3Dゲーム制作の先生から教わったCUDAが、私の博士論文になるまで(中編)ーまた研究がしたいー

前編では、私とCUDAの出会いと、尾崎先生との出逢いを書いた。そして、修士課程では擬ポテンシャルの研究を行うことになったことも述べた。今回はその続きである。中編で書くのは、CUDAでもGPU加速でもなく、一度研究の道から外れた私が、どうやって再び第一原理計算へ戻っていったかである。

2011年3月、私は修士論文を提出した。修士論文のテーマは、Morrison–Bylander–Kleinman(MBK)の擬ポテンシャル開発と、その擬ポテンシャルを用いたZrB₂基板上に生成されたシリセン(註1)の応用計算だった。ZrB₂基板上のシリセンは、同じJAISTの高村由起子先生のグループが世界で二番目(註2)に、合成に成功したばかりであり、その第一原理計算は新規性が高かった。

私は修士論文を問題なく提出し、修士号を取得した。擬ポテンシャルの作成は面白く、やりがいがあった。しかし、心の底では第一原理計算プログラムのGPU加速をやりたいとずっと願っていた。そして、博士課程では尾崎先生の研究室を離れることを決断した。

尾崎先生は私に、金沢大学のとある先生を紹介してくださった。その研究室では、現在では積極的に第一原理計算コードのGPU加速を行っている。しかし当時では、まだ行っていなかった。そして、研究室の文化や研究の進め方は、尾崎研究室とは大きく異なっていた。当時の私には、その違いを受け止めるだけの準備が十分ではなかったのだと思う。また、私は以前のnote記事で述べたように重度のASDと診断されており、人間関係の調整はもともと非常に苦手だった。だからこそ、尾崎先生と良好な関係を築けたこと自体が、今思えばかなり例外的なことだったのかもしれない。

さらに、その研究室ではFortranベースの第一原理計算プログラム(平面波ベース)の開発を行っていたが、C/C++しか学んでこなかった私には、Fortranでの開発にはなかなか馴染めなかった。また、OpenMXのNAO基底に親しんでいた私にとって、平面波基底のコードは、まるで別の言語のように感じられた。同じ第一原理計算でありながら、思考の枠組みが違う。これも、私を苦しめた。

これらが渾然一体となって、私の研究を止めてしまった。日々の時間が、空虚に過ぎていった。「今のままではダメだろう」。金沢大学のとある研究室に入ってからわずか数ヶ月で、私は退学を決断した。そして2011年9月、私は金沢大学を退学した。失意だけがあった。

そして、私の苦難の時代が始まった。29歳で、重度の発達障害があり、しかも博士課程中退者である私を雇ってくれる会社は、ほとんど見つからなかった。愛知県の公益法人で一ヶ月だけ働いたり、名古屋市の就労継続支援B型施設で働いたりしたが、私の居場所ではないと思った。
ただ後者については、これはこれで非常に得るものがあり、私に「文明とは何か」を考えさせる契機となったのだが、これはまた別の物語である。

そして、以前のnote記事で述べた、「とある科学の超電磁砲」と御坂美琴との出会いはまさにこの頃である。当時私は無職で、発達障害の二次障害で体調がよくなかった。この頃は、寝るかネトゲをするかで一日を潰していたというのは、以前の記事で述べたとおりである。

この頃、後に多くの人に読まれることになる「第一原理計算と密度汎関数理論」というスライドを作った。「また研究がしたい」。この思いはずっとあった。この思いを実現するため、東京で開かれた「計算シミュレーション勉強会」や、福井県鯖江市で行われた「福井技術者のつどい」、地元名古屋で開かれていた「わんくま同盟勉強会」などに積極的に参加した。「第一原理計算と密度汎関数理論」のスライドは、もともと「計算シミュレーション勉強会」の講演スライドとして作ったものである。

また、私は放送大学にも入学した。放送大学では、あえて自分の専門とは異なる政治経済学を専攻した。これも、私の思想形成に多大な影響があった。

そして2016年。私の人生の一大転機、私が研究の世界へと戻るきっかけとなる出逢いがあった。研究の世界に戻る道は、大学の公募でも、教授からの誘いでもなかった。TwitterのDMだった。「SIESTAで第一原理計算を試したいから、いろいろ教えてくれませんか」そう連絡してきたのが、今では共同研究者であり、大切な友人となっているF氏だった。私は驚いた。「第一原理計算ならもっと詳しい人がいるはずなのに、なぜ私が?」と思った。

私は彼に、SIESTAはよく知らないが、同じNAO基底のプログラムであるOpenMXならそれなりに私は詳しく、協力できることを伝えた。F氏は新潟大学に所属しており、まだ学部3年だという。大野義章研究室に配属される予定だ、と彼は言った。ここでも私は驚いた。

学部3年ということは、ストレートなら20歳か21歳である。私はこの時34歳だった。一回り以上年下の学生だった。そんな彼とDMを重ねるうち、私の中にある思いが育っていった。「もしかしたら、新潟大学で再度博士号取得を目指せるのではないか」。これは間違いなく私の変化だった。

F氏とのやり取りを続けながら、私は研究者としての復帰に向けて、少しずつ準備を進めていた。2019年には、「できるだけ簡単に密度汎関数理論(Density Functional Theory, DFT)を説明してみる(前編)」という記事をQiitaに書いた。この記事は予想以上に多く読まれ、私の思いをさらに強めることになった。「私のDFTの知識は、少なくともまだ誰かの役に立つらしい。博士号取得は夢ではないかもしれない。」と思った。

ただし、この時点でもまだ、2009年に思い描いたOpenMXのGPU加速は遠い夢のままだった。その夢が再び現実味を帯びるのは、2021年9月に新潟大学の博士課程に再入学してからである。

後編に続く。

(註1)シリセンとはグラフェンのケイ素版である。グラフェンと同じ二次元物質だが、グラフェンとの差異が興味深く、盛んに研究されている。
(註2)当初は世界初だと思われていたが、後になって別のグループが先んじてシリセン合成に成功していたことが判明した。


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