮原繭が葬儀屋で働くことになったのは、紙を届けに行っただけのはずの日だった。
山を二つ下った町に、小さな葬儀社があった。
名を、
――灯守葬祭。
という。
大通りから一本入った場所にある、古い二階建ての建物だった。
派手な看板はない。
入口に小さな行灯が一つ。
その横に、
「故人と、ご家族の時間を大切にします」
と書かれていた。
繭は、その言葉が嫌いではなかった。
その日、彼女は注文された和紙を百枚届けに来ていた。
弔辞。
会葬礼状。
棺へ入れる手紙。
そういうものに使う紙だった。
「助かった」
店主の御影善三は、紙を受け取るなり言った。
六十を少し過ぎた、小柄な男だった。
黒いスーツが妙に似合う。
「いい紙だ」
「ありがとうございます」
「死人は文句を言わんが、生きてる人は紙一枚でも気にするからな」
「死人も、案外気にしてるかもしれませんよ」
御影は繭を見た。
「そういうこと言う人だったか」
「冗談です」
「ならいい」
御影は紙を光に透かした。
「楮が残ってるな」
「少しだけ」
「きれいにしすぎないのか」
「はい」
「なんで」
「全部取ったら、何でできてるか分からなくなるので」
御影は笑った。
「葬式みたいだな」
「どういう意味です?」
「死んだ途端に、その人の嫌なところを全部取る」
繭は黙った。
御影は紙を机へ置いた。
「短気だったじいさんも、葬式じゃ温厚になる。浮気した男も家族思いになる。口の悪い婆さんも、誰からも愛された人になる」
「そうですね」
「死人は、よく漉される」
繭は少し笑った。
「漉しすぎですね」
「そういうことだ」
そこへ、奥から若い女性が飛び出してきた。
「社長!」
「何だ」
「矢田さん、インフル陽性です」
「は?」
「森本さんも発熱で」
御影の顔が固まった。
「今日通夜二件だぞ」
「はい」
「明日も一件」
「はい」
「明後日は?」
「二件です」
御影は天井を見た。
長く息を吐いた。
それから、繭を見た。
「楮原さん」
「嫌です」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあります」
「七日」
「嫌です」
「七日だけ」
「葬儀屋ですよね」
「そうだ」
「私、紙屋です」
「知ってる」
「経験ありません」
御影は少し首を傾げた。
「本当に?」
繭は黙った。
「昔、やってただろ」
「……少しだけ」
「少しでいい」
「何年前の話ですか」
「死人に流行はない」
「葬儀にはあります」
「口が回るなら働ける」
「帰ります」
「日当出す」
「帰ります」
「紙代とは別だ」
繭は靴を履こうとした。
「二倍」
手が止まった。
御影が言った。
「三倍」
繭は振り返った。
「七日だけですよ」
「決まりだ」
こうして楮原繭は、七日間だけ葬儀屋になった。
*
一日目。
亡くなったのは、八十六歳の男だった。
名前は辻本清次。
長く寝たきりだった。
家族は妻と娘二人。
打ち合わせの席で、長女が何度も言った。
「父は、本当に家族思いの人でした」
次女も頷いた。
「仕事一筋でしたけど、家族のことを一番に考えていました」
妻は黙っていた。
御影は式次第を確認し、繭は横でメモを取った。
「会葬礼状、何か故人らしい言葉を入れますか」
繭が尋ねた。
長女が答えた。
「家族への感謝、ですかね」
次女も言った。
「そうですね。家族を大切にした父なので」
妻が小さく鼻で笑った。
繭は顔を上げた。
娘二人も聞こえたらしい。
「お母さん?」
「何でもない」
「何?」
「何でもないって」
沈黙。
長女が困ったように笑った。
「母も疲れてるんです」
妻は夫の遺影を見た。
そして言った。
「家族思い?」
空気が止まった。
「あなたたち、何を見てたの」
「お母さん」
「あの人、家におらんかったやろ」
「仕事だったから」
「仕事だけじゃない」
長女の顔色が変わった。
「今それ言う?」
「死んだら、言ったらあかんの?」
誰も答えなかった。
妻は続けた。
「四十年よ」
「……」
「私は四十年、あの人に腹立ててた」
「お母さん、もういいから」
「何がいいの」
長女が泣きそうになった。
「お葬式なんだよ」
「だから何」
妻は遺影を見た。
「死んだ途端に、好きにならなあかんの?」
誰も答えられなかった。
御影が繭をちらりと見た。
繭は妻に尋ねた。
「奥様」
「はい」
「ご主人が亡くなって、悲しいですか」
娘たちが息をのんだ。
妻は長く黙った。
「……分からない」
「はい」
「悲しいと思う」
「はい」
「でも」
妻の目から涙が落ちた。
「ほっとしてる」
長女が顔を伏せた。
「やっと終わった、って思った」
繭は頷いた。
「それでいいと思います」
次女が繭を見た。
「いいんですか?」
「何がです?」
「そんなこと思って」
「思ってしまったものは、もうありますから」
「でも父がかわいそうで」
繭は遺影を見た。
「亡くなった方のために、生きている人の気持ちまで書き換えなくてもいいんじゃないでしょうか」
妻は泣いた。
大声ではなかった。
四十年分の水が、ようやく自分の足元に落ちるような泣き方だった。
会葬礼状には、
――長い人生を生き抜いた清次を、今日、家族で見送ります。
それだけを書いた。
家族思いとも。
立派な父とも。
愛された夫とも書かなかった。
妻はそれを読んで、
「これでいい」
と言った。
*
二日目。
亡くなったのは、四十三歳の女性だった。
癌だった。
夫と、小学生の息子がいた。
息子は、通夜の間ずっとゲームをしていた。
親族の一人が怒った。
「お母さんが死んだのに、ゲームやめなさい」
少年は画面を見たままだった。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「じゃあ」
「やめたくない」
親族はゲーム機を取り上げようとした。
繭が止めた。
「そのままでいいですよ」
親族が繭を見た。
「でも」
「やりたいなら」
「非常識でしょう」
繭は少年に聞いた。
「ゲームしてると楽?」
「別に」
「じゃあ、何でしてるの」
少年はしばらく黙った。
「止めたら」
「うん」
「お母さん死んだこと考えるから」
誰も何も言えなかった。
繭は言った。
「じゃあ、今はやってようか」
少年は黙ってゲームを続けた。
その夜。
通夜が終わって誰もいなくなった頃。
少年は一人で棺の前に来た。
ゲーム機を持っていた。
「これ、入れていい?」
繭は聞いた。
「お母さんに?」
「うん」
「大事じゃないの」
「新しいの買ってもらう」
「そう」
少年は棺へ入れようとした。
手が止まった。
「やっぱりやめる」
「うん」
「これ、お母さんに買ってもらったから」
「うん」
「持ってる」
「うん」
少年はゲーム機を胸に抱いた。
繭は何も言わなかった。
悲しみには、正しい形がない。
泣く子もいる。
泣かない子もいる。
ゲームをする子もいる。
怒る子もいる。
腹を減らす子もいる。
眠る子もいる。
それを大人が、
「悲しい時はこうするものだ」
と整える必要はなかった。
*
三日目。
御影が繭に言った。
「お前、葬儀屋向いてるぞ」
「嫌です」
「なぜ」
「人が死にすぎます」
「葬儀屋だからな」
「毎日ですよ」
「仕事だからな」
「慣れるんですか」
「慣れたら辞める」
繭は御影を見た。
「慣れてないんですか」
「三十五年やってるが、毎回違う」
「そうですか」
「同じ死体はある」
「あるんですか」
「事故死、病死、老衰。見た目は似ることがある」
「はい」
「でも、残る人間が違う」
御影は煙草を出しかけて、建物内なのを思い出して戻した。
「葬儀ってのは、死んだ人より残った人の仕事だ」
繭はその言葉を覚えておいた。
*
四日目。
亡くなったのは、五十九歳の男。
自死だった。
妻と成人した娘がいた。
娘は打ち合わせの間、一言も喋らなかった。
妻が言った。
「できれば、自死ということは伏せたいです」
御影は頷いた。
「もちろんです」
「心不全とか」
「死亡原因を会葬者へ説明する必要はありません」
「そうですか」
「はい」
妻はほっとした。
その時、娘が言った。
「私は言いたい」
母親が振り返った。
「やめなさい」
「なんで」
「お父さんがかわいそうでしょう」
「何がかわいそうなの」
「そんなこと知られたら」
「死んだ人が恥ずかしいの?」
「違う!」
「じゃあ誰が恥ずかしいの」
母親は黙った。
「お母さんでしょ」
「やめなさい」
「私だって恥ずかしいよ!」
娘が叫んだ。
「何で死んだのって思ってる!」
涙が出た。
「何で私じゃ駄目だったのって」
母親も泣いた。
「私だってそう思ってる!」
二人とも、しばらく言葉が出なかった。
繭は水を置いた。
娘が言った。
「死んだ人に怒ったら駄目なんですか」
「誰に言われたんです?」
「みんな」
「みんな?」
「死ぬほど辛かったんだから責めちゃ駄目って」
繭は少し考えた。
「辛かったことと」
「……」
「残された人が怒ってはいけないことは、別じゃないですか」
娘は顔を上げた。
「お父さんは辛かった」
「はい」
「あなたも辛い」
「はい」
「両方あっていいと思います」
娘は泣いた。
「むかつく」
「はい」
「会いたい」
「はい」
「殴りたい」
「はい」
「抱きしめたい」
「はい」
「分からない」
「それでいいです」
葬儀の日。
娘は父の棺へ一枚の紙を入れた。
何が書かれているか、誰にも見せなかった。
繭も聞かなかった。
*
五日目。
葬儀はなかった。
その代わり、事前相談の老夫婦が来た。
夫は七十六歳。
末期癌。
妻と一緒に、自分の葬式を決めに来た。
「花はいらん」
夫が言った。
「いるわよ」
妻が言った。
「高いだけだ」
「私が見るの」
「俺の葬式だぞ」
「見るのは私でしょう」
繭は少し笑った。
「笑ったな」
夫が言った。
「すみません」
「こいつ、昔からこうだ」
「何よ」
「俺のことなのに、全部決める」
「あなた何も決めないじゃない」
「死ぬことは決めた」
「決めたんじゃないでしょう」
二人はしばらく言い合った。
そして夫が、ふいに言った。
「まあ」
「何」
「お前が見るなら、花くらい入れろ」
妻が黙った。
「白いのは嫌」
「じゃあ何色」
「黄色」
「なんで黄色よ」
「明るいやろ」
「葬式よ」
「だからや」
妻は泣いた。
「明るくして、何になるのよ」
夫は少し困った顔をした。
「お前が帰る時、暗いよりええやろ」
妻はもっと泣いた。
繭は席を外した。
御影が廊下で聞いた。
「なぜ出た」
「邪魔なので」
「仕事放棄か」
「二人で話せるなら、二人で話した方がいいです」
御影は頷いた。
「それも葬儀屋の仕事だ」
「何もしないことが?」
「邪魔しないことが」
繭は少し笑った。
「紙漉きみたいですね」
「何でも紙漉きにするな」
*
六日目。
若い女性が一人でやって来た。
葬儀の依頼ではなかった。
三年前に母親を亡くしたという。
「今さらなんですけど」
女性は小さな箱を抱えていた。
「手紙を書いたんです」
「お母様へ?」
「はい」
「それを?」
「棺に入れられなかったから」
箱の中には、何十通もの手紙があった。
三年分。
「燃やしてもらえますか」
繭は聞いた。
「どうして?」
「もう手放したくて」
「何を?」
「母を」
その答えが少し速かった。
繭は手紙を一通取った。
「読んでも?」
「……はい」
そこには、
――お母さんへ。
私はもう大丈夫です。
あなたがいなくても、ちゃんと生きています。
あなたからもらった愛に感謝しています。
あなたの娘で幸せでした。
これからは前を向いて歩きます。
と書かれていた。
きれいだった。
きれいすぎた。
「全部こんな感じですか」
「はい」
「三年間?」
「はい」
「怒った手紙は?」
女性の顔が止まった。
「ありません」
「嫌だったことは?」
「ありません」
「本当に?」
女性は俯いた。
「母は病気だったから」
「はい」
「仕方なかったから」
「はい」
「私が介護するのも当然だったから」
「はい」
「最後に私の名前を間違えたのも」
声が揺れた。
「病気だから」
「はい」
「私の結婚を反対したのも」
「はい」
「仕事を辞めろと言ったのも」
「はい」
「全部」
涙が落ちた。
「仕方なかったから」
繭は新しい和紙を一枚出した。
「もう一通書きませんか」
「何を」
「まだ書いてないやつ」
女性は長い間、紙を見た。
やがて筆を取った。
一行目。
――お母さん、ずっと嫌いだった。
手が止まった。
涙が紙へ落ちた。
二行目。
――大好きだったから、嫌いだった。
女性は声を上げて泣いた。
手紙は燃やさなかった。
箱も持ち帰った。
「手放さなくてもいいんですか」
帰り際、女性が聞いた。
「誰が、手放せって言ったんです?」
「みんな」
「また、みんなですね」
女性が少し笑った。
「じゃあ、いつまで持ってていいですか」
繭は答えた。
「持っていたくなくなるまで」
*
七日目。
最後の葬儀だった。
九十八歳の女性。
大往生。
子ども、孫、ひ孫。
大勢集まった。
笑い声もあった。
「婆ちゃん、最後まで食い意地張ってたな」
「病院で饅頭隠してたよ」
「看護師さんに怒られてた」
誰かが笑う。
誰かが泣く。
また笑う。
繭は受付の横でそれを見ていた。
死というものが、必ず暗い顔をして来るわけではないことを知っていた。
でも。
式の直前。
ひ孫の女の子が一人、棺の横に立っていた。
七歳くらい。
「どうしたの」
繭が聞いた。
「ひいばあちゃん」
「うん」
「死んだらどこ行くの」
繭は困った。
「分からない」
女の子は驚いた。
「知らないの?」
「知らない」
「葬儀屋なのに?」
「七日間だけなので」
「何それ」
女の子は笑った。
「天国じゃないの?」
「そうかもしれない」
「お空?」
「そうかもしれない」
「生まれ変わる?」
「そうかもしれない」
「何もない?」
「それも、あるかもしれない」
女の子は少し考えた。
「どれが本当?」
「分からない」
「役に立たないね」
「よく言われます」
女の子は棺の中の曾祖母を見た。
「じゃあ」
「うん」
「ひいばあちゃんがどこにいるか分からないなら」
「うん」
「私が覚えてたらいい?」
繭は少しだけ笑った。
「それなら、できますね」
女の子は満足したように頷いた。
*
七日間が終わった。
繭は黒い制服を脱いだ。
御影が封筒を渡した。
「日当」
「ありがとうございます」
「三倍だ」
「本当に?」
「約束だからな」
「意外と律儀ですね」
「死人相手の商売は信用が大事だ」
「生きてる人相手でしょう」
御影は笑った。
「分かってきたじゃないか」
繭は工房へ持ち帰る木箱を持った。
玄関を出ようとした時。
御影が言った。
「楮原」
「はい」
「七日やって、どうだった」
繭は考えた。
死。
悲しみ。
怒り。
安堵。
罪悪感。
笑い。
ゲーム。
黄色い花。
燃やさなかった手紙。
そして、
どこへ行ったか分からない曾祖母。
「葬式って」
「うん」
「死んだ人をきれいにする場所じゃないんですね」
御影は黙っていた。
「生きてる人が、きれいじゃない気持ちのままでも、そこにいていい場所なんですね」
御影は頷いた。
「それができれば上等だ」
繭は灯守葬祭を出た。
山へ戻る途中、川沿いを歩いた。
水は、前より澄んでいた。
雨の濁りが沈んだのだろう。
けれど、底には石があった。
泥もあった。
枯れ枝もあった。
澄んでいるということは、
何もないということではない。
見えるということだった。
悲しみも同じなのかもしれない。
悲しみを消す必要はない。
怒りを美しく言い換える必要もない。
死者を立派な人に作り替える必要もない。
ほっとしたなら、
ほっとした。
腹が立つなら、
腹が立つ。
会いたいなら、
会いたい。
嫌いだったなら、
嫌いだった。
それらを一度、
自分の器へ置く。
誰かに評価される前に。
正しい喪失の形へ整えられる前に。
悲しみに意味を与えられる前に。
ただ、
そのまま置く。
紙を漉く時、
水の中には様々なものが混じっている。
良い繊維だけが最初から浮いているわけではない。
絡まり。
塵。
皮。
小さな異物。
それらを見ながら、
残すものを選ぶ。
急がない。
乾くのを待つ。
そして、
それでも残ったものが、
ようやく一枚の紙になる。
人の別れも、
きっと少し似ている。
その夜。
繭は工房で、新しい紙を一枚漉いた。
葬儀用ではない。
誰かに売るためでもない。
まだ用途のない紙。
乾いたあと、
隅に小さく一行だけ書いた。
――亡くなった人を美しくする前に、残った人の本当の気持ちを置く場所があってもいい。
しばらく眺めた。
少し説明しすぎだと思った。
だから、水につけた。
墨が滲んだ。
文字が消えた。
もう一度漉き直した。
今度は何も書かなかった。
白い紙を、木箱へ入れた。
いつか誰かが、
死んだ人へ言えなかったことを書くかもしれない。
ありがとう。
ごめん。
嫌いだった。
大好きだった。
許せない。
会いたい。
もう疲れた。
やっと終わった。
そのどれでもいい。
書けなくてもいい。
紙は、
悲しみを正しくするためにあるのではない。
悲しみがまだ正しくなくても、
そこに置いておけるようにするためにある。
楮原繭の七日間だけの葬儀屋は、
それで終わった。
けれど後日、
灯守葬祭の御影から、
一通の封筒が届いた。
中には注文書。
和紙、二百枚。
用途の欄には、
こう書かれていた。
――故人へ言えなかったことを書く紙。
その下に、御影の字で小さく、
――できれば、何も書いてないやつ。
とあった。
繭は笑った。
「最初から、そのつもりです」
工房の外で、
川が流れていた。
今日も、
誰かを救うとも言わず。
悲しみには意味があるとも言わず。
ただ、
流れるものを流し、
沈むものを沈め、
残るものを、
静かに残していた。


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