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【小説・楮原繭と千枚の白紙】


 その男は、千人を救いたいと言った。

 楮原繭の工房を訪ねてきたのは、梅雨の終わりだった。

 山から下りてくる水はまだ少し濁っていて、繭は朝から楮の繊維を洗っていた。

 濡れた繊維を指でほぐし、残すものと流すものを見分ける。

 その作業をしているところへ、黒い車が三台やって来た。

 山の細い道には不似合いな車だった。

 最初の一台から運転手。

 二台目から秘書らしい男女。

 そして三台目から、白髪の男が降りてきた。

 名を、鷹宮宗一郎といった。

 七十歳。

 いくつもの会社を持ち、学校を建て、病院へ寄付し、災害のたびに大金を出す人物として知られていた。

 繭も名前くらいは知っていた。

「楮原繭さんですね」

「はい」

「あなたの紙を、千枚お願いしたい」

 挨拶より先に、鷹宮は言った。

 繭は水の中から手を上げた。

「紙なら漉けます」

「ただの紙ではない」

「では、どんな紙ですか」

 鷹宮は微笑んだ。

「千人を救う紙です」

 繭は少しだけ目を細めた。

 嫌な予感がしたわけではない。

 ただ、

 ――救う。

 という言葉は、少し大きい。

 大きな言葉ほど、一度置いたほうがよい。

「お茶、飲みますか」

 鷹宮は少し面食らった。

「話を先にしても?」

「お茶を淹れる間くらいなら、話せます」

 工房の縁側に四人が座った。

 秘書二人は立ったままだった。

 繭が湯を沸かしている間、鷹宮は話した。

 彼は半年前、妻を亡くした。

 五十年連れ添った妻だった。

 病気だった。

 最後の三か月、妻はほとんど喋れなくなった。

 鷹宮は毎日病院へ通った。

 しかし、仕事もあった。

 会議。

 海外。

 契約。

 寄付。

 財団。

 人に必要とされる人生だった。

「妻は、最後まで何も求めなかった」

 鷹宮は言った。

「立派な方だったんですね」

「そうだ」

 即答だった。

「不満も言わなかった。私の仕事を理解していた。人のために働きなさいと、ずっと言ってくれた」

「そうですか」

「だから私は、妻の死を無駄にしたくない」

 繭は急須に湯を注いだ。

「無駄に?」

「妻が私に残したものを、もっと多くの人へ渡したい」

 鷹宮は鞄から一枚の紙を取り出した。

 印刷された文章だった。

 題は、

 ――生きるための十の言葉。

 一、あなたには価値がある。

 二、苦しみには意味がある。

 三、失ったものは、必ず別の形で戻ってくる。

 四、すべての出会いには理由がある。

 五、悲しみは人を強くする。

 六、許せば自由になれる。

 七、感謝すれば人生は変わる。

 八、与えれば豊かさは巡る。

 九、あなたは一人ではない。

 十、人生に無駄なことはない。

 繭は最後まで読んだ。

「これを」

 鷹宮は言った。

「あなたの和紙に書いて、千人へ届けたい」

「千人?」

「今、生きることに迷っている人たちだ」

「どうやって選ぶんです?」

「財団が全国から募集する」

「なるほど」

「病気の者。家族を亡くした者。仕事を失った者。孤独な若者。介護に疲れた者。人生を諦めかけた者」

 鷹宮は少し身を乗り出した。

「こういう人たちには、言葉が必要だ」

 繭はお茶を置いた。

「そういう時もありますね」

「だからお願いしたい」

「この文章を千枚?」

「一枚ずつ、あなたの紙に」

「印刷ですか」

「いや」

 鷹宮は首を振った。

「できれば手書きがいい」

 秘書の一人が補足した。

「書家をお願いする予定です」

「なるほど」

「楮原さんの和紙なら、一枚一枚表情が違うと聞きました」

「違いますね」

「だからいい」

 鷹宮は笑った。

「人間も一人一人違う。しかし、必要な真理は同じだ」

 繭の手が止まった。

「同じですか」

「同じだ」

 工房の外で、水が流れていた。

 雨で少し濁った水。

 けれど川としては普通の水だった。

 繭は鷹宮の紙をもう一度見た。

 どれも、間違っているとは言い切れない。

 人には価値がある。

 そう言われて救われる夜もある。

 苦しみに意味を見つけることで、生き延びられる人もいる。

 感謝によって視界が変わることもある。

 許すことで楽になることもある。

 全部、あり得る。

 だからこそ、難しかった。

「一つ聞いていいですか」

「もちろん」

「奥様は、この十個を言ったんですか」

 鷹宮の顔が少し止まった。

「何?」

「奥様が、これを?」

「いや」

「では、誰の言葉です?」

「私だ」

 繭は頷いた。

「奥様が亡くなった後に?」

「そうだ」

「どれくらい後ですか」

「……一か月ほど」

「そうですか」

 鷹宮は少し不快そうだった。

「何が言いたい」

「まだ分かりません」

「なら、なぜ聞く」

「分からないから聞いてます」

 しばらく沈黙があった。

 繭は紙を鷹宮へ返した。

「千枚、漉ぎます」

 鷹宮の表情が明るくなった。

「引き受けてくれるか」

「はい」

「ありがとう」

「ただし」

 鷹宮が止まった。

「何だ」

「何も書きません」

「……何?」

「千枚の白紙を納めます」

 秘書二人が顔を見合わせた。

 鷹宮は笑った。

 冗談だと思ったらしい。

「白紙を?」

「はい」

「私は、この十の言葉を書きたいと言った」

「聞きました」

「なら」

「紙は作ります」

「文字は?」

「書きません」

「なぜだ」

 繭は少し考えた。

「千人の人が、同じ言葉を必要としているとは思えないからです」

 鷹宮の眉が動いた。

「真理は、人によって変わらない」

「そうかもしれません」

「なら」

「でも、渡す時期は変わります」

「時期?」

「たとえば」

 繭は十の言葉の三番目を指した。

 ――失ったものは、必ず別の形で戻ってくる。

「今日、子どもを亡くした人に、これを渡しますか」

 鷹宮は黙った。

「戻ってこない、と言われたら?」

「それでも、いつか意味が」

「いつか、なら」

 繭は言った。

「いつか、その人自身がそう思うかもしれません」

「……」

「でも今日、こちらから決めなくてもいい」

 鷹宮は腕を組んだ。

「では、あなたは何も言うなというのか」

「いいえ」

「矛盾している」

「言っていいです」

「ならなぜ書かない」

「あなたが言いたいことと、その人が今必要な言葉は、同じとは限らないからです」

 鷹宮の声が低くなった。

「私は、多くの人を見てきた」

「はい」

「何万人という社員を抱えてきた」

「はい」

「死にたいという若者を支援したこともある。災害地にも行った。病院も作った」

「すごいですね」

「なら、分かるだろう。人は指針を求めている」

「求める人もいます」

「またそれか」

「何です?」

「全部、場合によると言う」

 繭は少し笑った。

「紙も、場合によるので」

「紙?」

「濡れてる時に書けば滲みます。乾きすぎても墨が乗りにくい。厚い紙に向く言葉もあるし、薄い紙でなければ透けないものもあります」

「人間を紙と一緒にするな」

「一緒にはしてません」

 繭は工房の奥にある干し板を見た。

「ただ、同じ言葉でも、渡す時で変わると思ってます」

 鷹宮はしばらく黙っていた。

 やがて立ち上がった。

「白紙なら、他でも買える」

「そうですね」

「あなたに頼む意味がない」

「そうかもしれません」

「断るなら断ればいい」

「紙は漉ぎます」

「なぜ」

「千枚の紙は、必要になる気がするからです」

 鷹宮は何も言わずに帰った。

 依頼は終わった。

 繭はそう思った。

 しかし三日後。

 秘書から電話が来た。

「会長が、白紙でいいと言っています」

「そうですか」

「ただし、条件があります」

「何でしょう」

「あなたが千枚の使い方を考えてください」

 繭は少し困った。

「私が?」

「はい」

「救う方法を?」

「会長は、そういう意味だと思います」

「それは無理です」

 電話の向こうが沈黙した。

「でも」

 繭は続けた。

「使い方なら考えます」

 それから一か月。

 繭は千枚の紙を漉いた。

 機械は使わなかった。

 一枚。

 また一枚。

 楮を煮る。

 洗う。

 叩く。

 水へ放つ。

 簀桁ですくう。

 揺らす。

 重ねる。

 圧す。

 乾かす。

 紙はすべて同じ大きさにした。

 けれど、一枚として同じ紙はなかった。

 少し厚いもの。

 繊維が光るもの。

 端がわずかに波打つもの。

 小さな楮の皮が残ったもの。

 太陽に透かすと雲のような模様が見えるもの。

 千枚。

 出来上がった紙を前にして、繭は一晩考えた。

 翌朝。

 それぞれの紙の隅に、小さく一行だけ印刷してもらった。

 そこには、

 ――今、あなたが誰かに言ってほしい言葉ではなく、あなた自身が本当に言いたいことを書いてください。

 とあった。

 鷹宮財団は、千枚を全国へ送った。

 対象者には何の説明も加えなかった。

 十の言葉も送らなかった。

 白紙が一枚。

 封筒。

 返信用封筒。

 そして、

 書いて返してもいい。

 返さなくてもいい。

 破ってもいい。

 燃やしてもいい。

 何も書かなくてもいい。

 それだけ伝えた。

 一週間。

 何も起きなかった。

 鷹宮から電話が来た。

「これで何が変わる」

「分かりません」

「千枚送ったんだぞ」

「はい」

「何か仕掛けがあるんじゃないのか」

「ありません」

「企画として弱すぎる」

「そうですね」

「報道にも出せない」

「出さなくていいんじゃないですか」

「君は本当に商売が下手だな」

「よく言われます」

 二週間目。

 最初の返信が来た。

 一枚。

 そこには、

 ――助けて。

 とだけ書いてあった。

 差出人は、五十六歳の女性。

 母親の介護を一人でしていた。

 財団が連絡を取り、地域の支援につないだ。

 翌日。

 二枚目。

 ――私は、夫が死んで悲しいのではありません。ほっとしている自分が怖い。

 三枚目。

 ――会社に戻りたいんじゃない。辞めた自分を失敗だと思いたくない。

 四枚目。

 ――子どもを愛している。でも一日だけ、母親を休みたい。

 五枚目。

 ――許せません。

 それだけ。

 六枚目。

 ――本当は、父に褒めてほしかった。

 七枚目。

 ――誰にも迷惑をかけずに死にたいと思っていました。でも、今は迷惑をかけてもいいから一度誰かと飯を食いたいです。

 返事は少しずつ増えた。

 十枚。

 三十枚。

 百枚。

 三百枚。

 全部、違った。

 感謝を書いた人もいた。

 怒りを書いた人もいた。

 恨み。

 後悔。

 笑い話。

 食べたいもの。

 会いたい人。

 もう会いたくない人。

 死者への言葉。

 未来の自分への言葉。

 そして何も書かず、白紙のまま返してきた人もいた。

 その白紙の端には、鉛筆で小さく、

 ――今日はまだ書けません。

 とあった。

 繭はその一枚を長く見た。

「いい紙ですね」

 財団事務所でそう言うと、鷹宮が眉をひそめた。

「何も書いてない」

「だからです」

「意味が分からん」

「書けないと言えたから」

 鷹宮は答えなかった。

 三か月が過ぎた。

 千枚のうち、六百二十三枚が返ってきた。

 財団は、それぞれの内容に応じて支援先を探した。

 経済的な支援。

 相談窓口。

 弁護士。

 医師。

 介護サービス。

 家族への連絡。

 何もせず、ただ保管したものもあった。

 そして鷹宮は、ある日気づいた。

「十の言葉を送るより、仕事が増えたな」

 繭は笑った。

「でしょうね」

「私の言葉なら、一回印刷して終わりだった」

「はい」

「こっちは、一人ずつ違う」

「はい」

「効率が悪い」

「人なので」

 鷹宮は少し笑った。

 以前より、その笑いは乾いていた。

「君は、私が間違っていたと思っているだろう」

「思ってません」

「嘘をつけ」

「十の言葉で助かる人もいると思います」

「なら、なぜ止めた」

「千人全員に同じ薬を出そうとしたからです」

 鷹宮は黙った。

「薬か」

「たとえばです」

「君の紙は薬なのか」

「いいえ」

 繭は首を振った。

「包み紙くらいです」

 その日の夕方。

 最後に近い一通が届いた。

 封筒には差出人がなかった。

 財団へ直接投函されたものだった。

 中には、繭の和紙。

 文字は一行。

 ――あなたは、奥様が亡くなって寂しいんでしょう。

 鷹宮の顔が止まった。

 繭も読んだ。

 秘書たちは黙った。

「誰だ」

 鷹宮が言った。

「誰が書いた」

 誰にも分からなかった。

「ふざけるな」

 声が大きくなった。

「これは私への紙じゃない」

 繭は黙っていた。

「千人のための企画だ」

「はい」

「なぜ私のことを書く」

「分かりません」

「調べろ」

 秘書が動こうとした。

 繭が言った。

「調べるんですか」

 鷹宮が振り返った。

「当然だ」

「なぜ?」

「誰が書いたのか知る必要がある」

「その人が誰なら、言葉が変わります?」

 鷹宮は黙った。

「悪意のある人なら?」

「……」

「奥様を知っている人なら?」

「……」

「ただの勘なら?」

 鷹宮の顔が少し赤くなった。

「君は何が言いたい」

「分かりません」

「またそれか!」

 繭は紙を見た。

 ――あなたは、奥様が亡くなって寂しいんでしょう。

「ただ」

 繭は言った。

「これ、あなたが誰かに言ってほしかった言葉じゃないですか」

 鷹宮は立ち上がった。

「帰れ」

「はい」

 繭は立った。

「今すぐ帰れ」

「分かりました」

 紙を机に置いたまま、繭は部屋を出た。

 廊下まで来た時。

 後ろから声がした。

「楮原」

 繭は振り返った。

 鷹宮は立っていなかった。

 椅子に座っていた。

「……妻は」

 声が小さかった。

「はい」

「最後の日」

 繭は戻らなかった。

 廊下に立ったまま聞いた。

「妻が死ぬ日、私は病院にいなかった」

「はい」

「会議だった」

「はい」

「妻は行けと言った」

「はい」

「大事な契約だった」

「はい」

「何千人もの雇用がかかっていた」

「はい」

「妻も分かっていた」

「はい」

「だから私は行った」

「はい」

 鷹宮は紙を握った。

「正しかった」

 繭は答えなかった。

「正しかったはずだ」

「そうかもしれません」

「妻なら、そう言う」

「そうかもしれません」

「私は間違ってない」

「はい」

 長い沈黙。

 やがて鷹宮が言った。

「でも」

 声が震えた。

「行きたくなかった」

 繭は何も言わなかった。

「会社なんか、どうでもよかった」

「はい」

「契約なんか」

「はい」

「妻のところにいたかった」

「はい」

「ずっと」

 鷹宮の手から紙が落ちた。

「寂しい」

 七十歳の男は、初めてその言葉を言った。

 苦しみには意味がある。

 人生に無駄なことはない。

 与えれば豊かさは巡る。

 千人を救うために書いた十の言葉。

 そのどこにも、

 ――寂しい。

 とは書かれていなかった。

 繭は部屋へ戻った。

 鷹宮の前に座った。

 慰めなかった。

 妻はあなたを許している、とも言わなかった。

 あなたの選択は正しかった、とも言わなかった。

 この寂しさには意味がある、とも言わなかった。

 ただ、鷹宮が泣き終わるまでいた。

 しばらくして。

 鷹宮が聞いた。

「何か言わないのか」

「何を言えばいいです?」

「普通、何かあるだろう」

「今はないです」

 鷹宮は涙の跡を拭いた。

「役に立たんな」

「すみません」

 少しだけ笑った。

 鷹宮も、少しだけ笑った。

 それから半年後。

 鷹宮財団は、新しい事業を始めた。

 名前はなかった。

 大々的な広告もしなかった。

 支援を必要とする人へ、和紙を一枚送る。

 そこには、もう、

 ――あなたには価値がある。

 とも、

 ――苦しみには意味がある。

 とも書かれていない。

 隅に小さく、

 ――何か書いてもいいし、書かなくても構いません。

 とだけ印刷されていた。

 返信された紙は、本人の許可なく公開しない。

 感動的な物語にも加工しない。

 財団の宣伝にも使わない。

 必要なら支援につなぐ。

 必要がなければ、ただ保管する。

 それだけだった。

 マスコミからは評判が悪かった。

「何のプロジェクトか分かりにくい」

「成果が見えない」

「数字にできない」

「ブランドメッセージが弱い」

 鷹宮はそのたびに言った。

「分かりにくくていい」

 以前の彼なら言わなかった言葉だった。

 繭の工房には、時々、財団から追加注文が来るようになった。

 百枚。

 二百枚。

 時には五十枚。

 千枚単位ではなくなった。

 必要な分だけ。

 ある冬の日。

 鷹宮が一人で工房へやって来た。

 黒い車は一台だけだった。

「今日は何枚です?」

 繭が聞いた。

「一枚」

「一枚?」

「自分用だ」

 繭は笑った。

「高くつきますよ」

「構わん」

「何を書くんです?」

「まだ決めてない」

「いいですね」

 繭は、一枚の和紙を差し出した。

 鷹宮はそれを光へ透かした。

 楮の細い繊維が見えた。

 真っ白ではない。

 生成り。

 ところどころに、小さな影。

 完璧ではない紙。

「最初に頼んだ千枚」

 鷹宮が言った。

「はい」

「私は、空っぽだと思った」

「白紙ですからね」

「違うな」

 繭は彼を見た。

「何も書かれていないのと、何もないのは違う」

 繭は少し笑った。

「そうですね」

「最初から分かってたのか」

「何がです?」

「白紙の方が、人の言葉が入る余地があるって」

 繭は首を傾げた。

「紙漉きなので」

 鷹宮は苦笑した。

「便利な逃げ方だな、それ」

「便利ですよ」

 外では、冬の川が流れていた。

 水は澄んでいた。

 けれど、底には砂がある。

 落ち葉がある。

 小さな石がある。

 何も混じっていない水ではない。

 ただ、見えるところまで沈んでいる。

 鷹宮は白紙を木箱へ入れた。

「楮原」

「はい」

「人を救うって、何だろうな」

 繭は少し考えた。

「分かりません」

「またか」

「でも」

 繭は川を見た。

「本人の言葉を書く場所を残すことは、できると思います」

 鷹宮は頷いた。

 それ以上、答えを求めなかった。

 千枚の白紙は、千人を救わなかった。

 人生を変えなかった人もいる。

 書いて何も変わらなかった人もいる。

 紙を捨てた人もいる。

 届いた封筒を開けなかった人もいる。

 救われたと感じた人もいれば、余計に苦しくなった人もいた。

 けれど、千枚の紙には一つだけ共通していた。

 最初から、答えが書かれていなかった。

 だから、

 怒ってもよかった。

 悲しんでもよかった。

 感謝しなくてもよかった。

 許さなくてもよかった。

 意味を見つけなくてもよかった。

 何も書けなくてもよかった。

 そして時々、

 誰かが自分でも知らなかった一行が、

 そこへ落ちた。

 ――助けて。

 ――許せない。

 ――休みたい。

 ――会いたい。

 ――怖い。

 ――寂しい。

 それらは、祈りと呼ぶには小さすぎる言葉だった。

 真理と呼ぶには個人的すぎた。

 誰かを導くには頼りなかった。

 けれど、

 その人の言葉だった。

 楮原繭は今日も紙を漉いている。

 何を書くべきかは知らない。

 誰が救われるのかも知らない。

 正しい言葉も持っていない。

 ただ、

 まだ誰の答えも乗っていない場所を、

 一枚ずつ作っている。

 白紙とは、

 何もない紙ではない。

 誰かの言葉が入ってくるまで、

 余計な答えで埋めないという、

 静かな覚悟なのだ。




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神原月見|言語化審神者(げんごかさにわ) 再び空を飛ぶ為の訓練費用に使わせていただきますm(_ _)m